19の私とメゾン・グリーンアップル|第三話【全九話】|君といる私の部屋 202号室
「ただいま。」
誰もいない部屋なのに、私は毎日そう言う。
少し前までは、返事なんて期待していなかった。
でも、今は違う。
いつか、この部屋へ帰ってきてほしい人がいる。
あの夏、二人でコテージに泊まってから、ずっと思っていた。
いつか健二も、この部屋へ来るんだろうなって。
初秋。
メゾン・グリーンアップルの窓から見える空は、春よりも高く、夏より少しだけ寂しく見えた。
学校が終わって、アルバイトをして、スーパーへ寄って帰る。
そんな変わらない毎日も、私は嫌いではなかった。
テーブルに買い物袋を置いたところで、スマホが震えた。
画面には、健二の名前。
『今日、行ってもいい?』
その文字を見ただけで、頬がゆるんだ。
けれど、すぐに部屋の中を見回す。
ベッドの上には、脱いだままのカーディガン。
テーブルには授業で使ったノートと、飲みかけのマグカップ。
床には、朝のまま置き忘れたバッグ。
『うん。でも、ちょっと散らかってるよ?』
送信した直後、健二から返事が届いた。
『夕食、一緒に食べよう』
「ちょっとじゃないじゃん……。」
私はスマホを置き、慌ててカーディガンを畳んだ。
クッションを整え、テーブルを拭き、ノートを本棚へ戻す。
鏡の前を通り過ぎてから、二歩戻った。
前髪を直し、唇に薄くリップを塗る。
「健二が来るだけなのに。」
そうつぶやきながら、鏡の曇りまで拭いてしまった。
廊下から足音が聞こえるたび、手が止まる。
違う部屋の前で足音が消えると、ほっとするような、少し残念なような気持ちになった。
やがて、チャイムが鳴った。
私はもう一度だけ鏡を確かめ、玄関へ向かった。
ドアを開けると、健二が少し照れくさそうに立っていた。
「おじゃまします。」
「どうぞ。」
私が一歩下がった瞬間、健二の腕が背中に回った。
ふわりと引き寄せられ、そのまま唇が重なる。

ほんの一瞬だった。
けれど、離れたあとも、私はドアノブを握ったまま動けなかった。
「もう……急すぎるよ。」
「会いたかったから。」
「昨日も会ったでしょ。」
「一日でも長い。」
困ったように笑う健二を見ていたら、怒る気持ちなんて最初からなかったことに気づく。
「瑠奈は?」
「何が?」
「会いたかった?」
私は視線を落とした。
廊下の冷たい空気が入ってくるのに、頬だけが熱い。
「……少しだけ。」
健二が黙ったまま、私の顔をのぞき込む。
「かなり。」
小さく言い直すと、健二の目がやわらかくなった。
もう一度抱き寄せられ、私はその胸元に額をつける。
ドアはまだ半分開いたままだった。
「寒いから、早く入って。」
そう言いながらも、私はすぐには離れなかった。
靴を脱いだ健二は、部屋の中をゆっくり見回した。
白いカーテン。
白いベッドカバーと、ピンク色のクッション。
小さなテーブル。
本棚には、授業で使う本とお気に入りの雑誌が並んでいる。
棚の端には、少しずつ増えた化粧品と、小さなテーブルランプ。
「瑠奈らしい部屋だな。」
「どういう意味?」
「ちゃんとしてるけど、かわいい。」
「今、“ちょっとかわいい”って言おうとしたでしょ。」
「言ってない。」
「顔に書いてあった。」
健二は笑いながら、ピンクのクッションを軽く抱えた。
その姿が妙に部屋になじんでいて、私は思わず見つめてしまう。
自分だけの場所だった202号室に、健二がいる。
それだけで、いつもの部屋が少し違って見えた。
「お腹すいた。」
健二の声で我に返る。
「今日は一緒に作るんだからね。」
「俺も?」
「夕食、一緒に食べようって言ったのは健二でしょ。」
スーパーで買ってきた材料をテーブルに並べた。
今日の献立は、ハンバーグとサラダ、それからコンソメスープ。
「玉ねぎ、お願い。」
「みじん切り?」
「できる?」
健二は包丁を持ち、玉ねぎとしばらく向き合った。
「たぶん。」
その答えを聞いた瞬間、少し不安になった。
けれど、真剣な横顔がかわいくて、何も言わず隣でひき肉をこねる。
しばらくすると、健二が何度も目を瞬かせ始めた。
「目、痛い……。」
声まで弱くなっている。
私はこらえきれずに笑った。
「笑うなよ。」
「ごめん。でも、すごい顔してる。」
「瑠奈がやればよかったのに。」
「できるって言ったの、誰だっけ?」
健二は目元を手でぬぐいながら、再び包丁を握った。
「俺も覚えておかないと。」
「どうして?」
「将来、困らないように。」
その言葉に、ひき肉をこねていた手が止まった。
健二は何も気づかず、いびつな形の玉ねぎを切り続けている。
将来。
その中に、ほんの少しでも私がいるような気がした。
私は何も言わず、俯いたままハンバーグの形を整えた。
口元がゆるんでしまうのを見られたくなかった。
フライパンへハンバーグを並べる。
香ばしい匂いが部屋に広がり始めたところで、黒い煙が少し上がった。
「あっ。」
「瑠奈、これ大丈夫?」
「たぶん大丈夫じゃない。」
二人で慌てて火を弱める。
出来上がったハンバーグは、片面だけ少し焦げていた。
それでもサラダとスープを添えて並べると、立派な夕食に見えた。
「いただきます。」
健二は一口食べ、少しだけ首を傾げた。
「何、その顔。」
「うまい。」
「今、焦げてるって思ったでしょ。」
「香ばしいと思った。」
「それ、同じ意味だから。」
二人で笑いながら食べる。
少し焦げたハンバーグも、形のそろわない玉ねぎも、今日は全部おいしかった。
食事のあと、私はマグカップを二つ並べ、コーヒーを入れた。
健二と床に座り、ベッドを背もたれにしてテレビをつける。
番組は流れていたけれど、内容はほとんど頭に入らない。
肩が触れそうで、触れない。
少し動けば重なりそうな距離が、妙に気になった。
私がマグカップへ手を伸ばすと、健二の指先と触れた。
二人とも手を引かなかった。
健二の小指が、私の指へそっと重なる。
たったそれだけのことなのに、テレビの音が急に遠くなった。
しばらくして、健二が小さく息を吸った。
「瑠奈、あのさ。」
いつもより慎重な声だった。
私はテレビから目を離さず、返事を待つ。
「今日、泊まっていってもいい?」
胸の奥が一度、大きく鳴った。
付き合っているのだから、いつかはこんな日が来ると思っていた。
夏のコテージでは、同じ部屋で朝を迎えた。
けれど、自分の部屋でとなると、意味が少し違う気がする。
ここは私が毎日眠り、朝を迎える場所。
そこに健二がいる夜を想像すると、急に落ち着かなくなった。
「……うん。大丈夫だよ。」
答えると、健二の肩からわずかに力が抜けた。
「でも、ベッド狭いよ。」
「狭くても、瑠奈と一緒がいい。」
私は手にしていたマグカップへ視線を落とした。
コーヒーの表面に映る自分の顔が、情けないくらい緩んでいる。
「そういうこと、普通の顔で言わないで。」
「だめだった?」
「だめじゃないけど……。」
続きを言えないまま、マグカップを両手で包んだ。
健二はリュックを引き寄せ、中から二つの袋を取り出した。
「実は、これ。」
袋から出てきたのは、色違いのパジャマだった。
私のものは淡いピンク。
健二のものは、落ち着いたグレイッシュカラー。

「ジェラピケ?」
「うん。泊まれたら着ようと思って。」
「最初から泊まるつもりだったの?」
「お願いするつもりだった。」
健二は少し気まずそうに笑った。
私はピンクのパジャマを胸元へ当ててみる。
やわらかな生地が手の中でふわりと揺れた。
「かわいい。」
「瑠奈に似合うと思った。」
「健二のも、かわいいよ。」
「俺も?」
「パジャマが。」
言い返すと、健二はわざと不満そうな顔をした。
二着のパジャマをベッドの上へ並べる。
ピンクとグレーが隣り合っている。
それを見た瞬間、胸の奥に小さな部屋がもう一つできたような気がした。
そこでは毎晩、二人分のパジャマが並び、二つのマグカップが乾かされている。
まだ十九歳なのに、私の想像だけはずっと先まで走っていった。
「瑠奈、また何か考えてる?」
健二の声で、私は慌ててパジャマを畳んだ。
「何も考えてない。」
「顔、笑ってるけど。」
「笑ってない。」
けれど、頬を押さえた自分の手まで笑っているようだった。
健二がお風呂に入っている間、私は部屋の中を意味もなく歩き回った。
タオルを置き直し、ベッドの端を整え、パジャマの位置まで変える。
浴室から水音が聞こえるたび、同じ部屋に健二がいることを実感した。
やがて、グレーのパジャマ姿で健二が出てきた。
髪はまだ少し濡れている。
見慣れない姿なのに、不思議なくらい自然だった。
「どう?」
両腕を軽く広げる健二に、私は笑った。
「似合ってる。」
「かわいい?」
「それは聞かなくていい。」
私は着替えを抱え、逃げるように浴室へ入った。
湯船につかりながら、ぼんやり天井を見る。
今日、健二が来て。
一緒に夕食を作って。
このまま泊まっていく。
朝、目を覚ましたときもいる。
考えるたび、胸の奥がくすぐったくなった。
お風呂から上がると、健二がテーブルに二つのグラスを用意していた。
コンビニで買ってきたノンアルコールのロゼが注がれている。
淡いピンク色が、部屋の明かりを受けてきらめいていた。
「乾杯しよう。」
「何に?」
「初めての202号室。」
グラスを合わせる。
澄んだ音が、小さな部屋に響いた。
今日学校であったこと。
アルバイトで失敗したこと。
礼美先生が授業中に少しだけ怖かったこと。
話しては笑い、笑ってはまた話す。
大きな出来事は何もない。
それでも、そんな時間がたまらなく幸せだった。
窓の外では、秋の風が白いカーテンを静かに揺らしていた。
私は健二の肩へ、そっと頭を預ける。
健二は何も言わず、自分の頬を私の髪へ寄せた。
会話が途切れても、気まずくならない。
肩越しに伝わる体温を感じながら、私は目を閉じた。
この部屋に健二がいる。
それだけで、夜がいつもよりやわらかかった。
翌朝。
目を開けると、すぐ近くに健二の寝顔があった。
一瞬、まだ夢の中にいるのかと思った。
けれど、肩に回された腕の重さも、頬にかかる息も、本物だった。
私は起こさないように、そっと顔を眺めた。
自分のベッドに健二がいる。
昨日まで一人で眠っていた場所に、好きな人がいる。
その事実を確かめるように、私は布団の中で小さく笑った。
「何、笑ってるの?」
閉じていたはずの健二の目が、うっすら開いた。
「起きてたの?」
「瑠奈が見てるから起きた。」
「見てないよ。」
「ずっと見てた。」
否定しようとした瞬間、健二の指が私の頬に触れた。
髪を耳にかけ、そのまま額へ軽くキスをする。
「おはよう。」
その声が近すぎて、私は布団を鼻の上まで引き上げた。
「隠れるなよ。」
健二が布団を少し下げる。
私はまた上げる。
朝から始まった小さないたずらは、最後には二人の笑い声に変わった。
狭いベッドの中で肩をぶつけ合いながら、こんな朝が何度も続けばいいのにと思った。
少し遅く起きた私たちは、街のレストランでブランチをすることにした。
部屋を出る前、健二がテーブルの上に置かれた学校のパンフレットを手に取った。
卒業後の進路について書かれたものだった。
「瑠奈も、もう卒業後のこと考えてる?」
「まだ漠然とだけど。」
「あとで聞かせて。」
健二はパンフレットを元の場所へ戻した。
何気ない言葉だったのに、昨日の「将来」という言葉を思い出す。
私は小さくうなずき、部屋の鍵を閉めた。
レストランの窓際には、やわらかな秋の日差しが差し込んでいた。
健二は来春、地元のシステム会社へ就職する。
会社は五所川原にあるけれど、八戸にも事務所があり、そこへ勤務する予定だという。
「八戸にいられるんだね。」
「たぶん。出張はあると思うけど。」
私はカップを両手で包みながら、少しだけ安心した。
「瑠奈は?」
「私は……Webデザイナーになりたい。」
口にすると、まだ輪郭の曖昧な夢が、少しだけ現実へ近づいた気がした。
「どこで働きたいとかは?」
「そこまでは、まだ分からない。」
八戸で仕事を探すのか。
別の街へ行くのか。
今の私には、何も決められなかった。
健二は急かすことなく、うなずいた。
窓の外を歩く人たちを眺めていると、不意に言葉がこぼれた。
「一緒にいられたらいいね。」
言ったあとで、急に恥ずかしくなった。
十九歳の私には、未来を約束できるほどのものは何もない。
仕事も、住む場所も、これから変わっていく。
それでも健二は笑わなかった。
テーブルの上で、私の手の甲に自分の指を重ねる。
「いられるようにすればいい。」
強い約束ではなかった。
けれど、その言葉が今の私にはちょうどよかった。
私は重なった指を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。
健二に送ってもらい、一人で202号室へ戻った。
「ただいま。」
いつものように言ってから、部屋の中を見回す。
テーブルには、二つ並んだマグカップ。
シンクには、少し焦げたままのフライパン。
ベッドには、きれいに畳んだピンクのパジャマ。
ピンクのクッションは、健二が使ったせいで少しだけ形が崩れていた。
さっきまで健二がいた場所に、まだ体温が残っているような気がする。
私はクッションを抱き上げ、そこへ頬を寄せた。
「もう、すっかりなじんじゃって。」
誰もいない部屋で、一人つぶやく。
返事はない。
それでも今日は、部屋が静かすぎるとは思わなかった。

夜。
お風呂から上がり、昨日もらったピンクのパジャマに着替えた。
袖口に頬を寄せると、やわらかな生地が肌に触れる。
鏡に映る自分を見て、また頬が緩んだ。
そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。
健二からだった。
『泊めてくれてありがとう。楽しかった』
短い文章を、私は二度読んだ。
すぐに、もう一通届く。
『日曜日、空けといて』
『どうして?』
返事はすぐに来た。
『まだ秘密』
「また秘密なんだから。」
私は一人で笑い、スマホを胸に抱いた。
窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしている。
二十歳の誕生日まで、あと少し。
この部屋で過ごす毎日が、少しずつ二人の思い出になっていく。
二つ並んだマグカップ。
少し焦げたハンバーグ。
色違いのパジャマ。
目を覚ましたとき、隣にいた健二。
そんな何気ない一つ一つが、私にはたまらなく愛おしかった。
いつか、この部屋へ帰ってきてほしい人。
そう思っていた人は、もう一度ここで「おはよう」と言ってくれた。
そのことが、十九歳の私には何よりもうれしかった。
つづく。

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