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たぶん、少し泣く|第一話 夢の中の彼女は泣かない

あらすじ
相沢哉一は、今も時折、二十代の頃の夢を見る。

夢の中の彼女は、あの頃のままだ。
けれど、夢の中で彼女が泣くことはない。
泣いているのは、いつも目覚めた後の哉一だけだった。

眩しい木漏れ日のようだった日々。
忘れられない、一度きりの涙。
共に夢を追い、結婚を考えながらも、病と時間にあらがいきれず、手放してしまった人。

恋愛は、成就してからの方が長い。
続けていくことは、始まることよりも難しい。

五十歳になった哉一が、忘れられない人との時間をたどる。
過ぎた時間を弔う、大人の恋愛小説です。

第一話 夢の中の彼女は泣かない


目覚めると泣いていた

強い喪失感に包まれながら目を覚ます。

まぶたから頬のあたりが濡れていた。
どうやら、わたしは涙を流していたようだ。

ああ、またか。

声を上げて、泣きながら目覚めるのではない。
目を開けてから、頬に冷たいものが残っていることに気づく。

夢というものは、目覚めた瞬間にほどけていくものらしい。
けれど、わたしの場合は違う。

情景。
人の声。
光の具合。
人の立っていた位置。
その時、自分が何を思っていたか。

そういうものが、目覚めたあとも、かなりはっきり残っている。

夢の途中で、これは夢だと気づいていることがある。
ああ、これは夢だ。
今さら、こんな場所にいるはずがない。
もう二十年以上も前のことだ。

分かっている。
分かっているのに、抜け出せない。

夢の中には、当時のわたしがいる。
未熟で、焦っていて、何かを失うことをひどく恐れているわたしがいる。

そして、その少し後ろに、今のわたしもいる。
五十歳になったわたしが、二十代の自分を眺めている。

止めることはできない。
声をかけて励ますこともできない。
やめておけ、と忠告することもできない。
過去の自分を、悲しく、悔しく、どうすることもできずに眺めている。

けれど同時に、今のわたしは、その姿をとても愛おしく思っている。



夢の中の藤倉玲

未熟なわたしのそばに、いつも彼女がいた。
夢の中でも、彼女は現れる。

藤倉玲。

今でも、名前を思い出すのに時間はかからない。

けれど、夢の中で玲は泣かない。

笑っていることはある。
黙ってこちらを見ていることもある。
少し困ったような顔をすることもある。
けれど、泣かない。

なぜなら、わたしは彼女が泣く姿をほとんど知らないからだ。

ただ一度を除いて。

その一度だけが、今も胸の奥にはっきりと残っている。
涙を見せる玲は、わたしにとって、あの時の玲でしかない。



涙は少し待てば落ち着く

目覚めたときの動揺は、少しすれば落ち着く。
涙とともに目覚めることにも、もう慣れた。
少し待てば、落ち着く。
そのことを、わたしはもう知っている。

階下から、小さな物音がする。

台所で湯を沸かす音。
食器棚を開ける音。
床を歩く、軽い足音。
晶乃は、いつも朝が早い。

妻の晶乃とは、趣味のバイクを通じて知り合った。

結婚する前、わたしは一度、晶乃に言ったことがある。

体調を崩して、婚約を破棄したことがある。
それが、とても辛かった。
だから、もう一度結婚を考えることが怖い。

話せたのは、そこまでだった。

すべてを話したら、晶乃との間にも距離ができてしまう。
そんな怖さがあったからだ。



いま一緒にいる人

わたしは、今の人生を、引き延ばされた長期連載の漫画のように感じている。

本当なら、どこかで終わっていたはずなのに、まだ続いている。
終わるべき時に終われなかった物語の続きを、少しの虚無感と徒労感を抱えながら、生きている。

かといって、つまらないわけではない。
孤独でもない。
ただ、若い頃のように、急いで次のページをめくりたいと思うことはなくなった。

そんなわたしに、晶乃は少しだけ考えてから言った。

「いま一緒にいるのは、わたしだよ」
責めるでもなく、慰めるでもなかった。
ただ自然に、そこに置かれた言葉だった。

過去は消えない。
それを含めて、今のわたしなのだ。
けれど、今、一緒にいてくれる人を、過去の影で遠ざけ続けることも違う。

晶乃のその言葉は、動くことを拒んでいたわたしのこころを、少しだけ動かしてくれた。
その結果として、今がある。

五十歳になったわたしは、中古の一戸建てで暮らしている。
大きな家ではない。
けれど、自分の家だ。

仕事もある。
家もある。
妻もいる。

笑う日もある。
穏やかだと思う日もある。
あの頃思い描いていた生活とは、まったく違うものだ。

大きな夢はない。
身を焦がすような情熱を覚えることは、もう二度とないだろう。

それを寂しいと思うときもある。
けれど、静かな生活の価値とは、大きな喪失の後でないと、気づけないのかもしれない。

若い頃のわたしは、それを知らなかった。
知らずに突き進んだ先で、自分が何を失うのかも、まだ、知らなかった。



たぶん、少し泣く

次回: 第二話トラットリア・ヴェルデ


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