ビジ哲は哲学研究ではない — それでも哲学をビジネスに持ち込む理由
先日、こんな批判を受けました。
「ニーチェをビジネス研修にするな」「哲学を名乗るな」と。
読みました。全部読みました。
そして、正直に言います。半分は、その通りだと思いました。
認める部分
哲学を専門的に研究している人から見れば、ビジ哲の記事は「薄い」でしょう。
ニーチェの畜群道徳を、職場の同調圧力に当てる。神の死を、会社のルールを疑う話に使う。超人を、自分の言葉で話せるビジネスパーソンのイメージに重ねる。
哲学の原典と向き合ってきた人には、それが「矮小化」に見えることは、理解できます。
批判は受け取りました。
ただし、目的が違います
ビジ哲は、哲学研究のコンテンツではありません。
最初からそのつもりで書いていません。
ターゲットは、哲学書を手に取ったことがない管理職です。毎日、部下との関係、意思決定、チームの空気、評価の難しさ——そういう現実の中で消耗している人たちです。
そういう人に、「まずカントの純粋理性批判を読め」とは言えません。届かないのです。
だから、哲学の概念を「入口」として使っています。
完全な再現ではなく、現実を見るためのレンズとして。
「レンズとしての哲学」は詐称か

哲学の概念を応用することは、哲学の歴史の中で繰り返されてきました。
ドラッカーはキルケゴールの実存思想に影響を受けながら、マネジメント論を構築しました。誰も「キルケゴールを名乗るな」とは言いませんでした。
マルクスの疎外論は、現代の労働環境を語る経営学者が今も使っています。「マルクスを詐称している」とは言われません。
哲学の概念を借りて現実を照らすことと、哲学を純粋に研究することは、別のプロジェクトです。どちらが上でも下でもない。目的が違うのです。
ビジ哲は後者ではなく、前者です。それは最初から変わりません。
批判の中で、一番鋭かった指摘
ただ、批判の中にひとつ、本当に考えさせられた指摘がありました。
「組織が悪いのに、社員に『強くなれ』と言う。会議設計が悪いのに、若手に『自分の声を持て』と言う。上司が空気を支配しているのに、部下に『畜群から抜けろ』と言う。それは責任転嫁だ」
これは、重い指摘です。
構造の問題を、個人の覚醒にすり替えてはいけない——その緊張感は、今後の記事でも持ち続けたいと思っています。哲学で個人を鼓舞するだけでなく、構造を見る目を育てることが、ビジ哲の深みになるはずです。
ビジ哲が目指していること

管理職がフーコーを読んで「自分の常識は誰が作ったのか」と一瞬でも立ち止まれたなら、それで十分だと思っています。
ニーチェを読んで「自分は今、ルサンチマンに陥っていないか」と自問できたなら、それで十分です。
そしてもし、ビジ哲がきっかけで、本物の哲学書を手に取る人が一人でも増えたなら——それは、哲学研究者にとっても悪い話ではないはずです。
入口を作ることは、入口の先を否定することではありません。
ビジ哲はこれからも、哲学をビジネスに持ち込み続けます。
薄いと言われても。
研修と呼ばれても。
それが、働く人の現実に届く唯一の方法だと、今は信じています。
ビジ哲 Mick
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