同級生・第三部 ーSo Longー|第二話【全5話】|白いアウディは、まだ海を走っていた
――この物語は、『同級生 -after 15 years-』から十年後の、かおりと正人の記録である。
品川のオフィスは、夜になっても明るかった。
ガラス窓の向こうに、高層ビルの灯りが浮かぶ。
「正人さん、コーヒー置いときますね」
彩音がマグカップをデスクへ置く。
「ん、ありがとう」
正人は目を押さえながら苦笑した。
「また頭痛ですか?」
「最近ちょっとな」
彩音は迷いなく引き出しを開け、胃薬を差し出す。
「……なんで場所知ってるんだよ」
「十年見てますから」
そう言って、少し得意げに笑った。
正人がこの会社へ転職してきたのは
四十歳の時だった。
当時、彩音は三十二歳。
最初は、
“やたら仕事ができる女性”という印象だったが、
付き合ってみれば実際は少し抜けているところも
あった。
先日行ったキャリア面談。
彩音が提出したキャリアシートを見て、
正人は吹き出した。
「おいおい」
「え?」
「生年月日、1885年になってるぞ」
数秒の沈黙。
彩音が画面を見つめる。
「あっ……!」
正人は堪えきれず笑った。
「お前、141歳じゃん」
「違います!疲れてるんです!」
「文明開化生まれかよ」
彩音は顔を真っ赤にした。
「もう、すぐ修正します!」
「いや、保存しとこうかな。脅迫材料に使えるし」
「最低です!」
二人は声を合わせて笑った。
その笑い方が、正人には少し懐かしかった。
誰かと、こんなふうに自然に笑ったのは
いつ以来だろう。
彩音は十年間、ずっと隣で働いてきた。
炎上案件、終電帰り、障害対応、
深夜二時のコンビニ。
全部、一緒だった。
だから今では、正人が無理をしている日も、
誰にも頼れなくなっている時も、
彼女にはすべて分かってしまう。
そして
――時々彼が、どこか遠い場所を見ていることも。
もうすぐ四十二歳。
気づけば、部下に囲まれる側になっていた。
仕事は順調だった。
収入もある。
一人で生きていく力も、たぶん十分ある。
それなのに時々、
深夜のオフィスでふと思う。
このまま私は、
誰にも「おかえり」と言わない人生を、
当たり前みたいに受け入れていくのだろうか、と。
その日の夕方。
彩音は窓の外の景色を見つめながら言った。
「最近、自分の人生ちゃんと考えたこと
なかったなって思うんです。
二十代は必死で、三十代は走ってるうちに終わって
……気づいたら四十代も、
もう言い訳のできない年齢になっちゃってて」
少し自嘲気味に笑う彼女の横顔に、
東京の夜景が滲んでいた。
正人は静かに言う。
「彩音は、ちゃんと幸せになった方がいいよ」
「それ、面談コメントですか?」
「半分くらいはな」
彩音は笑った。
でも残り半分が何なのか、最後まで聞かなかった。
聞けば、今の心地よくて切ない距離が、
壊れてしまう気がしたから。
数日後。
四十二歳になる、誕生日の日。
帰ろうとした彩音を、正人が呼び止めた。
「彩音」
「はい?」
正人は小さな紙袋を差し出した。
「誕生日だろ」
「……覚えてくれてたんですか?」
「十年一緒に働いてりゃな」
中にはアンティークピンクのレザーポーチ。
上質だけど、絶妙に恋愛っぽさを排除した、
大人のチョイスだった。
彩音は微笑んだ。
「正人さん、こういうの選ぶの上手いですよね」
「アクセサリーは誤解されるし、ハンカチだけだと
雑だしな」
「そのバランス感覚、本当に管理職っぽいですね」
「だろ?」
彩音は少しだけ視線を落とした。
本当は、誤解したかった。
「私のことを、ひとりの女性として特別に思ってくれているのかも」と、
一瞬でも自惚れたかった。
でもこの人は、絶対に線を越えない。
その完璧すぎる誠実さが、
今の彩音にはひどく苦しかった。
帰り際、デスクの上のハガキが目に入る。
『Restaurant SurfWind
10周年記念パーティ
8月13日開催』
珍しく、正人がその紙をずっと見つめていた。
彩音は、静かに、そして正確に察してしまった。
十年間、隣にいた。
でもきっと、この人の心には、
最初からずっと別の景色が残っていた。
彩音は、ハガキから静かに視線を外した。
「……その人なんですね?」
正人が顔を上げる。
「え?」
「正人さんが、ずっと忘れられなかった女性って」
正人は答えなかった。否定もしなかった。
その残酷なほどの沈黙だけで、十分だった。
彩音は小さく、強がって笑ってみせる。
「勝てる気しないなぁ」
冗談みたいに言いながら、
胸の奥がちくちくと痛んだ。
十年かけても、届かない場所があるのだと。
正人は視線を落としたまま、静かに言った。
「……ごめんな」
彩音は首を振った。
「謝らないでください」
そして、涙をこらえるように、もう一度笑う。
「なんかそれ、もっと好きになるやつなんで」
二人は少し笑った。
窓の向こうで、東京の光が滲んでいた。
その夜。
正人は十年前と同じ、
白いアウディのエンジンをかけた。
買い替える理由が、最後まで見つからなかった。
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マガジン|同級生 ─流れゆく季節の中で─
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マガジン|同級生 -after 15 years-
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同級生シリーズ第三部 かおりと正人の黄昏編
マガジン|同級生(最終章) So Long
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