東京ワンルームの恋 ─Time Goes By─|第五話【全五話】|もう一つのワンルーム
東京ワンルームの恋 ─Time Goes By─|第五話(最終話)|もう一つのワンルーム
――この物語は、35歳になった礼美が振り返る、東京で過ごした恋と別れの記録である。
私の中に、一度だけ、
二人の未来を信じた季節があった。
その季節は、
今も心の奥で静かに眠っている。
それでも私は、
前を向いて生きていく。
私は東京で、恋をした。
そして、東京で少しだけ迷った。
あの部屋で過ごした時間は、間違いだったとは思わない。
嬉しかった日も、苦しかった日も、
全部があの頃の私を作っている。
でも、終わった恋の場所に、いつまでも立ち止まることはできなかった。
あの東京で出会った彼へ。
ありがとう。
――そう言えるようになるまでには、少しだけ時間が必要だった。
東京を離れた春。
八戸の朝は、東京より静かだった。
カーテンを開けると、懐かしい街の色が広がっていた。
小さなワンルーム。
まだ片付いていない段ボールが、壁際に並んでいる。
机の上には、新しく買ったパソコン。
その隣には、東京から持ってきた小さな箱。
中には、捨てられなかった思い出が少しだけ入っている。
でも、もう開けることはなかった。
私は電源を入れる。
画面が明るくなる。
静かな起動音が、小さな部屋に響いた。
東京で追いかけていたものとは違う形で、
私はもう一度、自分の人生を作り始めていた。
新しい部屋には、まだ生活の匂いが少なかった。
それでも朝になるたびに、
少しずつ「私の部屋」になっていく。
窓辺には小さな観葉植物を置いた。
東京では育てる余裕なんてなかった。
葉が一枚ずつ増えていくたび、
私も少しずつ前へ進んでいるような気がした。
システム専門学校のインストラクターとして働き始めて、
最初の頃は緊張した。
教える側なのに、
私自身がまだ覚えることばかりだった。
授業が終わるたびに教材を読み返し、
夜になると部屋でパソコンを開く。
東京で経理として覚えた「正確さ」と、
ここで必要になる「伝えること」は、
似ているようで少し違っていた。
「先生、ここが分からないです。」
その一言に、
最初は心臓が跳ねた。
「少し一緒に見てみようか。」
そう言いながら隣に座る。
画面を指差し、
一つずつ説明していく。
「なるほど!」
その笑顔を見るたびに、
私まで少しだけ嬉しくなった。
教える側なのに、
気づけば私のほうが、
たくさんのことを教わっていた。
分からないことを恥ずかしいと思っていた頃。
立ち止まることを、失敗だと思っていた頃。
そんな昔の自分を、
少しずつ許せるようになっていた。
「大丈夫。ゆっくりでいいですよ。」
その言葉は、
生徒に向けているようで、
昔の私自身にも向けていたのかもしれない。
教室には、
いろいろな人が集まっていた。
高校を卒業したばかりの子。
社会人を経験して学び直す人。
夢を探している人。
新しい仕事に挑戦したい人。
みんな、
それぞれの理由で未来を探していた。
その中に、
瑠奈という女の子がいた。
少し不器用で、
でも真っ直ぐな瞳をした十九歳。
彼女はいつも一生懸命だった。
分からないことを、そのままにしない。
できるまで何度も挑戦する。
そんな姿が、
どこか昔の自分と重なって見えた。
そして、
その隣には、
いつも健二がいた。
明るくて、
よく笑う青年だった。
二人が同じ画面を見ながら笑っている姿を見ると、
自然と頬が緩む。
恋は、
いつ始まるのか分からない。
気づいた時には、
もう心のどこかに入り込んでいる。
あの頃の私も、
きっとそうだった。
私は東京で恋を失った。
でも、人生まで失ったわけじゃなかった。
英雄と過ごした時間は、
今も私の中に静かに残っている。
笑い合った休日も、
仕事帰りに寄り道した夜も、
何気なく交わした「お疲れ」の一言も。
そして、
守ることのできなかった未来も。
すべてが、私の人生だった。
だから、
忘れようとは思わない。
思い出は消すものではなく、
抱きしめながら歩いていくものなのだと、
ようやく思えるようになった。
八戸の小さなワンルームで、
私は少しずつ新しい自分を見つけていく。
朝はカーテンを開け、
部屋に風を通し、
コーヒーを淹れて仕事へ向かう。
何気ない毎日。
東京にいた頃は、
そんな時間を退屈だと思っていた。
でも今は違う。
何も起こらない一日が、
どれほど幸せなのかを知っている。
授業が終わると、
「先生、ありがとうございました。」
そんな一言を掛けられる。
「こちらこそ。」
自然と笑顔で返せる自分がいた。
東京では、
誰かに認められることばかりを求めていた。
今は、
誰かの役に立てることが嬉しい。
それだけで、
今日という一日が少し好きになれる。
時間は戻らない。
だからこそ、
人は前へ進める。
あの日の私へ。
大丈夫。
あなたが選んだ道は、
ちゃんと未来につながっている。
窓を開けると、
春の風が部屋を通り抜けた。
その風は、
東京ではなく、
これからの私の方へ吹いていた。
いつかまた、
誰かを好きになれる日が来る。
今は、
その日を少しだけ楽しみに待てる気がしていた。
東京ワンルームの恋
― 完 ―
あとがき
最後まで『東京ワンルームの恋 ─Time Goes By─』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、十八歳で東京へ出た礼美が、恋を知り、傷つき、別れを経験し、それでももう一度自分の人生を歩き始めるまでの七年間を描いた物語です。
東京のワンルームで始まった恋は終わりました。
けれど、礼美の人生は終わりません。
人生は、思い通りにならないことのほうが多い。
それでも人は、
誰かを愛し、
誰かに支えられ、
少しずつ前へ進んでいきます。
東京で過ごしたワンルーム。
そして、
八戸で始めたもう一つのワンルーム。
場所は変わっても、
時間は静かにつながっています。
もし礼美の歩んだ時間が、
皆さまの心に少しでも残ってくれたなら、
作者としてこれほど嬉しいことはありません。
本当にありがとうございました。
Ryo.
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