《超適当雑記146》2025年10月25日(土)【母親~氷解する思い~⑧(最終/その後)】
〚3514文字〛
こんにちわ。入谷です。
まず感謝とご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。
■感謝とご報告〚555文字〛
ももさま
だんけひつじさま
カオリ|星読み×アート|♈🐑🌕さま
ペリン🍡さま
メルト&クリエイトさま
コツコツさま
天砂美佳@いつもありがとう💐さま
より、7名の方から、以下の記事、
について、
マガジンにて紹介していただきました。
大量の写真と長文にも関わらず、取り上げてくださり、いつも有難く思います。また、皆様のご好意がとても励みになっております。そして、お読みくださった皆様に感謝申し上げます。
どうもありがとうございます。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
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りこ@一生養生さま
りーまむさま
より、以下の記事、
について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、いつも感謝しております。そのご好意がとても嬉しく、励みになっております。
どうもありがとうございます!。どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。
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建礼門 葵 さま
より、以下の記事、
について、
マガジンに追加していただきました。
お陰様で1000スキ達成いたしました。
取り上げてくださり、ありがとうございます。有り難く思います。大変感謝でございます。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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■母親~氷解する思い~⑧(最終/その後)〚2873文字〛
前回『母親~氷解する思い~⑦』はこちら。↓ ↓ ↓
・石切劔箭神社・
2017年に入って間もなく、仕事で大阪に行っておりました。
1ヶ月の出張でしたが、休みの日には観光地を巡り、土産物を買っては自宅や実家に送っていましたが、自分の中で社寺仏閣要素を求めていました。
周囲の神社を探しいたところ、『石切神社』という神社を知りました。
お百度参りで有名な神社らしく、病気回復や縁切り、諸願成就を願う人々が鳥居と本殿を結ぶ境内に置かれた百度石の周りを100回往復して、祈りを捧げる、特殊な参拝方法が習慣となっているそうです。
石切劔箭神社について ↓ ↓ ↓
石切神社は、大阪府東大阪市にある神社で、正式名称は、石切劔箭(つるぎや)神社。
古くから「石切さん」として親しまれ、病気平癒や厄除けなどの神様として信仰を集めています。主祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)と、その子孫である、可美真手命(うましまでのみこと)で、剣と矢を象徴する武神として知られています。
2月下旬の某日、まだ年始参りの期間で神社は勿論、参道の商店街は賑わっていました。
神社に入ると、誠に沢山の人々がお百度参りに励んでおり、一目見てその光景に圧巻されました。
2ヶ所ある百度石を一往復する度に、本殿に手を合わせて拝み、その工程を何度も何度も繰り返していました。
それはまるで電車ごっこのように、白い息を吐きながら、それぞれのペースを守って真摯な祈りを捧げる神聖な儀式。その真剣な顔を見ると、ひとりひとりには祈らずにはおられない深い事情があるのでしょう。
自分もその集団に入り、専用の百度参り札を握り締め、彼らと同じように石の周りをぐるぐる回り、祈りを捧げました。
木の札に垂らされた100本の糸が10本、20本と折られていき、最初は100回もやるつもりはなかったけれど、50往復を超えた時にはもう、やめるという考えは頭から消えていました。
祈りと共に様々な母親との思い出が去来しました。
子供時代の母親のヒステリックな厳しさ。少年時代の母親への不信感。青年時代の距離を置いた付き合い方。
それでも、どこかで母親が心配で健康を案じていました。
かつて母親が僕を旅行に連れて行ってくれた時、きっとこのような気持ちだったのではないかと思ったのです。
また、どんな時も、僕が気付かなかっただけで、不器用ながら自分のことを思っていてくれたのだ、と、しみじみ感じる事が出来ました。
100回お参りを終えた後、何か分からなけれど、身体が軽くなり、30年来の母子の関係の厄が落とされたような気分でした。
同年10月にも参拝し、母親が回復したことを報告しました。
・祖父の死・
昨年2024年5月、祖父が92才で死去しました。
晩年は心臓病や脳梗塞、慢性腎不全など、複数の持病を抱えながら、入退院を繰り返していました。数年前から老人ホームに入所し、人工透析にも通っていました。
年に数回、会いに行っては、本当に短い会話をして帰るのが通例になっていましたが、母親は、この時まで祖父に関するトラウマ的感情をずっと持っていました。
でもある時、母親が面会に行くと、祖父から謝罪されたそうです。
「□□(叔父)を優遇し、◎◎(母親)を蔑ろにして来たことを申し訳なく思っている」と祖父は謝り、
「〇〇(僕)が病弱であったことも、遠い親戚である父親との見合い結婚を勧めた自分に非がある」と言ったそうです。
僕は自分の病気と両親の結婚には何の関係もないと思っています。
ただ、最後にこのように祖父が母親に言葉を掛けたのには理由があって、祖母が亡くなった時、最後に何も言葉を掛けてもらえなかったと悲しむ母親を見て、自分があの世へ行く時には何か言葉を掛けてやろう、と思っていたからだそうです。
これで母親と祖父の蟠りが解けたかどうかわかりませんが、最後に2人が話せたのは良かったことだと思います。
祖父もまた被害者でした。
祖父は長男として生まれ、家業を継ぐために中学を出てすぐに働きに出、曾祖母との確執もあって、他の兄弟が大学進学や就職、海外移住など、自由な人生を歩んでいく中、自分一人が泥にまみれて重たい家業を背負い、家に縛られて生きてきたのです。
曾祖母は、祖父以外の兄弟には良い顔をして気に掛けていたようですが、祖父や祖母のことは使用人と思っていたらしく、まるで態度が違ったそうです。
小言から言い争いに発展し、毎夜の食卓で責められる日々。家業も曾祖母と曾祖父が権利を握っていたため、祖父は相当苦労したそうです
病弱だった祖母が早くに亡くなり、60代で男やもめになって以降、認知症になった曾祖母の世話をしながら、自身の病気とも戦い、曾祖母が全く手を付けなかった面倒な仕事の後始末をして、不安定な財務状況を建て直そうと懸命にやって来ました。
母親の経済的な自立心を育てたのは祖父でした。娘だから甘やかしてお金を渡すということもなく、厳しさの中に育まれるものがあった。
母親は、きっとそれらを理解していたからこそ、祖父に対して憎んだり、恨んだりしなかったのだと感じます。
・ともに生きる・
先々月の記事に書いたのですが、
今年8月30日に母親が2度目の脳梗塞を発症しました。
幸い症状が軽く、投薬と通院のみで、現在は職場に復帰しており、お陰様で通常通りの生活を送っております。
こうして母親に関する記事を書いてみて思ったのは、一緒に過ごせる時は意外にも少ないということです。
あと何度正月に実家に帰るのか、何度一緒に花見に行けるか、孫とのふれあい、お盆や旅行や食事に会話、もしかしたら数えるほどしか残されていないのかもしれません。
僕は自分が病気にならなければ、おそらく実家とは今も疎遠のままで、
子供たちを介しても、母親と対話することはなかったと思います。
それは母親が病気になったことも同様で、病気というマイナスの事象によって、親子の繋がりをより深め、互いに歩み寄ることで、過去のネガティブな出来事に向き合うことができたと感じます。
病気が良かったとは言いませんが、人生は、来るべき時に来て、なるべくしてなってゆくもの。
禍福は糾える縄の如しなのかもしれません。
これからも年を経ていく中で様々な問題が起きて来るでしょう。
また、以前のように関係が悪化してしまうかもしれません。
それでもなけなしの知恵を出し、家族という共同体の一員として助け合いながら、共に生きていくのだと思います。
僕のNoteのテーマは人生の記録、雑記ブログのようなものなので、
また機会があれば、母親の話をしたいと思います。
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皆様には、こんな超長文の記事を読んでいただき、誠に感謝申し上げます。
本来ならば、もっと短くまとめるつもりだったのですが、何分、書くと長くなってしまう癖があるので、パート⑧まで引き伸ばしてしまいました。
ここまで付き合ってくださった方には、とても有難く感じております。ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が素晴らしい1日になりますように。
