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症状は「ある・ない」では測れない

― 不快症状理論と、看護師が感じる臨床の葛藤 ―



「症状は単独で存在するのではなく、互いに影響し合い、体験の質を形作る。」
— エリザベス・レンツ(不快症状理論) —




看護学生だった頃の私は、正直に言えば、この言葉の本当の意味を理解していなかったと思う。

教科書に書いてある理論の一つ。
試験のために覚える内容。


その程度の理解だった。

しかし、看護師として臨床で働き始めてから、
私は何度もこの言葉を思い出すことになる。

なぜなら、患者さんの苦痛は、
決して「一つの症状」では語れないからだ。


看護学生の頃、よく書いていた言葉

看護学生の頃、看護計画にはよくこう書いていた。

「疼痛に対して傾聴を行う」

今思えば、かなり多くの学生が書いていたと思う。

患者さんが痛みを訴えている。
だから話を聞く。

それは間違った看護ではない。

むしろ大切な看護だと思う。

しかし、実際に臨床で働き始めると、
私はあることに気づいた。

「傾聴」という言葉は、そんなに簡単に使えるものではない。

患者さんのそばに座り、
言葉を聞く。

それだけで、患者さんの痛みが軽くなるわけではない。

むしろ、痛みはとても複雑なものだ。

💊薬が効かない痛み。
🏃体力を奪う倦怠感。
💤眠れない夜。

それらが絡み合いながら、
患者さんの「つらさ」を形作っていく。

学生の頃は、
症状をどこか単純に考えていた。

しかし臨床では、
疼痛コントロールの難しさを何度も感じる。


「痛み」だけではない患者の苦痛

例えば、がん患者さんを想像してほしい。

痛みがある。
倦怠感がある。
食欲がない。
眠れない。


それぞれの症状は、
単独で存在しているわけではない。

痛みがあることで眠れない。
眠れないことで倦怠感が強くなる。
倦怠感が続くことで、体力が落ちる。


こうして症状は互いに影響し合いながら、
患者さんの「つらさの全体像」を形作っていく。

エリザベス・レンツが提唱した
不快症状理論(Theory of Unpleasant Symptoms)は、
まさにこの視点を示している。

症状は単独で存在するものではない。

複数の症状が互いに影響し合いながら、
患者の体験を形成している。

この理論を臨床で思い出すたび、
私はある違和感を覚えることがある。

それは医療現場でよく使われる言葉だ。

「疼痛の有無」
「倦怠感の有無」



症状は「ある・ない」では測れない

臨床で患者さんと向き合っていると、
症状は決して単純ではないと気づかされる。

痛みが少しあるのか。
耐え難いほどあるのか。

倦怠感が
体が重い程度なのか。
起き上がれないほどなのか。


そしてさらに重要なのは、
その症状が生活にどれほど影響しているかということだ。

患者さんの体験は、
数値やチェックボックスだけでは捉えきれない。

しかし医療は、
どうしても症状を「評価」する必要がある。

そのとき、
苦痛はしばしば

「ある・ない」

という形で整理されてしまう。

その単純化の中に、
患者さんの本当のつらさがこぼれ落ちてしまうことがある。


退院という「医療の終わり」

臨床で働いていると、
ある場面に出会うことがある。

見た目からして、
とてもつらそうな患者さんがいる。

体は重そうで、
倦怠感も強そうに見える。

それでも、
入院期間の問題や制度の制約、
あるいは医療的必要性が低いと判断された場合、

「自宅退院」

という判断になることがある。

それは医療制度の中では
決して間違った判断ではない。

病院は生活の場ではないからだ。

しかし、そのとき私はふと思う。

この人は、家に帰って大丈夫だろうか。


病院と生活のギャップ

病院の中では、
患者さんの生活はある程度守られている。

食事が出る。
体調を確認してくれる人がいる。
必要なケアを受けることができる。


しかし、家に帰れば
すべてが生活の問題になる。

倦怠感が強いのに、
誰が家事をしてくれるのだろう。

洗濯はどうするのだろう。

買い物は。
食事は。

患者さんが抱えているのは、
痛みだけではない。

痛み。
倦怠感。
体力の低下。
生活への不安。

それらが重なりながら、
その人の「つらさ」を作っている。

しかし医療は、
どうしても症状の治療に焦点が当たりやすい。

生活の苦しさは、
医療の枠の外に置かれてしまうことがある。



看護師が感じる葛藤

このとき、看護師は葛藤を感じる。

この人は本当に退院して大丈夫なのだろうか。

家に帰ってから、
生活が成り立つのだろうか。

しかし同時に、
私たちは制度の中で働いている。

医療には限界がある。

病院は無限に入院できる場所ではない。

その現実を理解しているからこそ、
看護師は何も言えなくなることがある。

それでも、
患者さんの背中を見送りながら、

「本当にこれで良かったのだろうか」

と考えてしまう瞬間がある。


それでも「傾聴」という言葉を使う理由

学生の頃に書いていた

「疼痛に対して傾聴を行う」

という言葉。

今でも私は、
この言葉が間違っているとは思わない。

むしろ、
とても大切な看護だと思う。

ただ、臨床で感じるのは、
傾聴とは単に話を聞くことではないということだ。

それは、

その人の生活まで想像すること

なのかもしれない。

痛みを聞く。

倦怠感を聞く。

そしてその先にある、
その人のこれからの生活を思い浮かべる。


症状の向こうにある「人生」

エリザベス・レンツの不快症状理論は、
症状を単なる医学的指標ではなく、

患者が体験している現実

として理解する視点を示している。

症状は単独では存在しない。

それは生活と結びつき、
人生の質に影響していく。

そして看護とは、
症状だけを見る仕事ではない。

その症状を抱えながら、
その人がどんな人生を生きているのかを考える仕事だ。


看護とは「想像する仕事」なのかもしれない

痛みを聞く。

倦怠感を聞く。

そしてその人が
家に帰った後の生活を想像する。

洗濯をする姿。
買い物に行く姿。
食事を準備する姿。


その想像の中で、
私たちは患者さんの人生に少しだけ触れている。

看護とは、

症状を評価する仕事ではなく、

その人の人生を少し想像する仕事

なのかもしれない。

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7010nsous|看護師×公認心理師×第一種衛生管理者 応援いただきありがとうございます❗️ いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます‼️ 今後ともよろしくお願いします。