ほぼすべ|第三話 紙の下着
「十五分、同じ人を見てなかった」
スミレがそう言ったあとも、ヨッシーはしばらく笑っていた。
サイゼリヤのテーブルには、ミラノ風ドリアの皿と、辛味チキンの骨と、少しだけ残った赤ワインのデキャンタがあった。
「いや、それ強すぎるわ」
ヨッシーが言うと、スミレは何も言わずに、目だけを少し大きくした。
それから、口を真一文字に結んで、ゆっくりうなずいた。
「何その顔」
「勝った時の顔」
「腹立つな」
スミレは、赤ワインをほんの少しだけ飲んだ。
すぐにアイスティーをストローで吸う。
氷が、からん、と鳴った。
「“たかみな”って言葉だけで、そんなに会話成立するんやな」
「成立するねん。人間って、ちょっと怖いなあ」
「同じ言葉聞いて、全然違う人見てるってことやもんな」
「そうそう」
スミレはまた、さっきの勝った顔をした。
「やめろ、その顔」
「今日、私の勝ちちゃう?」
「まだ早いわ」
「えー」
「でも、かなり強い」
「やろ」
「たかみな、強いわ」
「たかみなが強いみたいに言わんといて」
二人は笑った。
さっきまでの「たかみな事件」の余韻が、まだテーブルの上に残っていた。
「だから、ヨッシーも気ぃつけや」
「何を?」
「私が“イケメンやな”って言うてても、ヨッシーのこととは限らん」
「そこは俺のことにしといてくれよ」
「ほぼ、な」
「ほぼ、いらんねん」
スミレは笑った。
ヨッシーも笑った。
「でも、まだ今日終わってへんやろ」
ヨッシーは、テーブルの真ん中に置かれた百円玉を手に取った。
「もう一回コイントスしよ」
「ええよ。表がヨッシー、裏が私」
「今度こそ俺や」
百円玉が跳ねた。
くるくる回って、辛味チキンの皿の横に落ちる。
表。
「来た」
ヨッシーは、少しだけ口角を上げた。
「これはな、俺がまだ看護師として駆け出しやった頃の話なんやけど」
ヨッシーは、デキャンタの赤ワインを少しだけグラスに足した。
「夜勤でな、昼間に緊急入院になったご高齢の女性を受け持つことになってん」
スミレは、辛味チキンの骨を皿の端に寄せながらうなずいた。
「急な入院って、荷物そろってへんことあるよね」
「そうそう。で、その方が夜中にトイレ間に合わんくて、下着を濡らしてしまいはってん」
ヨッシーは、そこで少し声を落とした。
「こういう時な、俺らからしたらオムツやねんけど、患者さんにはできるだけ“オムツ”って言わんようにしてたんよ」
「うん」
「どれだけご高齢でも、やっぱり自尊心ってあるやん。だから俺、その方に言うてん」
ヨッシーは、当時の自分を再現するように、少し優しい声を作った。
「大丈夫ですよ。うちに紙の下着があったんで、これ使いましょか」
スミレは小さく笑った。
「紙の下着」
「そう。紙の下着。看護師の配慮ワードや」
「配慮ワードね」
「で、病院に予備で置いてあったパンツタイプのオムツを持って行って、履き替えてもらってん。こっちは普通に、まあよかったよかった、って感じやん」
「うん」
「そしたら後日、その方が退院する日になって」
ヨッシーは、そこで一度グラスを置いた。
「娘さんが、ナースステーションに来はってん」
「ほう」
「で、俺のこと見つけて、こう言わはるねん」
ヨッシーは娘さんの丁寧な声をまねた。
「母が、あの男の看護師さんにって」
スミレの目が少しだけ細くなった。
「何か来るな」
ヨッシーは、黙ってうなずいた。
「絶対、何か来る顔やん」
「来るねんけど、その時の俺はまだ何も知らんから」
ヨッシーは続けた。
「娘さんが、紙袋を渡してくれはって。俺、思うやん。お菓子かな、とか。いや、病院的には受け取ったらあかんやつかもしれんけど、その場で突き返すのも違う気がして、いったんナースステーションで預かってん」
「うん」
「でも、なんか紙袋が軽いねん」
「軽い」
「軽いし、四角くもない。お菓子の箱感がない」
「嫌な予感するー」
「で、娘さんが言うねん」
ヨッシーは、また丁寧な声になった。
「この前のお礼にって、母がどうしても」
娘さんも、少し困ったように笑ってはってん。
スミレはもう笑いそうになっていた。
「ヨッシー、断られへん顔してるもんな」
「そうやねん。俺、そういう時、断るのめっちゃ下手やねん。しかも娘さんもすごい丁寧やし、お母さんの気持ちです、みたいな感じやし」
「受け取ったん?」
「受け取った」
「受け取ったんや」
「受け取るやろ、あれは」
ヨッシーは真顔で言った。
「で、あとでスタッフルームで開けてみてん」
「うん」
「中に入ってたんが」
ヨッシーは、しっかり間を取った。
スミレは、少しだけ前のめりになった。
「真っ白な、男もんのブリーフやってん」
スミレは吹き出した。
「ブリーフ!」
「ブリーフやねん」
「白い?」
「真っ白」
「新品?」
「たぶん新品」
「たぶんて何」
「いや、袋には入ってた。そこは大丈夫」
「そこは大丈夫」
ヨッシーは、両手で顔を覆った。
「俺、スタッフルームで白いブリーフ持って立ち尽くしてん」
スミレは、声を出して笑った。
笑いながら、でも少しだけ、うなずいた。
「優しいなあ」
「優しいねん。めちゃくちゃ優しいねん。だから余計に困んねん」
ヨッシーはグラスを持ち上げた。
「俺な、あの時から思ってることがある」
「何を?」
「感謝の気持ちって」
ヨッシーは、そこで一拍置いた。
「ちゃんと届くんやなって」
スミレは少しだけうなずいた。
「ええ話やん」
「うん」
ヨッシーは、真顔のまま続けた。
「ただ、届き方が白ブリーフやってん」
スミレは、また吹き出した。
テーブルの上の辛味チキンは、もう一本だけになっていた。
第三話 終わり
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