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足るを知ること 徳川の世の礎を築いたスーパー名君、保科正之の秘めた思い

 簡単で重要な生き方の極意があります。
 それは、「足るを知る」ということ。
 自分の今の境遇に愚痴も不満も言わず、むしろ感謝の念を大にして、恩を受けた人のために精一杯励むということ。
「足るを知る」すなわち、「自分がどれだけ恵まれているか。すでにたくさんの幸せなことに囲まれているのだ。」ということを腹の腑に落とすことが、心の安定を生み、結局、幸運と成功をつかむことになる…。

 二代将軍秀忠のご落胤として生まれ、殺されないためひっそりと人目を忍んで暮らしていた幼い頃から、「足るを知る」という言葉を肝に銘じて、謙虚に、そして、自分の命を生かし育んでくれた周りの人のために、後には「徳川のため」「民のため」という大義に生きた人。それが、初代会津藩主にして、幕閣の筆頭格かつ徳川四代将軍家綱の補佐役として活躍した、江戸時代のスーパー名君、保科正之です。
 この人は、明治維新で賊軍となった会津藩の藩祖でもあったことから、明治以降、急速に歴史叙述の世界から消されてしまった人でありますが、200年続く平和な徳川の世の基礎、そして江戸という大都市の基礎をも築き、引いては武士の在り方や日本人の体質そのものにも影響を与えた人でもあります。

 保科正之は、異母兄の三代将軍家光にその能力と人柄を認められ、26歳にして、信州高遠から多くの家臣を連れて山形へ転封、33歳の時に山形から会津二十三万石へ転封となり、つぎつぎと仁政を実行、家光逝去の際には四代将軍家綱の補弼(ほひつ)役を命ぜられ、以来20年以上会津へ帰ることなく、自分を養育してくれた重臣達に藩政を委任して幕政に全身全霊を打ち込みます。なお一方では、江戸より指図して仁政を藩政に反映させていました。
 その主なものを挙げると、殉死の禁止、税制改革と減税実施、社倉制度を創設(飢餓対策)、90歳以上の高齢者へ扶持米の支給、間引きの禁止、救急医療制度の創設、会津藩家訓の制定などがあり、領民を慈しみ、親や子供を大切にして暮らせる世の実現を目指しました。
 また、幕政においては四代将軍家綱を補佐し、徳川家康以来武力によって制圧した武断政治を文治政治に切り換え、平和が長く続くよう、きめ細かな政策を講じました。その主たるものには、玉川上水の開削、振袖火事という明暦の大火の際、江戸市民の救済を優先するため江戸城の天守閣を再建せずに上野広小路など大きな道路を配した新しい江戸の復興、大名証人(人質)制度の廃止、会津藩と同様の殉死の禁止などが挙げられます。
 彼は、自己のことは絶対に後に置くという覚悟を秘めて、民のことを考え続けた人でした。

保科正之(1611-1673)

足るを知らねばならない。
~by 保科正之

 最後にわたしから四行詩を献上いたします。

生きていること自体がすでに恵まれている幸運
生かされているこの生に感謝し、謙虚に励み続ける
その心が本当の満足を生む
足るを知ること

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