見出し画像

「ちゃんとしなきゃ」の呪縛

この記事は、冊子『AI時代の「学習する看護組織」〜おしゃべりがマネジメントを変える〜』(2026年5月発行)の内容を投稿記事の形にしたものです。


1. ケアワークのしんどさと、それを支えてきた場

人をケアする仕事には、独特のしんどさがあります。どれだけ手を尽くしても、相手がそれに応えてくれるとは限りません。こちらの努力に比例して良くなるわけではないし、昨日うまくいったことが今日も通用する保証はない。それでも手を離すわけにはいかない。目の前にいる人を見捨てるという選択肢がない以上、こちら側で受け止めて、飲み込んで、なんとかし続けるしかない。看護の現場にいる皆さんなら、このしんどさは説明するまでもないと思います。

そして、そもそもケアという営みは、長い間「仕事」ですらありませんでした。看護、保育、介護、子育て——これらはかつて、主に女性が家庭の中で担うものとされてきました。評価も報酬もなく、社会の表舞台に出ることもない。日の当たらないところで、それでも誰かがやらなければ世の中が回らないから、黙って続けられてきた営みです。それがようやく「職業」として社会に位置づけられるようになったのは、歴史的に見ればそう昔のことではありません。

職業になってからも、その本質は変わっていない部分があります。営業目標を達成した、新製品がヒットしたといった、目に見える華やかな成果は滅多にありません。何もなく、つつがなく一日が終わるようにする。それが、人をケアする仕事の日常です。患者さんに悪いことが起きなかった、スタッフが一日の仕事を無事に終えた、今日も安全に病棟が回った——それはとてもすごいことなのに、特別に評価されるわけでもありません。地味で、負担が大きく、報われにくい仕事です。

そんな仕事がなんとか続いてきたのは、おそらくインフォーマルな場の力が大きかったのだと思います。休憩室でお菓子をつまみながら愚痴を言い合う。飲み会で先輩が「私も昔こんなことがあってさ」と失敗談を聞かせてくれる。こうした場で、ケアワーカーたちは互いの気持ちを分かち合い、「自分だけじゃないんだ」という安心感を得て、翌日もまた現場に立つ力を振り絞ってきたのでしょう。

そしてこの非公式な「おしゃべり」の中には、実はマネジメントの知恵も含まれていました。「近頃あの子元気ないよね」「最近のカンファレンス、形だけになってない?」「本当はもっとこういうケアがしたいんだけど」——こうした言葉の中に、部署の課題への気づきも、スタッフの変化の察知も、「こうありたい」というビジョンも、すでに含まれていた。属人的で、暗黙的で、その場限りだけれど、こうしたやり取りがヒントとなって、ちゃんと組織は回っていた。ケアワークの現場が機能してきたのは、こうした非公式な知恵の共有があったからではないかと私たちは考えています。

2. フォーマル化の功罪

やがて看護管理にも、SWOT分析やBSC(バランスト・スコアカード)、目標管理シートといった体系的な手法が持ち込まれるようになりました。これらは、もともと営利企業の経営コンサルタントが使っていた道具です。競争環境の中で限られた経営資源をどこに集中させるか、何をやらないかを決めるために設計されたものでした。

こうした手法が持ち込まれたこと自体は、理解できる流れです。属人的で暗黙的なマネジメントだけでは、組織として共有しにくく、前に進みにくい面があったのは確かですから。

しかし、ここに構造的なミスマッチがありました。営利企業は、何かを捨てて最も重要なものを得るという意思決定を繰り返す組織です。一方、看護組織に求められるのは、ほぼすべてのことを一定レベルでやりきることです。患者の安全も、ベッドの稼働も、スタッフの健康も、専門職としての倫理も、どれ一つ手放すわけにはいきません。持続可能であること自体が、最も重要な成果なのです。

合わない型に入れられた結果、何が起きたでしょうか。表向きはSWOT分析のシートを埋め、目標管理の面談をこなしながら、本当に大事なやりとりは相変わらず裏側の非公式な場で行う、そういう二重構造がしばらくは成り立っていたのだと思います。

ところが、時代が進むにつれて、その非公式な場自体が減っていきました。現場は忙しくなり、働き方改革で勤務時間は厳密に管理されるようになり、インフォーマルな場は急速に縮小しました。残ったのは、肩の力を抜くことのできないフォーマルな場だけ。難解な手法を使った管理活動は形骸化し、管理者たちが本来持っていた豊かな現場感覚や、「こうしたい」「ここが気になる」という生きた問題意識を表現する場がなくなっているのではないか——これが、私たちの見立てです。

「SWOT分析などを使った組織分析について、
もやもやしていたのが何故なのかわかった」

ある研修の感想にこう書いてくださった方がいました。多くの管理者が「もやもや」を感じていたのは、心のどこかで「枠組みに入りきらない自分の実感のほうが正しい」と知っていたからかもしれません。

この点については既刊テキスト『学習する看護組織のマネジメント』(部署マネジメント編・看護部マネジメント編)でも詳しく論じています。

3. 封じ込められている看護管理者の力

ここで一つ、はっきりお伝えしたいことがあります。それは、これまでの看護管理の手法を適切に使えていないからといって、管理者にマネジメント能力がないわけではないということです。

看護職は、患者の療養環境をマネジメントする専門職です。指導を聞かない患者にも、素直になれない患者にも、その人のペースに合わせて粘り強く向き合う。五感を研ぎ澄ませて、表情の変化に気づき、言葉にならない不安を察知する。客観的なデータも活用しながら、「なんとなく今日はいつもと違う」「もっとこうしたほうがよいのでは」という直感を信じて動く。それが看護の専門性だと思います。

看護管理者の皆さんも、もちろんこの力を持っているはずです。「患者」を「スタッフ」に置き換えて考えてみてください。皆さんは、スタッフの表情の変化や日々の業務の非効率さを、おそらくは暗黙的に感じ取っているでしょうし、「このあたりに問題がありそうだ」「本当はこういう部署にしたい」という思いも持っているのではないでしょうか。

ところが、既刊テキストにも書いたことですが、患者に向き合っているときには丁寧にできていることが、スタッフや自組織のことになるとできなくなってしまう方が少なくありません。無意識のうちに過大な期待をしてしまったり、正論を押し付けてしまったりする。そして、自分自身に対してはもっとそうなります。「ちゃんとしなきゃ」「正しくやらなきゃ」「数字を出さなきゃ」と、自分を追い込んでしまう。

廊下で同僚と立ち話をしているとき、皆さんは驚くほど的確に問題を言い当てていたりします。それなのに、目標管理シートの前に座ると、そういうものがうまく言葉にできなくなってしまう。あるいは、部長面談で「来年度の部署目標は?根拠は?」と問われると、自分でも薄いとわかっている、取ってつけたような言葉が、口から出てきてしまう。

つまりこれは、能力がないのではなく、能力を活かせる形式がないだけなのではないでしょうか。

看護職の皆さんが本来持っている、よく観察し、話を聴き、変化を感じる力が、マネジメントの文脈ではうまく発揮されていない。私たちはその力を、なんとかして引き出したいのです。

4. 気にしなければいけないことが多すぎるー認知負荷の問題

なぜ、マネジメントの文脈になると力が発揮できなくなるのか。一つの大きな理由は、「気にしなければならないことが多すぎる」ことではないかと考えています。

論理的に話さなければいけない。データで裏づけなければいけない。相手の枠組みに合わせなければいけない。こう言ったらパワハラにならないか。敬語の使い方やキーワードの選び方——気にしなければいけないことが増えれば増えるほど、心の中の言葉は表に出てこなくなります。

これは能力の問題ではないと思います。人間の認知には限界があります。観察して、感じて、言葉にして、それを論理的に構造化して、さらに相手の期待する形式に整えて——これらを全部同時にやるのは、無理があるのではないでしょうか。

ある研修後のアンケートに、こんな声がありました。

「観察と感受性の豊かさはあると思うが、
文章力が課題で、数行を書くのに
たくさんの時間をかけていた」

この方は、見る力も感じる力も持っている。ただ、それを「正しい形式」に変換するところで止まっていた。そしてその変換作業に時間を取られるうちに、肝心の観察内容や感受性が表に出てこなくなってしまう。とてももったいないことだと思います。

管理者に能力が足りないのではなく、管理者に多重課題を背負わせすぎているのではないでしょうか。

そして、この認知負荷の中で追い詰められると、人はその場の「正解のようなもの」を取ってつけたように出してしまいます。自分の心の底から湧いてくる言葉ではなく、「管理者としてこう言っておけば通るだろう」という借り物の言葉で取り繕う。部長や副部長も多忙がゆえに、結果的に本質的な対話がされないまま、形骸化した枠組みの上で物事が進んでいってしまうのです。

多くの管理者が、これまでの看護管理の手法に対して、心のどこかで「これ、意味あるのかな」「なんかしっくり来ないな」と感じているのではないでしょうか。けれども、そう簡単にはやめられない。みんながやっているし、病院がやれと言っているから——。20年、30年と積み上げてきた組織文化は、簡単には変わりません。

私たちは、やめてもいいと考えています。少なくとも、合わないものを合わないまま続けることに、エネルギーを注ぎ続ける必要はない。では何に置き換えるのか?その話を、第2章以降でしていきます。