19の私とメゾン・グリーンアップル|第一話【全九話】|私の心をゆさぶる人
「危ない。」
あの日、初めて私の腕に触れた手の温かさを、
私は今でも覚えている。
たったそれだけで、
恋は始まるんだと知った。
この物語は、十九歳の私が初めて一人暮らしをして、
初めて恋を知り、少しずつ大人への階段を上り始めた頃の記録です。
商業高校を卒業し、市内のアパレルショップに就職した。
毎日、笑顔で接客をしていた。
でも、お客様を笑顔にするたびに、
自分の笑顔が少しずつ消えていく気がした。
売上の数字。
ノルマ。
閉店後に並ぶ売れ残った服。
「このままでいいのかな。」
そんな思いが、毎日少しずつ積もっていった。
けれど、その年の冬。
私は辞表を出した。
十九歳。
もう一度、自分の人生を選び直したかった。
春、私は実家を離れた。
地元には、私が目指していたWebデザイナーを学べる学校がなかったから。
両親を説得して決めた、インターネット関連の専門学校。
借り上げ寮制度で用意されたのは、初めての一人暮らしの部屋だった。
メゾン・グリーンアップル。
それが、私の新しい城の名前。
――ここが私の城なんだ。

カーテンの色も、照明の明るさも、
まだ私のものになりきれていなかったけれど、
胸の中には夢がいっぱいに広がっていた。
それと同時に、何でも自分でやらなければならない責任も生まれた。
お母さんが、
「あんた一人で大丈夫なの?」
と苦笑していた。
でも私は負けない。
今度こそ、自分で選んだ道だから。
私は長かった髪を切った。
鏡の中には、
毛先がふわりと内側へ揺れるボブの私が映っていた。
少しだけ知らない顔。
でも、それは少しだけ大人になった私にも見えた。
もう弱音は吐かない。
そんな決意だけは、十九歳の私にもあった。
入学式が終わり、デザイン科の教室に入った。
高校を卒業したばかりの子もいれば、おじさんもいる。
私と同じように、一度社会へ出てから学び直そうとしている人もいた。
女子の多い環境で育った私には、
男子が多い教室は少し新鮮だった。
この教室で恋をするなんて、
そのときの私は思ってもいなかった。

同い年の美香とは、すぐに友達になった。
そして、よく話しかけてくる人がいた。
健二。
二歳年上。
明るくて、よく笑う人。
私の話を、いつも最後まで聞いてくれる人だった。
ゴールデンウィーク。
健二からドライブに誘われた。
美香と、健二と仲のいい玲央も一緒だった。
「いいじゃん、行こうよ」
二人に背中を押されるように返事をした。
四人で向かったのは、奥入瀬渓谷。
健二の真っ白なシビック。
車内には、彼が選んだのであろう少し背伸びしたムスクの香りが漂っていた。
美香と玲央の笑い声が、
緊張していた私の肩を少しずつほぐしていく。
道中、美香が何度も私を見る。
玲央はわざと健二をからかう。
私は窓の外を見ながら、
頬の熱をごまかしていた。
奥入瀬を歩いていると、美香が言った。
「ジュース買ってくるね」
「俺も行く」
玲央もついていく。
急に、二人きりになった。

少しだけ気まずい沈黙が流れる。
足元の石につまずきそうになった。
「危ない。」
健二が、とっさに私の腕をつかむ。
「ご、ごめん。」
「けがしなくてよかった。」
その手はすぐ離れた。
でも、触れられた腕だけが熱かった。
川のせせらぎだけが聞こえる。
何か話してくれないかな、と。
そう思った、その瞬間。
「今度、二人で会えないかな?」
心臓が一拍、遅れた。
「うん、いいよ。今度は海に連れてって」
自分でも驚くほど自然に言えた。
鼓動だけが速い。
戻ってきた二人が、私の顔を見て笑う。
全部、お見通しなんだろうな。
その夜、風呂上がりのベッドで何度も思い出した。
私はきっと、顔に出やすい。
日曜日。
健二が迎えに来た。
助手席で横顔を見つめていると、
十九歳の私が、少しずつ知らない私になっていく気がした。
海は、思っていたより静かだった。
シーズン前の駐車場は、がらんとしている。
砂浜を歩いていると、
ふいに手をつながれた。
大胆だな、と思いながら、
私はその手を握り返した。

「冷たい。」
私の手を包んだ健二が笑う。
「すぐ温かくなるよ。」
「ほんとに?」
健二は少し照れたように笑った。
「たぶん。」
思わず二人で笑う。
でも、本当に少しずつ温かくなっていった。
選ばれたのは、私。
そんな根拠のない自信が、
潮風と一緒に胸いっぱいに広がっていく。
商業高校時代の失敗談を話すと、
健二は声を立てて笑った。
「寒くない?」
さりげない一言。
その優しさが、胸の奥をくすぐる。
やっぱり、私を特別に見てくれている。
そう思うだけで、うれしかった。
夜、自宅近くの公園で車を止めた。
エンジンを切っても、
健二はすぐに降りなかった。
ハンドルに置いた指が、小さく動く。
親指で革をなぞり、また離す。
シフトレバーに触れ、
窓の外を見る。
深く息を吸う。
昼間より少しだけ固い横顔。
――くる。
喉の奥が、ひり、と乾く。
「今日はありがとう。また会いたいな」
沈黙。
鼓動が強くなりすぎて、
耳の奥で自分の心音が響いていた。
彼は一瞬だけ目を伏せ、
それから真っすぐ私を見た。
「瑠奈。
俺、瑠奈と付き合いたい。
ずっと好きだった」
視界の端が、わずかに白くなる。
「……うん」
頷いた瞬間、
肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜けた。
健二の表情が、ふっとほどける。
「よかった。」
その一言で、
張りつめていた緊張がほどけた。
「緊張した?」
「……うん。」
「俺も。」
顔を見合わせて笑う。
その笑顔がうれしくて、
次の瞬間、肩を抱き寄せられた。
背中に回る腕の力が、
思っていたより強い。
瞳を閉じる。
初めて触れた唇は、
思っていたよりやわらかかった。
十九歳の春。
私は、恋人になった。
家に入り、ベッドへ飛び込んだ。
部屋へ戻っても、
火照りはなかなか冷めなかった。
たまらず美香に電話をかける。
「絶対うまくいくよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「私も彼氏が欲しいよ」
予言みたいなその言葉に背中を押され、
気づけば時計は午前二時を過ぎていた。
携帯を握ったまま、
天井を見つめる。
ふと窓の外を見ると、南の空に、
さそり座が大きなS字を描いて静かに横たわっていた。
明日になれば、
また学校で会える。
その約束があるだけで、
胸は幸せでいっぱいだった。
ピロン。
『今日はありがとう。』
すぐに返信する。
『こちらこそ😊』
数秒後。
『もう会いたい。』
思わず枕に顔を埋めた。
十九歳の春は、
まだ始まったばかりだった。
つづく

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