見出し画像

私の言葉は軽い

私はずっと、自分は言語化が得意な人間だと思っていた。

毎日noteを書いている。

小さい頃から本を読むのが好きで、気づけばいつも文字の世界にいた。

学生の頃から毎日日記も書いてきた。

今日あったこと、腹が立ったこと、妙に嬉しかったこと。

さらに調子に乗って、小説投稿サービスに作品を載せて、誰かに読んでもらったこともある。

「面白かった」「続きが気になる」みたいな反応が返ってくると、もう気分は文豪だった。

ところが、ゆる言語学ラジオの水野太貴さんの対談動画を見て、その前提が音を立てて崩れた。

私は言語で生きてきたはずなのに。

刺さるということは、痛いところを突かれているということだ。

私の思考の出発点


冷静に振り返ってみた。

私が何かを考えるとき、最初に頭に出てくるのは文章ではない。

実際にあった出来事。

見聞きした、その瞬間の映像。

部屋の明るさ。沈黙の長さ。

相手の表情。声の温度。

まず浮かぶのは、そういう雰囲気込みの世界だ。

そこから私は、その映像を何度も再生する。

巻き戻して、ズームして、横から眺めて、裏側まで想像して。

そして最後にようやく、言葉に変換する。

つまり私は「言語で考えている人」ではなく、「映像を必死に翻訳している人」だった。

気づいてしまうと、思い当たる節しかない。

絵なら出せるのに、文章になると急に貧弱になる


私は人と話す時、よくノートを開いたりホワイトボードに絵や図解、文字を書いて説明する。

私の中のイメージは、絵としてならそのまま出力できる。

図解なら伝わる。

対面ならジェスチャーで補える。

電話でも、声の抑揚でニュアンスを運べる。

でも、文章だけになると途端に苦しくなる。

言葉が浮かばない。

どう表現すればいいか分からない。

どの言い回しを選んでも、全部同じに見える。

たぶん理由は単純だ。

言語が弱いのではなく、私の頭の中にあるイメージが強すぎるのだ。

そこには温度があり、沈黙があり、視線の動きや空気の粘りがある。

すべてが同時に立ち上がっている。

それを文章にしようとした瞬間、世界は一列に並ばされる。

大事なものから順番に落ちていく。

私はその落ちた感じが分かってしまう。

だから何度書き直しても、まだ違うと思ってしまう。

頭の中の映像が、どうしても相手の頭の中に再生されない。

それでも、言語化社会は加速する


面白いのはここからだ。

言語が脆弱だと分かってしまったのに、世の中は言語で回っている。

Slack、チャット、テキスト文化。

そしてAIプロンプト。

これからさらに「言葉で指示できる人」が強くなる。

つまり私は、脆弱な道具を握ったまま、もっと走らされる未来にいる。

……いや、待てよ。

だったらnoteは、何なんだ。

私は「得意だから書いている」のではない。

むしろ逆で、言語という不完全な道具を後天的に扱えるようになるための訓練場だ。

映像で生きる自分と、言語で動く社会のあいだに、橋を架ける練習。

今日もその工事現場に出勤して、コツコツ文章を積む。

だから私はこれからも、うまく書けないまま書き続けると思う。

言語化強者になるためじゃない。

ビジュアルで世界を見てしまう自分が、この社会でちゃんと呼吸するために。

そして明日もnoteを書いて、ひとりで唸ってるはずだ。

「やっぱ言語化むっずッ!」

いいなと思ったら応援しよう!