ほぼすべ|第一話 地球と描いてSAKABAとよむ
「先週な、地球行ってん」
ヨッシーは、ミラノ風ドリアを前にして言った。
六甲道のサイゼリヤ。
金曜の夜。
ドリンクバーの機械から、誰かのメロンソーダが泡立つ音がしていた。
テーブルの端には、いつものように赤ワインのデキャンタが置かれていた。
向かいに座るスミレは、赤ワインを少しだけ口に含んでから、チェイサーみたいにアイスティーをストローで吸った。
「その飲み方、何なん」
ヨッシーが言うと、スミレはグラスの中の氷をストローで軽く回した。
「私の中では成立してる」
「赤ワインとアイスティーが?」
「うん。ほぼサングリア」
「絶対ちゃう」
スミレは少し笑って、ストローを止めた。
「で、地球?」
「ほし、って呼ぶらしい」
「急にスピリチュアルやめて」
「ちゃうねん。三宮にある立ち飲み屋。正式には、地球と描いてSAKABAとよむ」
「長いな」
「で、常連は“ほし”って呼んでる」
「地球で、ほし?」
「そう呼ばせてくるねん、店が」
「ややこしい店やな」
スミレは、また少しだけ赤ワインを飲んだ。
ヨッシー。
本名、下川ヨシト。三十代、看護師。
職場では、だいたいヨッシーと呼ばれている。
スミレ。
本名、金田スミレ。三十代、作業療法士。
ヨッシーとは同期だ。
同期、と言えば聞こえはいい。
けれど職種も部署も違う。同じ病院にいても、勤務中はそれほど会わない。
だから二人は、月に一度くらい、六甲道のサイゼリヤに集まる。
名前は、ほぼすべ。
正式名称は、
ほぼすべらないかもしれない話を、ほぼすべらないくらいまで仕上げる会。
長すぎるので、二人は正式名称では呼ばない。
テーブルの真ん中には、百円玉が一枚置かれていた。
表が出たらヨッシー。
裏が出たらスミレ。
その日持ってきたエピソードトークを披露し、最後にどちらが「ベストオブほぼすべ」だったかを決める。
勝った方は、ワインのデキャンタ代を払わなくていい。
大人の遊びにしては、賭けているものが小さい。
でも、小さいから続いているのだと、スミレは思っていた。
「で、地球で何があったん」
スミレが聞くと、ヨッシーは急に水を飲んだ。
「出た」
「何が」
「本題前に、急に水飲むやつ」
「飲みたかっただけや」
「困った時やろ」
「何でわかんねん」
「何年同期やと思ってんの」
スミレはそう言って笑った。
ヨッシーが困った時に水を飲むことを、スミレは知っている。
炭酸を入れる時だけ少し猫背になることも。
小エビのサラダを頼むか迷った時、メニューの同じページを三回見ることも。
たぶん、本人より知っている。
でも、それは言わない。
言った瞬間、ほぼすべではなくなる気がした。
「先週の金曜な」
ヨッシーが話し始めた。
「なんか、このまま何も起きずに三十代終わるんかなって思って」
「うわ、重い入り…」
「バツイチにもなるとさ」
「自分で言うタイプのバツイチ」
「二十代で結婚して、すぐ別れてるから。もはや人生の早押しクイズみたいなもんや」
「ピンポン押すの早すぎたんや」
「押したら、まだ問題文の途中やった」
スミレは笑った。
ちゃんと笑った。
こういう時のヨッシーは、面白い。
でも、きっとヨッシーは、自分が面白いことを知らない。
少なくとも、本当に見てほしい相手の前では。
「で、その地球に一人で行ったんやね」
「ほし、な」
「そう。地球と描いて、ほし」
「まだ腹立つな、その店名」
「カウンターだけの立ち飲みでさ。最初、ビール置く位置もわからんくて」
「立ち飲み初心者あるあるやん」
「右に置いたら隣の人のスペース侵略してる気がするし、左に置いたら自分の肘が当たりそうやし、正面に置いたら店員さんに“ここは神棚ちゃうぞ”って思われそうやし」
「思わん」
「で、結局、ずっと手で持ってた」
「不審者やん」
「そう。その不審者の隣に、女の人が来てん」
スミレは赤ワインを少しだけ口に含んだ。
それから、チェイサーみたいにアイスティーをストローで吸った。
氷が、グラスの中で小さく鳴った。
「へえ」
「へえ、て」
「いや、続けて」
「たぶん、アラフォーくらいかな。落ち着いた感じの人で」
「情報うっす」
「ひよってたから、あんま覚えてないねん」
「恋の入口、解像度低いな」
「恋って言うな」
「じゃあ何なん」
「いや、別にめちゃくちゃ盛り上がったわけちゃうねん。俺もひよってたし」
「ヨッシー、初対面やと借りてきた観葉植物みたいになるもんな」
「観葉植物はしゃべらんやろ」
「だから言うてるんやん」
ヨッシーは少し笑った。
「でもな、その人、一人ちゃうかってん」
「二人組?」
「そう。もう一人、友達っぽい人がおって。その人がめっちゃノリよくて」
「ああ、場を回すタイプの人や」
「そうそう。俺がビールずっと手で持ってる不審者やのに、“お兄さん、地球初めて?”みたいに話しかけてくれて」
「地球の常連、クセ強いな」
「で、落ち着いた方の人も、横でちょっと笑ってて」
「うん」
「俺も酒入ってたし、向こうも飲んでたし、そのノリええ人が急に言うねん」
ヨッシーは、少し声を高くした。
「え、連絡先交換しときよ。せっかく地球で会ったんやし」
スミレは、ストローで氷を一度だけ突いた。
「地球、便利に使われてるな」
「ほんまそれ」
「で?」
「で、落ち着いた方の人が、“いやいや”って笑ってて。俺も、“いやいや”って言ってて。二人とも、いやいや言うてるのに、ノリええ友達だけがめっちゃ前向きで」
「おるな、そういう人」
「おるやろ。で、気づいたらスマホ出してて」
「気づいたら?」
「ほんまに気づいたら。俺の意思、二割くらいやった」
「残り八割は?」
「酒と、その友達」
スミレは笑った。
「責任転嫁がすごい」
「でも、なんか嫌な感じではなかってん。落ち着いた方の人も、最後は普通に笑ってくれて」
「うん」
「それで、LINE交換した」
スミレは、もう一度アイスティーを吸った。
甘くない。
赤ワインのあとだから、余計に薄く感じた。
「ええやん」
「ええんかな」
「ええやん。地球で出会ったんやろ。スケールでかいやん」
「ほし、やけどな」
「そこはどっちでもええねん」
ヨッシーは嬉しそうだった。
隠そうとしているのに、隠せていなかった。
スミレは、その顔を見ながら思った。
その人は、まだ知らないのだ。
ヨッシーが本当は、ちゃんと面白いことを。
話の途中で自分で照れて、オチの前に声が小さくなることを。
でも、そこを直せば、ちゃんと人を笑わせられることを。
それを知っているのは、今のところスミレだけだった。
「ほな今日は恋バナ回やな」
「いやいや、ほぼすべやから。ちゃんとネタ持ってきてる」
「じゃあコイントスしよ」
スミレは百円玉を親指に乗せた。
「表がヨッシー。裏が私」
「今日は俺、強いで」
「恋で浮かれてる男の話、だいたいすべるけどな」
「言い方」
百円玉が跳ねた。
くるくる回って、テーブルに落ちる。
少し転がって、ミラノ風ドリアの皿の横で止まった。
表。
「ヨッシーから」
「よし」
ヨッシーは、少し姿勢を正した。
「これは、看護部長の石川さんに言われた話なんやけど」
「出た、石川部長」
「ある日な、俺がスタッフのことをあだ名で呼んでたら、石川部長が真顔で近づいてきて」
その瞬間だった。
「辛味チキンのお客様ー」
店員の声が、絶妙なタイミングで割り込んだ。
ヨッシーは口を開けたまま止まった。
スミレは笑った。
「今やん」
「今やな」
「辛味チキン、間ぁ読んできたな」
「サイゼ、手強いわ」
店員が皿を置いて去っていく。
ヨッシーは、改めて水を飲んだ。
「で、石川部長が俺に言うてん」
スミレは少し前のめりになった。
ヨッシーは、石川部長の声真似をするために、ほんの少し顎を引いた。
「ヨッシー……」
そこで、スミレはもう笑いそうになった。
ヨッシーは続けた。
「職場で、スタッフのこと、あだ名で呼んだらあかん!」
スミレは、アイスティーを吹きかけた。
第一話 終わり
次回
第二話 たかみな
