たぶん、少し泣く|第二話 トラットリア・ヴェルデ
第二話 トラットリア・ヴェルデ
木漏れ日の射す店
知らずに突き進んだ先で、自分が何を失うのか、まだ、知らなかった。
若い頃のわたしは、そういう人間だった。
二十二歳だった。
自分の限界も、誰かと一緒に生きることの重さも、まだ知らなかった。
知らないから、突き進むことができた。
トラットリア・ヴェルデは、東北の海沿いにある町にあった。
店そのものは海沿いではなかったが、風向きによって、少しだけ潮の匂いがした。
赤い屋根、白い壁、深い緑の庇。
店の前には植栽があり、テラス席には木漏れ日が落ちた。

ヴェルデ(Verde)
イタリア語で緑という意味だと、あとで誰かに聞いた。
その名前は、店によく似合っていた。
わたしはその響きが好きだった。
ランチは、手頃な値段のパスタやピザを出す。
ディナーになると照明が少し落ち、コース料理が出て、ワインが開いた。
カウンターではカクテルも作った。
週末には、結婚式の二次会や貸切のパーティーも入った。
レストランウェディングもできる、大きな店だった。
ヴェルデは新規オープンの店だった。
店長や料理長のような中心になる人たちを除けば、ほとんど全員がオープニングスタッフだった。
わたしは二十二歳で、家庭の事情から少し遠回りをしたあと、調理希望としてトラットリア・ヴェルデに入った。
資格はなかった。
調理師学校を出たわけでもない。
喫茶店で少しアルバイトをしたことがあるだけだった。
それでも、面接で調理希望だと言った。
履歴書を見たオーナーが言った。
「相沢哉一くん。さいち、でいいのかな?」
「はい。さいちです」
そこで初めて、わたしはその店で名前を呼ばれた。
ほぼその場で採用された。
後になって、面接を担当したオーナーから聞いた。
未経験のわたしを採った理由のひとつは、「顔が良かったから」だと。
当時のレストランのオープニングスタッフ採用は、今よりずっと雑だった。
とりあえず採って、現場でふるいにかける。今では許されないやり方だろう。
けれど、その雑な理由に、当時のわたしは助けられた。
とはいえ、厨房では雑用くらいしかできなかった。
包丁の持ち方も、火の前での立ち方も、皿の扱い方も、すべてが不慣れだった。もどかしかった。
ある時、店内が混雑し、フロアがパンクしそうになった。
厨房カウンターには、運ばれない料理が並ぶ。
わたしは、いても立ってもいられなくなり、オーナーに聞いた。
「冷めちゃいます! 持っていっていいですか!?」
「おう! あっちゃん! 持っていってくれ!」
オーナーは嬉しそうだった。
わたしはコックコートのまま、料理をテーブルへ運んだ。

フロアには、わたしの居場所があった。
お客様を席へ案内する。
水を出す。
料理を運ぶ。
笑顔で話す。
そういうことは、すぐにできた。
女性のお客様から声をかけられることもあった。
少し嫌味に聞こえるかもしれないが、二十二歳の男には、素直に嬉しいことだった。
そして、思いのほかフロアの仕事は楽しかった。
ヴェルデはサービスの要求レベルも高かった。
覚えることはたくさんある。
ワインを出す。
カクテルを作る。
料理を出す。
これらは機械的にこなすだけでは足りない。
「この料理に合うワインはこちらです」
「トマトソースのパスタでしたら、今日はこちらがお勧めですよ」
そういった話術が必要になり、もちろん相応の知識が必要だ。
レストランの仕事は厨房の中だけではないのだ。
厨房は戦場だった
厨房は戦場だ。
当時は、そんな言葉をよく聞いた。
今のように、セルフオーダーやセルフレジが当たり前ではなく、厨房とホールをつなぐシステムもまだ十分ではなかった。
あの頃の繁盛店は、本当に混沌としていた。

二人連れのお客様が来る。
一人はパスタを注文する。
もう一人は肉料理を注文する。
調理にかかる時間は違う。けれど、料理はできるだけ同じタイミングで出さなければならない。
オーダーが入った瞬間に、厨房ではすべてを逆算する。
パスタを茹で始める時間。
ソースを温める時間。
肉を焼き始める時間。
皿を温める時間。
前菜を出す順番。
一人だけが分かっていても駄目だった。
厨房も、フロアも、カウンターも、それぞれが今どこまで進んでいるのかを意識していなければならない。
一つミスをすると、すべての組み立てが狂う。
一皿が遅れる。
先にできた料理が冷める。
ホールが止まる。
お客様を待たせる。
次のオーダーまで詰まっていく。
技術だけでは足りなかった。
暑い厨房に立ち続ける体力もいる。
オーダーが入った瞬間に、すべての工程を逆算する頭の回転もいる。
それは厨房だけの話ではない。
フロアも、すべてのテーブルの食事の進み具合を見ていなければならない。
前菜が終わりそうな席。
まだ飲み物が残っている席。
次の料理を急ぐべき席。
少し間を置いた方がいい席。
お客様が求めている物を読み取る。
厨房の一つのミスは、フロアが受け止める。
フロアの一つの見落としは、厨房の段取りでカバーする。
一人のミスは、全員でカバーしなければならない。
そして、一人のミスは、全員に迷惑をかける。
そういう場所だった。
だから、あの店では、ただ料理ができるだけでは足りなかった。店全体の流れを見なければならなかった。
わたしは、少しずつそう考えるようになっていた。
わたしだけが残った
同期のオープニングスタッフで厨房に入った未経験者は、わたしのほかにもいた。
同年代の男が一人いた。
器用で、飲み込みも早かった。わたしよりも先に、いくつかの作業を覚えていたと思う。仲も良かった。
だが、思うところがあったのか、別の店へ行ってしまった。
一回りほど年上の男もいた。
未経験だったが、やる気を買われて採用された人だった。
最初のうちは声も大きく、よく動いていた。
けれど、少しずつ愚痴が増えていった。
思っていた仕事と違う。
教え方が悪い。
拘束時間が長すぎる。
これでは生活できない。
そんな言葉を残して、彼も辞めた。
もう一人は、高校を出たばかりの男の子だった。
プレオープンまではいた。
けれど、オープンして二週間ほどで来なくなった。
結局、未経験で厨房に入り、最後まで残ったのは、わたしだけだった。
残れたというより、しがみついた。
調理希望で入ったのに、厨房では役に立てない。
だから、フロアにも出た。
カウンターにも入った。
ワインの開け方を覚えた。
カクテルも覚えた。
シェーカーを振ることも覚えた。
お客様に料理を説明することも、嫌いではなかった。
このソースには何が入っているのか。
このパスタは、なぜこの太さなのか。
肉はどう火を入れているのか。
どのワインが合うのか。
厨房で覚えたことを、客席で言葉にする。
お客様に説明することで、わたしの中でも理解が深まっていく。
そういう仕事は、わたしに合っていたのだろう。
今日は何作るんだい?
ランチタイムが終わると、お店は休憩時間になる。
わたしは料理長の三浦さんに、頭を下げてお願いした。
「自分でオーダーします。だから、お店のメニューの作り方を教えてください」
三浦さんは「料理長」の肩書きからは考えられないほど穏やかで陽気な、当時のわたしの父親くらいの年齢の人だった。
しかし、料理には厳しい。
レシピは、すべてメモしてあった。
ただ、メモを取ることと実際に作ることは違う。
実際に手を動かさなければ身につかない。
最初は、細かく注意を受けながら仕上げていった。
火が強い。
ソースを煮詰めすぎだ。
パスタを上げるのが少し早い。
すべて食べ終えた時点での味を考えて塩を振れ。
皿のふちを拭く。
そういうことを、一つずつ直された。
だが、毎日、何度も作るうちに、注意される回数は少しずつ減っていった。
三浦さんは、横で見ながら、「うん」「うん」と、短く言うだけになった。
やがて、わたしがお願いするより先に、三浦さんの方から声をかけてくれるようになった。
「…で、あっちゃん。今日は何作るんだい?」
「はい!ボロネーゼを作ります!」
そう言って、わたしはフライパンを持ってガス台の前に立った。
三浦さんのおかげで、わたしはガス台の前に立てるようになれたのだ。

藤倉玲
藤倉玲も、同じオープニングスタッフだった。
専門学校からの新卒入社だった。
二十歳だった。わたしより二つ下だった。
形式上は、玲も未経験としての入社だった。
けれど、調理師免許を持っていた。
学生の頃から飲食店で働いた経験もあった。
だから、同じ未経験と言っても、最初から立っている場所は違っていた。
包丁の扱いも、火の前での動きも自然だった。
オープンしてまもなく、玲はメインのガス台の前に立つようになった。
わたしがまだ、フロアと洗い場と仕込みの間を行ったり来たりしていた頃だ。
仕事中の玲は、テキパキしていた。
返事も早い。
動きも早い。
料理長に言われたことを、すぐに理解して動く。
自分で判断して動ける。
けれど、休憩中の玲は少し違った。
よく笑った。
笑うと、もともと細い一重の目が、さらに細くなった。
真面目でかわいらしい。まだ少し幼さも残っていた。
高校生の頃は、生徒会の副会長をしていたそうだ。
そう聞くと、なるほどと思うところもあった。
仕事中はしっかりしているのに、普段は少しおっちょこちょいで、天然なところがあった。
そのギャップが、妙に印象に残った。
最初から、二人でよく話していたわけではない。
仕事中は、それぞれの持ち場があった。
同年代のアルバイトや、他の社員もいたから、みんなで話す機会はあった。
けれど、同期が少しずつ減り、わたしが仕事を覚えていくうちに、玲と二人で話す時間も増えていった。
歳も近かった。だから、仲良くなるのに、それほど時間はかからなかった。
ある日のランチ終わりだった。
店内には、トマトソースとオリーブオイルの匂いが残っていた。
パートの佐伯さんが、客席のテーブルを拭いていた。
わたしはカウンターの中で、グラスを片づけていた。
「相沢さんって、厨房希望なんですよね?」
背後から、玲の声がした。
振り向くと、カウンターの向かいにコック帽を外した玲が立っていた。

「一応、厨房スタッフだよ」
わたしはそう答えた。
一応、という言い方をしたのは、自信がなかったからだ。
玲は少し笑った。
「フロアに異動しちゃったのかと思った」
悪気はなかったのだと思う。
実際、その頃のわたしは、制服でフロアにいる時間の方が長かった。
わたしは、グラスを拭きながら言った。
「最近は、自分でもどっちだか分からないよ」
玲は「あはは」と楽しそうに笑った。
目が細くなった。その笑い方を、今でも覚えている。
「でも、どっちも大切でしょ?」
わたしがそう言うと、玲は腕を組んで
「うん。うん。そうだよねぇ」と、頷きながら感心したように言った。
特別な会話ではなかった。何かが始まった瞬間でもなかった。
ただ、その頃から、藤倉玲という人が、少しずつ近くなっていった。
レストランのスペシャリスト
わたしは、料理長や玲のような、料理のスペシャリストにはなれないだろう。
それは、わりと早い段階で分かった。
同じ厨房にいても、玲は調理師としてどんどん前へ進んでいく。
わたしは、その周りを走り回っている。そんな感覚があった。
けれど、わたしは色々と器用だった。記憶力にも自信があった。
よく言えば、なんでも平均以上にこなすことができた。
料理のスペシャリストになれないのなら、店全体を見られるレストランのスペシャリストになればいい。
そう考えて、そこを目指した。
来店したお客様を席へ案内する。
料理を説明する。
オーダーを取る。
カウンターでカクテルを作る。
厨房へ戻ってパスタを作る。
料理を運ぶ。
会計をする。
この一連の流れを、全部一人でこなせる人間は、ヴェルデでは、わたしだけだった。
玲の中のわたし
玲にとって、わたしは年上の同僚だった。
普段も仲良くできる友達。
後になって、彼女はそんなふうに言った。
恋愛対象として見ていたわけではない。
玲自身も、わたしからは友達として見られているものと思っていたらしい。
そんな中、いつかの休憩時間に玲は言ってくれた。
「未経験の人、みんな辞めていったのに、あっちゃんはすごく頑張って、いろいろ覚えていくのがすごいと思うよ」と。
自分がしがみつくように覚えてきたことを、見てくれている人がいた。
その言葉は、嬉しかった。
トラットリア・ヴェルデの木漏れ日の中で、藤倉玲という人の輪郭が、少しずつ濃くなっていった。

たぶん、少し泣く
次回: 第三話 眩しい木漏れ日の中にいた
