ココロリーフの物語|#1 言えなかった言葉は、消えなかった
【あらすじ】
言えなかった言葉や、
押し込めた感情を抱えた人々のそばには、
時折、白い猫のような存在「シー」と、黒い影のような存在「クロム」が、静かに寄り添っています。
コンビニ、公園、夜のキッチン、朝の食卓――変わらない日常の中で、人は小さな光や影の気配に触れながら、自分の本音や、誰かとの距離を少しずつ見つめ直していきます。
言葉にならなかった感情。
飲み込んだ「ごめん」や「ありがとう」。
誰にも見えないまま胸の奥へ沈んでいた揺れは、やがて小さな灯りのように、静かに人と人との間を繋いでいきます。
これは、現代の日常にひそむ小さな幻想と、“名前のない感情”を描いた連作短編シリーズです。
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最近、言いたかったのに言えなかったことってありませんか。
仕事から帰ってきて、
私はしばらく動けませんでした。
部屋の電気もつけないまま、
鞄だけを床へ置きます。
遠くで、車の走る音が聞こえていました。
冷蔵庫の低い駆動音だけが、
静かな部屋の奥に残っています。
会議の中で、言いたいことを言えませんでした。
それは違うと思ったのに。
ほんの少し、傷ついていたのに。
波風を立てたくなくて、
私は何も言わないほうを選びました。
「大丈夫」
そう自分へ言い聞かせながら、
何もなかった顔で帰ってきたはずでした。
でも。
胸の奥に、ざらりとした感触だけが、
静かに残っていたのです。
怒りでもなく、悲しみでもない。
もっと名前のつけにくい揺れ。
私は、深く息を吐きながら、
窓を少しだけ開けました。
夜の風が、カーテンをわずかに揺らします。
けれどその風は、いつもみたいに、
やわらかくは感じませんでした。
温度のない空気が、胸の奥のざらついた場所へ、静かに触れていきます。
そのとき。
部屋の隅で、何かが揺れた気がしました。

私は、ゆっくり顔を上げます。
白くて丸い猫のようなもの。
首元で、やわらかな黄色いリボン。
しっぽの先には、小さな葉が揺れています。
見たことがないはずなのに、
なぜか、驚きませんでした。
その子は、何も言いません。
ただ、静かにそこにいました。
しっぽの葉が、
呼吸をするみたいに、かすかに光ります。
それを見ているうちに、
自分の呼吸が、
少しだけ深くなっていました。
そんなふうに思えた、その瞬間。
——空気が、変わりました。
光ではない、別の気配。
振り向くと、
影が、猫の形をしていた気がしました。
黒い、猫のようなもの。
白い子とよく似ているのに、
そのまなざしは、まったく違っていました。

やわらかくはない。
けれど、冷たくもない。
ただ、
ごまかせない静けさ。
その黒い猫は、何も言いません。
ただ、
私の胸の奥のざらりとした揺れに、
ぴたりと重なっていました。
その瞬間、
はじめてわかったのです。
それは、
見ないふりをしてきた気持ちでした。
ずっと、そこにあったもの。
押し込めた、本音でした。
私は、小さく息を吐きました。
そして、
はじめて言葉にしました。
「……悔しかった」
その一言が、
静かに部屋に落ちました。
そのとき、
胸の奥で、何かがほどけました。
黒い猫は、
少しだけ目を細めて、
風の中へ溶けるように消えていきました。
あとに残ったのは、
深く、静かな余韻でした。
窓辺に立ったまま、
しばらく動けませんでした。
外はすっかり夜で、
遠くの車の音だけが、かすかに聞こえます。
私は、そっと窓枠に触れました。
ひんやりとした冷たさが、
指先から静かに伝わってきます。
その冷たさがあるからこそ、
胸の奥に残る温かさが、
はっきりと浮かび上がるようでした。
消えてはいませんでした。
でも、
もう押し込めなくてもいいのだと思いました。
部屋の空気が、
すこしだけ広くなった気がしました。
そのとき、
やわらかな気配が戻ってきました。
白い猫が、
少し離れたところでこちらを見ています。
しっぽの葉が、
静かに揺れていました。
その奥には、
さっき感じた影の気配も、
まだ残っている気がしました。
私は、ふと思います。
光だけでは、
届かない場所がある。
でも影は、
その場所を責めるためにあるのではなく、
そこに休ませるためにあるのかもしれない。
言えなかった言葉は、
消えたわけではありませんでした。
それは、
心の奥で小さな種になって、
ずっと残っていたのかもしれません。
気づかれないまま。
名前を持たないまま。
それでも、
見えない場所で、
たしかに息をしていたもの。
窓の外から、
やわらかな風が入りました。
その風の中に、
小さな鈴の音が混じった気がしました。
ちりん……
私は、
小さく息を吐きました。
そしてはじめて、
胸の奥の揺れから目をそらさずに、
ただ、
少しだけそのまま
歩いてみようと思ったのです。
この物語が、
どこかでつながっていたとしたら。
それはきっと、
まだ名前のない場所で、
やさしく育っているものなのだと思います🌿
ココロリーフのはじまりは、
そんな場所から生まれた物語です。
まだ名前のない揺れは、
静かに続いていきます。
第2話『あの夜のあとで』
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