ほぼすべ|第二話 たかみな
スミレは、アイスティーを吹きかけた。
正確には、吹きかけて、なんとか止めた。
テーブルの上には、辛味チキンとミラノ風ドリアと、ギリギリ守られたアイスティー、そしてテーブルの端には、いつものように赤ワインのデキャンタも置かれていた。
「いや、もう言うてるやん」
「やろ」
ヨッシーは、少し誇らしそうに水を飲んだ。
「石川部長、真顔やからな。ほんまに正しいこと言う顔で」
「その第一声が“ヨッシー”なんやろ」
「そう」
「強いな」
「強いやろ」
「でも、ちょっとだけ直せる」
「出た。添削」
スミレは辛味チキンを一本つまんだ。
「まず、最初の“ヨッシー”で一回止まった方がええかな」
「止まる?」
「うん。石川部長が真顔で“ヨッシー”って言う。そこでヨッシーは、ちょっとだけこっちを見る」
「こっち?」
「聞いてる人の方。今ので気づいた? って顔」
「なるほど」
「でも、まだツッコまない」
「我慢するんや」
「我慢する。そこでツッコんだら早い」
ヨッシーは、少し真剣にうなずいた。
「ほんで?」
「石川部長が、最後まで言う」
スミレは、低めの声を作った。
「ヨッシー、職場でスタッフのこと、あだ名で呼んだらあかん!」
ヨッシーが笑った。
「スミレ、部長うまいな」
「何年、病院で働いてると思ってんの」
「職業病やな」
「で、そのあとに心の声」
「部長、僕のことヨッシーて呼んでますやん」
「それもええけど、ちょっと説明っぽい」
「厳しいな」
「最後は、もっと小さく」
スミレは、グラスを置いた。
「僕、ヨシトです」
ヨッシーは一瞬止まって、それから手を叩いた。
「それや」
「でしょ」
「めっちゃ締まるやん」
「最後は負けた感じで言うねん。怒られてるから、大きい声では言われへん」
「僕、ヨシトです」
「そうそう」
「僕、ヨシトです」
「二回言わんでいい」
「練習や」
「本番で二回言ったらすべる」
「厳しいな、ほぼすべ」
「ほぼすべやからねー」
ヨッシーは、改めて姿勢を正した。
「ある日、俺がナースステーションで後輩を“マッキー”って呼んでたら、奥から石川看護部長が真顔で近づいてきて」
少し間。
「ヨッシー」
スミレは、すでに笑いそうになっている。
「職場で、スタッフのこと、あだ名で呼んだらあかん!」
ヨッシーは、肩を少しだけ落とした。
「僕、ヨシトです」
スミレは笑った。
「完成」
「勝った?」
「まだ早い」
「えー、今の勝ちやろ」
「今日、私も持ってきてるから」
スミレは、テーブルの真ん中に置かれた百円玉を指で弾いた。
くるくる回って、辛味チキンの皿の横で止まる。
裏。
「私や」
スミレは、赤ワインをひと口だけ飲んだ。
それから、アイスティーの氷をストローで軽く突いた。
「昔な、病院の人事報告を見てたんよ。そしたら、医事課の高木みな子さんが退職って出てて」
「高木みな子さん?」
「そう。みんなから“たかみな”って呼ばれてた人。医事課のたかみな。私も何回か飲みに行ったことあったし、普通に仲よかったから、めっちゃびっくりして」
「ほう」
「で、その時いちばん近くにおったんが、システムエンジニアの野山さんやってん」
スミレは、当時の自分の声を再現するように言った。
「野山さん! たかみな、辞めるんやって!」
「うん」
「そしたら野山さんが、パソコンの画面から目ぇ離さんまま、こう言うねん」
スミレは低めの声を作った。
「あー、やっぱりなー。辞めるんかー」
ヨッシーがもう笑いかけた。
「知ってたん?」
「私もそう思ってん」
スミレは続けた。
「野山さん、知ってたん?」
「いや、そういうわけやないけど、ちょっと予測はできたよねー。あんなことなったら」
「えっ? あんなこと?」
「え、スミレちゃん知らんの?」
「何が?」
「週刊誌にも載ってるで」
「週刊誌!?」
ヨッシーが眉を上げた。
「医事課の退職が?」
「そう。私は医事課の高木みな子さんの話をしてるから」
「怖い、怖い、怖い」
「でも野山さんは、人気アイドルグループの“たかみな”の話をしてるわけ」
その頃、アイドルの方のたかみなは、ワイドショーや週刊誌で、何かと名前を見かける時期だったらしい。でもスミレは、そのニュースを知らなかった。
そして野山さんは、医事課の高木さんの下の名前がみな子だということを知らなかった。
「あー、そっちか!」
「そっち。でも怖いのは、ここから会話がまあまあ成立すんねん」
スミレは、少し身を乗り出した。
「私が言うわけ。昨日見た時、そんなことひと言も言ってなかったし、そんな素振りもなかったよって」
「そしたら野山さんが」
「強い子やなー」
ヨッシーは口を押さえた。
「医事課の高木さんも強い子やけどな」
「そうやねん。で、私も言うてしまうねん」
「えー、けどそれ、たかみな悪くないやん」
「そしたら野山さん」
「そやねん。たかみなは何も悪くないねん。でも、正義感持ってやらなあかん仕事やからなー」
「私、思うわけ。医事課って正義感持ってやらなあかん仕事やもんな、って」
「そっちで納得すな」
「ほんで私が言うねん」
「けどこれ、管理してる人も大変やな」
「私は病院の事務長とか、課長とかの話してる」
「野山さんは?」
「たぶんプロデューサー側の話をしてる」
ヨッシーはもう笑っていた。
「で、さらに私が言うの」
「しかし、週刊誌に載るかなー」
「野山さんが即答」
「いやー、これは載るやろー」
「私も、そうなんや……って。医事課の退職って、週刊誌に載るレベルなんや……って」
「気づけよ!」
「気づかへんねん。だって会話が成立してるから」
スミレは指を一本立てた。
「このまま十五分くらい盛り上がってん」
「十五分!?」
「そう。たかみなの今後について。本人は悪くないとか、周りが大変やとか、これからどうするんやろとか。全部、別々のたかみなを見ながら」
スミレは一度、辛味チキンをつまんだ。
「で、いったん解散して、それぞれ自分の部署に戻ったんよ」
「終わったん?」
「終わらへんねん」
スミレは少し声を落とした。
「しばらくしたら、野山さんが遠くから呼ぶねん」
「スミレちゃん!」
「何ですか?」
「たかみな、ブログで頑張りたいって言うてるで!」
ヨッシーがテーブルに手を置いた。
「来た」
「私、びっくりして」
「え、辞めへんの!? ていうかブログ!? たかみな、ブログやってんの!?」
「そしたら野山さん」
「そら、やってるやろ」
「で私」
「やってる!? ミクシィやってるのは知ってましたけど、ブログって芸能人みたいですね」
ヨッシーがテーブルを叩いた。
「そこで気づけ!」
「野山さんも、そこで初めてちょっと止まってん」
スミレは、小さく沈黙を作った。
「……たかみなのブログ、見る?」
「見る、見る、見る!」
「で、野山さんのパソコンでブログ開いてもらって、画面見た瞬間」
スミレは真顔で言った。
「これ、アイドルの方のたかみなやん」
ヨッシーが吹き出した。
「野山さんは?」
「ん? え? んっ?」
「で、私も」
「え? 高木みな子さんの話してましたけど?」
「野山さん」
「医事課の?」
「私」
「はい」
「野山さん」
「たかみなって、そっち?」
スミレは肩を震わせた。
「十五分、同じ人を見てなかった」
ヨッシーは笑いながら、しばらく何も言えなかった。
サイゼリヤの店内では、隣の席の高校生たちが、間違い探しの最後の一個で揉めていた。
入口では、並んでいる客の横を、別の客がすっと入ろうとしていた。
店員さんが笑顔のまま、「お名前だけ書いてお待ちください」と、やさしく止めていた。
「それ、今日のベストオブほぼすべあるな」
「でしょ」
スミレは、得意げにアイスティーを持った。
「私、ほぼすべらんなー」
第二話 終わり
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