東京ワンルームの恋 ─Time Goes By─|第四話【全五話】|オリオン座が照らした季節
――この物語は、35歳になった礼美が振り返る、東京で過ごした恋と別れの記録である。
23歳のクリスマスの少し前。
英雄からの電話は、いつもより少しだけ弾んでいた。
「リッツ、取れた」
少し間を置いて続く。
「結構埋まっててさ。キャンセルが出たんだ」
その声には、無理をしたというより、
"ちゃんと形にできた"
そんな安心が、声の奥ににじんでいた。
「すごいね」
そう返すと、電話の向こうで照れくさそうに笑った。
ザ・リッツカールトン。
ガールズトークでもよく話題になるホテルだった。
「いつか泊まってみたいね」
そんな話を友達と笑い合ったことを思い出す。
まさか、自分がその日を迎えるなんて思ってもいなかった。
その夜。
私は東京のワンルームにいた。
白い壁。
小さなテーブル。
冷蔵庫の静かな音。
それだけの部屋なのに、その日は少しだけ明るく見えた。
「当日、楽しみにしてて」
その声は、いつもより少しだけ嬉しそうだった。
私はスマホを握りながら、小さくうなずく。
この人は今、ちゃんと前に進んでいる。
そのことが、素直に嬉しかった。
クリスマス当日。
リッツのスウィートルーム。
光と音と人の気配が、現実を少しだけ遠ざけていく。
窓いっぱいに広がる東京の夜景。
そして冬の空には、オリオン座が静かに輝いていた。
「きれいだね」
そうつぶやくと、
英雄の肩が少しだけ緩んだ。
その横顔を見ながら思う。
ああ、この人は今、ちゃんとここにいる。
グラスが触れる。
乾杯。
その小さな音が、静かな部屋へ溶けていく。
ワインの赤が揺れるたび、
二人の距離も少しずつ近づいていく。
肩が触れる。
それだけで十分だった。
夜が深くなるほど、
言葉は少しずつ減っていく。
でも、それは気まずさではない。
満たされていく時間だけが、
静かに流れていた。
「今日、ちょっと寒くなかった?」
ラウンジから戻る途中、
英雄が何気なく言った。
「うん。でも大丈夫だった」
「そっか」
短い返事。
ほんの少しだけ、言葉が短かった気もした。
気のせいだと思えるくらい、
小さな違和感だった。
私はその夜、
英雄の温もりに包まれながら眠った。
その夜が、
二人にとってどんな夜になるのか。
そのときの私は、
まだ何も知らなかった。
朝。
カーテンの隙間から柔らかな光が差し込む。
隣で目を覚ました秀雄が笑う。
「起きた?」
「……まだ」
布団の中でそう答えると、
笑い声が返ってくる。
「……恥ずかしいから、そんなに見ないでよ」
英雄はいたずらっぽく笑っていた。
そんな何気ない朝が、
たまらなく幸せだった。
昨日と同じ朝が、
明日も続いていく。
そんなふうに信じていた。
部屋へ戻ってからも、
ワンルームには幸せの余韻が残っていた。
けれど、
その頃から少しずつ、
時間の流れが変わり始めていた。
まだ気づかないふりができるほど、
小さな変化だった。
年が明けた。
実家で正月を過ごし、
少しだけ心が軽くなった私は東京へ戻る。
ショールームは年度末へ向けて慌ただしくなり、
商談も電話も増えていく。
営業も販売も、
みんな少しだけ足早だった。
「忙しい?」
「まあな」
「そっか」
それだけの会話。
悪い空気ではない。
ただ、
少しだけ余白が増えていった。
それと同じ頃だった。
私の体にも、小さな変化が訪れていた。
最初は疲れが残っているだけだと思っていた。
ある夜。
「今ちょっと立て込んでてさ」
英雄が言う。
「仕事?」
「うん、まあそんな感じ」
その声は変わらない。
でも、
ほんの少しだけ呼吸が浅かった。
「無理しないでね」
「大丈夫、大丈夫」
いつも通り、
二度繰り返す"大丈夫"。
その言葉に安心しようとしていたのは、
きっと私のほうだった。
電話を切ると、
部屋にはまた静けさが戻る。
冷蔵庫の音だけが、
規則正しく響いていた。
スマホを伏せる。
既読のつかないメッセージが、
少しずつ増えていく。
ある日から、
電話は短くなった。
「今、大丈夫? 少し相談があるの」
「ごめん、ちょっと無理かも」
その"ちょっと"の中に、
たくさんの時間が詰まっていた。
私は、
気づかないふりをするのが、
少しずつ上手になっていった。
夜が早く終わる。
返事が翌日にずれる。
会う約束が、
"未定"に変わる。
どれも決定的ではない。
ただ、
生活だけが少しずつ速くなっていく。
彼の世界の速度と、
私の部屋の時間が、
少しずつ重ならなくなっていく。
それでも私は、
「今は忙しいだけ」
そう思うことにしていた。
窓の外では、
東京の夜景がいつもと変わらず輝いている。
冬の空には、
オリオン座が静かに瞬いていた。
あの星だけは、
昨日と何も変わらない。
変わり始めていたのは、
私たちのほうだった。
オリオン座が照らした季節。
私はまだ知らない。
この小さな違和感が、
やがて私の人生を大きく変えていくことを。
そして、
もう一つのワンルームが、
私を待っていることも。
次回最終回へ つづく
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