19の私とメゾン・グリーンアップル|第二話【全九話】|夏が終わる頃、私は少しだけ大人になった
「今日もかわいい。」
待ち合わせ場所に着くなり、
健二はそう言って笑った。
朝から鏡の前で、
毛先の内巻きを何度も直した私は、
その一言だけで顔が熱くなる。
「ありがとう。」
照れ笑いを浮かべながら、
助手席に乗り込んだ。
白いシビックが、
ゆっくりと走り出す。
しばらくすると、
健二がまた私を見て笑った。
「ほんと瑠奈、かわいいよ。」
「うん、ありがとう。」
少し照れながら答える。
「でも、何回も言わなくていいの。」
「いやいや。」
健二は首を横に振る。
「何回だって言っちゃうよ。」
「えっ?」
「まじ、かわいいんだから。」
私は思わず窓の外を向いた。
もう。
この恥ずかしさを、
私はどこにぶつければいいの。
でも、
そんな言葉が嬉しくて仕方なかった。
十九歳の夏。
初めての一泊二日の高原デート。
胸の高鳴りは、
車のエンジン音より、
ずっと大きかった。
青空の下、
高原へ続く一本道を、
白いシビックが軽快に走っていく。
窓を少し開けると、
草原の匂いを乗せた風が頬をなでた。
「気持ちいいね。」
「うん。」
健二が笑う。
その横顔を見るたびに、
また胸がドキッとする。

「何?」
「……何でもない。」
「また見てた?」
「見てない。」
「うそ。」
「見てないもん。」
そんな他愛もない会話が、
幸せだった。
昼過ぎ、
湖のほとりに建つ木造コテージへ着いた。

木の香りが漂うテラス。
窓の向こうには、
青い湖と緑の山々。
「すごい……。」
思わず声が漏れる。
「気に入った?」
「うん。」
健二が嬉しそうに笑った。
荷物を置き、
二人でテラスへ出る。
風がカーテンを優しく揺らしていた。

夕食は、
地元の食材を使ったコース料理だった。
彩り豊かな前菜。
焼きたてのパン。
香ばしく焼き上げた肉料理。
デザートには、
季節のフルーツ。
そして、
ロゼ色のノンアルコールスパークリング。
健二がグラスを持ち上げた。
「乾杯。」
「乾杯。」
グラスが小さく鳴る。
「二十歳になったら、
今度は本物で乾杯しよう。」
「約束?」
「約束。」
その一言が、
何より嬉しかった。
夜。
静かなコテージ。
窓の外では、
虫の声が響いている。
緊張していたのは、
きっと私だけじゃなかった。
健二は、
何度も
「大丈夫?」
と聞いてくれた。
その優しさに触れるたび、
少しずつ肩の力が抜けていく。
私は健二の手を握った。
「ありがとう。」
その夜、
私はまた一つ、
大人への階段を上った。
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
目を覚ますと、
健二が私を見て笑っている。
「おはよう。」
「……おはよう。」
昨夜のことを思い出した途端、
急に恥ずかしくなって、
私は布団を鼻まで引き上げた。

「まだ隠れるの?」
「だって……。」
健二はくすっと笑う。
「瑠奈。」
「な、何?」
健二が布団を少しだけめくる。
「きゃっ!」
慌てて布団を引っ張り返す私を見て、
健二は声を立てて笑った。
「もう、バカ健二!」
頬を膨らませる私に、
健二は優しく近づく。
そして、
額にそっとキスをした。

「おはようのキス。」
その一言だけで、
さっきまでの恥ずかしさが、
少しだけ幸せに変わった。
「……もう。」
私は笑いながら、
健二の肩を軽く叩いた。
チェックアウトを済ませ、
帰り道のサービスエリアで休憩する。
アイスクリームを半分こしながら、
何でもない話で笑い合う。
「また来たいね。」
「うん。」
「今度は二十歳になってから。」
「約束。」
指切りをして、
二人で笑った。
その日の夜。
実家へ帰ると、
母が玄関まで迎えてくれた。
「おかえり。」
「ただいま。」
「楽しかった?」
「うん。」
照れくさくて、
それ以上は言えなかった。
父には、
一泊旅行のことは話していない。
恥ずかしいし、
聞かれたら困るから。
部屋へ戻ると、
スマホが鳴った。
美香だった。
「おかえり!」
「ただいま。」
「どうだった?」
「……楽しかった。」
「それだけ?」
「もう。」
「顔が見えなくても分かる。
今、絶対ニヤニヤしてる。」
「してない。」
「してる。」
私は笑いながら、
ベッドへ倒れ込んだ。
十九歳の夏。
忘れられない思い出が、
また一つ増えた。
夏休みが終わり、
メゾン・グリーンアップルから通う
二学期が始まった。
久しぶりに会う健二に、
どんな顔をすればいいんだろう。
あのあとも毎晩電話では話していたけれど、
顔を合わせるのは久しぶりだった。
教室へ入ると、
美香が私を見つけて、
いたずらっぽく笑った。
「おはよう。」
「……何?」
「別に。」
「絶対、何かある。」
「だって瑠奈、幸せそうな顔してるもん。」
「もう。」
頬が熱くなる。
「顔に書いてある?」
「うん。大きく。」
「うそ。」
「うそじゃない。」
二人で笑っていると、
教室のドアが開いた。
健二が入ってくる。
私と目が合う。
何も言わず、
少しだけ笑う。
それだけで、
胸の奥がふわっと温かくなった。
「おはよう。」
「おはよう。」
たったそれだけ。
でも、
昨日まで電話で話していたのとは違う、
特別な嬉しさがあった。
そのときだった。
静香先生が教室へ入ってくる。
その後ろには、
一人の女性。
「今日からWebデザイン科を担当します。
礼美です。
よろしくお願いします。」

新しいインストラクターだった。
先日まで東京で働いていて、
地元へ戻ってきたという。
一目見ただけで、
きれいな人だと思った。
髪は上品にまとめたお団子。
紺色のブラウス。
黒いタイトスカート。
そして、
胸元には小さく光る、
シルバーのネックレス。
落ち着いた話し方。
自然に伸びた背筋。
私が毛先を内巻きにして、
少しでも大人っぽく見せようとしていることが、
少し恥ずかしくなるくらい、
自然な大人の女性だった。
授業が終わる。
健二は礼美先生のところへ行き、
デザインのことで質問をしていた。
私は少しだけ気になったけれど、
先生なんだから当たり前だよね、
そう自分に言い聞かせた。
「帰ろ。」
廊下へ出ると、
健二が待っていた。
「うん。」
二人で校舎を出る。
夕暮れの風が、
毛先をふわりと揺らした。
歩きながら、
健二がそっと私の手を握る。
「えっ……。」
「恋人なんだから。」
「ちょっと……みんな見てるよ。」
「だめ?」
「……もう、バカ健二。誰かに見られたら怒るからね。」
私は照れながら、
健二の手をぎゅっと握り返した。
「やっぱり瑠奈は優しい。」
「調子に乗らないの。」
そう言いながらも、
笑顔だけは隠せなかった。
メゾン・グリーンアップルまで続く坂道を、
二人でゆっくり歩く。
夕暮れの空は、
少しだけオレンジ色に染まっていた。
「次の休み、どこ行く?」
「まだ決めてない。」
「じゃあ、一緒に考えよう。」
「うん。」
その一言だけで、
胸がいっぱいになった。
恋をすると、
何気ない帰り道まで、
特別な時間になる。
健二が、
私の手を少しだけ握り直す。
私も、
握り返した。
それだけで、
幸せだった。
十九歳の秋は、
まだ始まったばかりだった。
つづく

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30歳になった礼美が振り返る、18歳から東京で過ごした恋と別れの記録。
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