《超適当雑記142》2025年10月4日(土)【母親~氷解する思い~⑥】
〚4804文字〛
こんにちわ。入谷です。
まず感謝とご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。
■感謝とご報告〚238文字〛
明日見健作 青春の旅 さま
momoさま
ペリンさま
メルト&クリエイトさま
龍神さま
りーまむさま
の、6名の方から、以下の記事、
について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、いつも感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。どうもありがとうございます!。どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。
※ ※ ※ ※ ※
りこ@一生養生さま
からは記事内のおいて、以下の、
について、
ご紹介していただきました。
いつも取り上げてくださり、ありがとうございます。大変感謝です。そして半年継続記念おめでとうございます。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
※ ※ ※ ※ ※
※ ※ ※ ※ ※
■母親~氷解する思い~⑥〚4299文字〛
前回『母親~氷解する思い~⑤』はこちら。↓ ↓ ↓
・母親との対話・
しばらく危険な状態が続いた後、数日後には状態が安定しました。
左手足の軽度な麻痺と、話し方がもつれる等、後遺症は残りましたが、徐々に回復し、本格的なリハビリが始まります。予後も順調ということで、その年の月末には回復期病院への転院が決まりました。
僕も会社へ戻り、病院には数日おきに着替えを取りに行き、週末には元妻や娘たちも来るようになりました。
何となく日常に戻りつつあったのですが、
以前から母親との関係について心配してくれていた元妻から、今こそ互いの蟠りを解消すべき時、と言われ、僕自身もその機会が今来つつであることを密かに感じておりました。
最初は拒絶されることを恐れていましたが、
意外なことに、母親はこちらの気持ちに気付いたのか、行く度に会話らしい会話をするようになりました。
休みの日に行っては、母親が話したいことを聞いたり、昔の話をしたり、僕からも気になっていたことを聞きたりしました。
何から話し始めたのか忘れましたが、子供の話になった時、
母親は見舞いに来た孫娘について「◎◎(長女)ちゃんも△△(次女)ちゃんも見ないうちに大きくなったね」。天井を見つめながら、表情は綻んでいました。
唐突に「あんたは自分の子供に接するのが苦しくならない?」と、こちらを向いて母親。
「そういうのは特にはないな」。
「そう」。母親は視線を天井に戻しました。「私はね、あんたには申し訳ないけど、子供は嫌いだった。子供が苦手なのに子供を育てなければならないことに葛藤があって、毎日苦しかった。しっかりした子に育てようと必死になって空回り。あんたに毎日当たり散らす結果になった」「怖いんだよ。二人が「ばあば、ばあば」って来た時も、気持ちは嬉しいんだけどね、自分があの子たちを傷付けてしまわないかって」。
「知ってる。不器用な感じ、見てりゃ分かるもん」。
「本当にね、あんたが私みたいな親にならなくて本当に良かったよ」。母親はしみじみと言いました。
母親の思わぬ返答にしばし沈黙しました。
「まだ子供が小さいから、これから自我が育って思春期になったら、俺だってうるさい親父になるかも知れない」
「うるさい親父でも私よりマシならいいんだよ」。笑いながら母親。
僕は予てより疑問だったことについて触れてみたいと思いました。
「何で母さんは子供が嫌いだったの?」。
「私は子供の頃から子供が嫌いだったのよ」。母親は溜息を吐きました。
母親は子供時代、実家が代々続く商家の本家だったこともあり、幼い頃からたくさんの子供がうちにいたといいます。
休みになると、さらに親戚の子供たちが遊びに来て、自分は静かに絵を描いたり、本を読んだりしたかったのに、その時間を邪魔されるのが嫌だと感じていたそうです。
というより、子供は皆、明るく振る舞い上手な叔父(弟)の方に行き、自分の所へ来る子供はいなかった。だからいじけた気持ちになり、子供を自分から遠退けて嫌うようになっていったといいます。そのいじけの根幹にあるのは、やはり跡取りの叔父を贔屓し、自分を蔑ろにする祖父母(両親)の態度だったようです。
「思い込みだと思いたくて一度聞いたことがあるんだよ、父ちゃんに。□□(叔父)と差別して育ててきた?かって」
「そんで?」
「そしたら「そうだ」って何の躊躇もなく答えたんだよ」
「じいさんっぽいね」
卑屈さと親への渇愛で綯い交ぜになった母親は、嫌われないように、聞き分けの良い真面目な良い子を演じていく一方、子供も、叔父も、自分も嫌いになり、子供という存在が、無意識に自分の歪さの象徴となっていったのでしょう。以来今のような性格が形成されていったのだと思います。
子育ての面においても、どんなに努力しても子供は好きなれなかったと語っています。
「あんた、子供の時イジメられてたろう」と、神妙な顔で母親。「毎日嫌な思いさせて、無理に学校行かせてごめんね、助けてやらんくて。普通の親なら学校や相手の親に掛け合って対処するもんなのに。クリニックに勤めてた時だって私は見て見ぬ振りをしてた。本当に酷い親、親失格だ」
「あのクリニックの患者だったから言えなかったんだろ。そんな昔のことはもう気にしてないって」
「あんたには謝らないきゃいけないことが沢山あるね」。
「分かってるよ。でもなぁ、俺は怒られるよりも、殴られるよりも、自分を責めるような態度を見るのが一番辛いんだ」。
母親は少し姿勢を起こして続けます。「進路にも煩く口出ししたね。何卒だろうが、何大学だろうが、どこで働いていようが、健康で幸せに暮らしてくれていれば、本当はそれで良かったのにねえ」
母親が僕の進学する大学や就職先にこだわった理由は、例のクリニックにあったようです。
母親は祖父との関係の反動からか、
皆から尊敬され、地位や権力を持っている人物を敬慕したがる傾向にありました。しかし本人曰く、職場では愛想も無ければ、要領も悪いので、自分は嫌われていたといいます。
母親が当時働いていたクリニックの医院長は名医で、周囲の地域住民からの信頼も厚く、評判も良かったと思います。僕も病気がちだったので、体調を崩す毎に、よく診てもらいました。しかし、周囲の評価と、その人物の内面は当然ながら一致するものではありません。
ある時、医院長から呼び出された母親は、僕の高校入学を機に、高校を卒業したら社員からパートなるように言われたそうです。
子供の学費や生活があるから困ると言ったら、医院長は僕の定時制高校のレベルから考えて、卒業して働くものだと思っていたらしく、偏差値的に大学に行っても高卒で働くのと変わらないのではないか、と笑われたというのです。
多分院長先生は他意なく普通に言ったのだと思います
しかし卑屈になりがちな母親は、それが悔しく、
僕に立派な学歴と職歴をつけさせたい思いから、あの頃はあのような言動ばかりしてしまっていたと述懐していました。
「そんなことがあったんだ。それは嫌な思いをしたね」
「先生のことなんて気にしないで、あんたを応援してあげれば良かった」
「いいんだよ。応援されたって、その後目の病気が再発して希望の職には就けなかったんだから」と冗談交じりに言った僕。「寧ろ家庭問題や病気があったから、一人立ちできたわけだし、自分で選択肢を作って切り拓くことができた。必要な通過儀礼だと思ってるから、これで良かったんだよ」
「本当に申し訳ないね」
「申し訳なくなんてねえよ。そのお陰で今の生活があって、それなりに生きてるんだからさ」
「そうかい」。切ない表情の母親が印象に残ります。
「退院したら、また旅行に行こうよ」
「まだ行ってない神社とかさ」
※ ※ ※ ※ ※
会話中何度謝られたことでしょうか。
病気の所為か、母親が小さく見えました。
僕は以前の母親がどんな風であったかなんて気にしていません。許すも許さないもないし、世間が良く言う『毒親』にしたくありません。そんな言葉で人の人生を簡単に決め付けるような真似を僕はしたくなかった。そして何より、母親を悲しい存在にしたくなかったのです。
でも、祖父や叔父との関係、父方親族との関係、夫との関係、この出来の悪い僕との関係、職場や友達に至るまで、何の因果か、不器用な母親は常にババを引かされているような側面があったように感じます。
・誇り・
遺産相続に関しても、母親は普通の人とは違いました。
でも結果として、それで良かったのです。
入院から数週間経ったある日、突然叔父夫婦が見舞いにやって来ました。
叔父は母親の職場復帰を強く望んでおり、励ましの言葉を掛けて帰ったそうですが、僕には、彼の意図が分かっていました。
表面上は心配しながらも、自分たちに財産的な累が及ぶことを警戒し、様子を探りに来たのだと思いました。
祖父の生前相続の話し合い数年前に終結しており、すでに家業を継いでいる叔父らに財産の大半が渡ることが決定していました。
この時まだ祖父は存命でしたから、叔父からすると、母親が病気になったことで、祖父が万一遺言を書き換えないか心配になっていたのでしょう。
あるいは、母親から権利を主張されることを恐れていたのかもしれません。
祖父は数年前から持病の悪化でずっと体調が芳しくなく、入退院を繰り返していて、祖父や会社の資産管理は叔父が一任していました。
叔父の暮らしぶりが派手になっていったことは知っていました。
車も数ヶ月おきに変わっていましたし、従兄弟が立ち上げた会社にお金が流れていることも知っていました。
それは叔父曰く、財産を独り占めしたいからではなく、専門家を雇ってやった相続税対策が上手く行かず、単に借り入れの返済に追われているからだそうです。
母親は実家の内情について何一つ知らされていませんでしたが、全てを分かっていたのかもしれません。
話し合いの時でさえ、先祖代々続けてきた家業をどうしても守りたいという叔父の話を信頼していましたし、大した説明ないまま遺留分を放棄、向こうの提示したごく少額の財産の配分に判を押しました。
専門家が家裁に提出する書類では、祖父から母親に相当分の援助があったように書かれていたそうですが、母親は父親が亡くなった時も、自分が失業した時も、1円たりともお金のことで実家を頼ったことはありません。
母親は僕を出産する前後1年間と、失業時の数ヶ月以外は、ずっと正社員として働いてきました。
家族間の愛情に問題があると、相続では大なり小なりトラブルになるといいます。
でも僕は母親が立派な人間に見えました。
本来なら感情がぶつかり合うかもしれない相続という場で、
自分は身を引くつもりだったと述べ、なおも実家の会社が上手く行くことを願い、祖父や叔父の今後を案じていたのです。
そこには祖父が母親を避け、叔父夫婦が一緒に暮らして世話をしていたことも関係していたのかもしれません。
入れ知恵をした親類も何人かいました。煽る親類もいました。
中には無知だと笑って馬鹿にした親類もいました。信じられないことに、僕にわざわざ連絡をしてきて、嗾けて来る親族もいました。
でも母親は、自分の判断に迷いはない、と極めて爽やかな態度で答えていました。
だから思います。
僕この母親で本当に良かった、と。
老人の身体介護に関わる仕事を天職と話し、金だ資産だ、醜い欲もなく、実家の財産を頼って生きているような母親でなくて本当に良かったと思っているのです。
僕の中で意識が変わったことで見方も変わったのかもしれません。
母親はババを引いたのではなく、人間としての誇りを見せてくれたのです。
次回《母親~氷解する思い~⑦》へ続きます。
※ ※ ※ ※ ※
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が明日が素晴らしい1日になりますように。
