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たぶん、少し泣く|第三話 眩しい木漏れ日の中にいた

前回:第二話「トラットリア・ヴェルデ

第三話 眩しい木漏れ日の中にいた


繁盛店の喧騒と二人の距離

ヴェルデは、ランチタイムからとにかく忙しい店だった。

開店してしばらくすると、入口にはお客様が並ぶ。
フロアでは、来店案内、オーダー、料理提供、レジ、電話対応が重なる。
厨房では、パスタの鍋から湯気が上がり、ピザや前菜の皿が次々に並んでいく。

皿の音。
グラスの音。
厨房から飛ぶ声。
お客様の話し声。
床を踏むスタッフの足音。

店内の喧騒は、繁盛店の証だった。
その中に、自分の居場所ができていくことを、わたしは少し誇らしく感じていた。

玲は、相変わらず厨房でよく動いていた。

わたしは、玲のことを「藤倉さん」と呼んでいた。
けれど玲は、わたしを「あっちゃん」と呼んでいた。

玲は少し人見知りをするところがあった。
初対面の相手や、店長、料理長のようにはっきり上の立場の人には、少し距離を置く。
けれど、仲の良い同僚やアルバイトスタッフには、自然に愛称をつけて呼ぶところがあった。
わたしが「あっちゃん」と呼ばれていたということは、玲の中で、わたしが気を置けない相手になっていたということなのだと思う。

その距離は、ほかの同僚よりは近かった。
休みが重なれば、二人でカフェ巡りに行くこともあった。
新しくできた喫茶店に行ったり、少し遠い店まで車で行ったりした。

店の内装を見る。
メニューを見る。
コーヒーの味を見る。
使っている器を見る。
客席の間隔や、店員の動きも見る。
二人で感想を語り合う。
それは、デートのようでもあり、勉強会のようでもあった。

玲は、わたしと二人の時もよく笑った。
仕事中の引き締まった顔とは違う。
少し気が抜けて、年相応というより、少し幼く見える笑い方だった。

わたしは、その笑顔を見るのが好きだった。

そして、もっと笑わせてあげたい。
できることなら、ずっとその笑顔を見ていたいと思うようになっていた。



曖昧には戻れない

気づいた時には、玲と二人で出かける時間が楽しみになっていた。

いつしか、シフト表を見る時、自分の行だけでなく、玲の行も追うようになっていた。
休みが重なるかどうかを、自然に気にしていた。
店で顔を合わせるだけで、少し安心するようになっていた。

当時、普及し始めていた携帯電話で連絡を取り合うようにもなっていた。まだ、折りたたみ式が最新だった頃だ。
メールでのやり取りも増えていった。


そんなある日の休憩時間、玲が言った。
「アルバイトの子に、“相沢さんって絶対に藤倉さんのことが好きだよ”って、からかわれちゃった」

わたしは否定できなかった。
玲が、いつものような軽い返しを想定していたのか。
それとも、少し探りを入れたかったのか。
そこは分からない。

わたしが返せたのは、
「……うん。そうだよ」
それだけだった。

いつもと違うわたしの反応に、玲は少し困惑したようだった。
「あ、ありがとう……」
そう言って、足早にその場を離れていった。

全部言ってしまったら、今の関係が変わってしまうのではないか。
二人でカフェに行くことも、何気なく笑い合うことも、今まで通りではいられなくなるのではないか。
そう思うと怖かった。

けれど、もう隠せなかった。


その日の夜、わたしは電話で玲に気持ちを伝えた。
一緒にいる時間が楽しいということ。
これからも一緒にいたいということ。
好きだということ。
そして、恋人として、彼女として、付き合ってほしいということ。
言葉を選びながら、たぶん、そんなふうに伝えた。

玲は、しばらく考えてから、ぽつぽつと話した。

「あっちゃんのことは、好き」
玲は、そう言った。

一緒にいるのは楽しい。
カフェ巡りも、食べ歩きも、これからも行きたい。
仕事でも信頼している。

けれど、そういうふうには見ていなかった。
あっちゃんのことは、同僚として、友達としてしか見ることができない。
自分も、あっちゃんからはそういうふうに見られていると思っていた。

「……ごめんね」と、玲は言った。
それでも、これからも一緒にカフェ巡りとかには行きたいと思っている。
そんなことを言った。

玲は、わたしとの関係を壊したくなかったのだと思う。
今まで通り、仲の良い同僚として。
気を置けない友達として。
休みが合えば、また二人でカフェに行くような関係として。
玲にとっては、それが自然だったのだと思う。

でも、わたしにはできなかった。

わたしは、手先は器用な方だった。
料理も、接客も、カウンターの仕事も、覚えればそれなりにできた。
その場に合わせて動くことも、苦手ではなかったと思う。

けれど、人との関係を曖昧なまま扱うことはできなかった。

告白してしまったあとで、何もなかったように二人で出かける。
今まで通りに笑って、今まで通りに店の話をする。
そういう器用なことが、わたしにはできなかった。

「告白してしまった後で、また二人きりで出かけるのは辛いよ」
たぶん、そんなことを言ったのだと思う。

玲を責めたかったわけではない。
困らせたかったわけでもない。
ただ、自分がそういう距離に耐えられないことだけは分かっていた。

玲は、少し間を置いて言った。
「そっか……ごめんね。ありがとう」

そんな言葉で、その夜の電話は終わった。


店に戻れば、また仕事がある。
翌日になれば、お客様は来る。
ランチの仕込みもある。
オーダーも通る。

けれど、二人の距離は、その夜を境に、少しだけ変わっていた。



手放しちゃいけない人

翌日になれば、店はいつも通りだった。

ランチの仕込みがある。
予約の確認がある。
お客様が来れば、席へ案内する。
オーダーを取る。
料理を出す。
皿を下げる。

わたしたちの距離感など、店には関係がなかった。

だから、わたしたちは働いた。
何もなかったように。
少なくとも、そう見えるように。

けれど、何もなかったわけではなかった。
それまでなら、休憩中に自然に話しかけられた。
少し時間が空けば、次に行きたい店の話もできた。
玲が笑えば、わたしも普通に笑えた。

でも、二人の間には、少しだけ間ができていた。

気まずくしたかったわけでもない。
ただ、それまでと同じ距離には戻れなかった。
玲も、それを感じていたのだと思う。


どのくらい経ってからだったのか、正確には覚えていない。
けれど、玲がもう一度、わたしに話をしてきたことは覚えている。

「あっちゃんと、これからもカフェ巡りとか、食べ歩きとかしたいって、思った」

それは、前にも聞いた言葉だった。
けれど、その時の玲の言い方は少し違っていた。

「あっちゃんと少しぎこちなくなって、これから距離ができちゃうのかなって思ったら、すごく怖くなった」

「あっちゃんが頑張ってるのを見てきて、すごいなって尊敬してた」

「一人で食べ歩きするより、あっちゃんと一緒の方が楽しい。美味しい」

「そういうことを考えたら、あっちゃんを、手放しちゃいけない人なんだって思った」

玲は、わたしが離れていくかもしれないことを、初めて現実として考えたのだと思う。

二人で知らないお店に食べ歩きに行くこと。
カフェで感想を言い合うこと。
休みが重なった時に、どこへ行くかを話すこと。
店で何気なく笑い合うこと。
そういうものが、当たり前ではなくなるかもしれない。

当時の言葉とどれだけ同じなのかは分からない。
けれど、わたしの中には、そういう意味として残っている。

玲は、わたしのことを最初から恋愛対象として見ていたわけではない。
それは、たぶん本当だった。

でも、離れるかもしれないと思った時に、初めて分かったのだと思う。
同僚としてだけではなかった。
友達としてだけでもなかった。
一緒にいることが、玲にとっても自然になっていたのだと思う。

「あっちゃん、わたしと付き合ってほしい」



玲からのお願い

玲は、付き合うに当たって、いくつかのお願いをしてきた。

ひとつは、家のことだった。

玲の家には門限のようなものがあった。
遅くなってもいい。けれど、朝には必ず家にいること。
それは、玲の家の決まりだった。
そして、玲自身もそれを守ろうとしていた。

わたしは一人暮らしをしていた。
けれど、玲がわたしの部屋に泊まっていったことは、一度もない。
付き合っているのだから、泊まっていけばいい。
そんなふうに軽く考えることはできなかった。
玲は、そういうところは真面目だった。
わたしはその真面目さを尊重したかった。

泊まりの旅行に行ったことは、何度かある。
その時は、玲が両親にきちんと話をしていた。

ただ、わたしたちはどちらも仕事が忙しかった。
同じ日に休みを取ることも、簡単ではなかった。

一泊なら、どうにかできることもあった。けれど、それ以上の旅行は難しかった。
二人同時に連休を取ることが、ほとんどできなかったからだ。
それでも、玲とのその決まりを、わたしは守った。
一度も、破らなかった。


もうひとつは、連絡のことだった。

どんなに遅くなってもいいから、毎日必ず連絡してほしい。
電話ができないなら、メールでもいい。

仕事で遅くなっても。
疲れていても。
眠る前の短い時間でも。
電話できる時は電話をした。
できない時は、メールを送った。
わたしは、それも守り続けた。


そして、もうひとつ。

「藤倉さんじゃなくて、玲って呼んでほしい」

玲は、そう言った。
付き合うのだから、名字ではなく名前で呼んでほしい。それは、自然なお願いだったと思う。

わたしは、玲と呼ぶようになった。
最初は少し照れくさかった。けれど、うれしくもあった。

だから、わたしも言った。
「じゃあ、玲も名前で呼んでよ」

玲は、少し困ったように笑った。
「わたしにとって、あっちゃんはあっちゃんだよ」
「いまさら恥ずかしいよ」
そんなことを言った。

「そのうちね」
玲は、そう言って笑った。

玲にとって、わたしは「あっちゃん」だった。
それでも、その頃のわたしは、それを不満には思っていなかった。

わたしは「そのうち」を、待っていた。
いつか二人の関係がもっと進み、その時には名前で呼んでくれるのだろうと思っていた。
その時を、楽しみにしていた。

そうして、わたしたちは恋人同士となった。



恋人としての日々

付き合い始める前から、わたしたちの関係は、ある程度できあがっていたのだと思う。

休みが合えば一緒に出かける。
店の話をする。
食べ歩きをする。
電話をする。
メールを送る。
けれど、同じ時間が、前より少しだけ幸せに感じられた。


店では、相変わらず忙しかった。
ランチタイムにはオーダーが並び、ディナーには予約が入り、週末にはパーティーの準備もあった。

玲は厨房で主力として働いていた。
わたしはフロアと厨房とカウンターを行き来して、手の足りないところをカバーしてまわった。

仕事中は、恋人というより、同じ店のスタッフだった。
それでも、少しだけ変わったことはあった。

忙しいランチの途中ですれ違う。
ふと目が合う。
ほんの一瞬だけ、玲が笑う。
それだけで、その日の疲れが少し軽くなるような気がした。

仕事は忙しかった。
休みも合いにくかった。
連絡も、夜遅くになることが多かった。
それでも電話をした。
電話ができない日は、メールを送った。
短い言葉でも、一日の終わりに玲と話せることが嬉しかった。

休みが合えば、二人で出かけた。

「盛り付け、きれいだったね」

「でも、ちょっと味濃かったかも」

「椅子はよかったよね」

「入口の感じ、好きだった」

「店員さんの対応良かったね」
玲が言った。

「料理の最後の味付けは、店員さんの笑顔だよ」
わたしがそう言うと、玲は笑った。

「あはは。そうだよねぇ」

二人で、そんな話をしていた。

ただ遊んでいただけではなかった。
けれど、勉強だけでもなかった。

派手な恋愛ではなかった。
二人で同じものを見て、食べて、同じものについて話す。
その時間が、わたしには楽しかった。


玲は、料理の話になるとよく喋った。
普段は少し人見知りで、相手によっては言葉を選ぶところがあった。
けれど、料理や店の話になると目の色が変わることがあった。
その表情を見ると、やっぱり玲は料理の人なのだと思った。

わたしは、料理人として玲や三浦さんのようにはなれないと思っていた。
それは負け惜しみではなく、実感だった。

玲には、料理に向かう時の迷いのなさがあった。
三浦さんには、積み上げてきた技術と経験があった。

わたしは、そこまでは届かないだろう。
その代わり、店全体を見られる人間になりたいと思うようになっていた。
それがわたしの居場所になると思っていた。
玲と一緒にいるようになってから、その気持ちは強くなっていった。



ふたりのお店

いつか、自分たちの店を持てたらいい。
そんな話を、二人でするようになった。

最初は、たわいのない雑談からだったと思う。
けれど、口にする回数が増えるほど、少しずつ形を持っていった。
いつの間にか、それは二人の夢のようになっていた。

「わたしが料理を作って、あっちゃんがサービスするの」

「いや、料理も作るよ?」

「あはは。もちろん手伝ってよね」

玲は、そういう話を楽しそうにした。
わたしも楽しかった。

現実のことは、まだ何も分かっていなかった。
資金のことも、経営のことも、人を雇うことの難しさも、十分には分かっていなかった。
それでも、その頃は、そういう話をしているだけで楽しかった。

仕事は忙しかった。疲れてもいた。
けれど、その忙しさの中に、確かに幸せがあった。



玲の見ていたもの

食べ歩きをするようになると、二人で行った店のことを、何か形に残したくなった。

料理の盛り付け。
店の入口。
テーブルの配置。
照明の明るさ。
使っている器。
メニューの作り方。
いつか自分たちの店を持つなら、そういうものも参考になると思っていた。
それで、小さなカメラを買った。

まだ携帯電話のカメラで、きれいな写真を撮るような時代ではなかった。
フィルム式の小さなカメラだった。
今のように、ほとんど無制限に撮れるわけではない。
フィルムの残り枚数も気にしなければならなかった。

今なら、レストランで料理の写真を撮ることは珍しくない。
けれど、あの頃はまだ、そういう空気ではなかった。
料理にカメラを向けるわたしたちは、少し変な目で見られていたかもしれない。


最初は、料理の写真を撮るつもりだった。
けれど、玲は料理だけではなく、少し変わったものをよく撮っていた。

テーブルに落ちた午後の光。
グラスについた水滴。
食べ終わったあとの皿。
店先に置かれた鉢植え。
少し欠けた木の椅子。
誰もいないカウンター。
窓際に揺れる影。

「それ、撮るの?」
わたしがそう聞くと、玲はファインダーを覗いたまま言った。

「うん。なんか、いいじゃん」
そう言って、シャッターを切る。

玲は、少し変わったものをきれいだと言う人だった。
料理の勉強のために買ったはずなのに、玲が撮るものには、料理の横に落ちた光や、空になったグラスや、椅子の影なども混ざっていた。
わたしには、最初、それが少し不思議だった。
でも、玲が撮った写真を見ると、たしかにそこには、店の空気のようなものが写っていた。

料理だけでは残らないもの。
味だけでは分からないもの。
その店にいた時間の空気。
そういうものを残したかったのかもしれない。
玲には、玲なりのものの見方があったのだと思う。
そういうところは、日常の小さな呼び方にも出ていた。


わたしが使っていた折りたたみ式の携帯電話のことを、玲は「パカパカ」と呼んでいた。

「そのパカパカ、メール打ちやすい?」
そんなふうに聞いてくる。
少し子どもっぽい呼び方だったけれど、そこにも、玲なりの愛着があった。


そういう玲の感性は、わたしへの誕生日プレゼントにも表れていた。

ある年、玲は自動巻きの機械式腕時計をくれた。
最初、バイクや機械いじりが好きだった、わたしの趣味に合わせて選んでくれたのだと思っていた。
けれど、たぶんそれだけではなかった。
玲自身も、そういうものに惹かれるところがあったのだと思う。

玲は、その時計を見ながら言った。

「ちゃんと巻かないと動かないんだよ」

「放っておくと、止まっちゃうんだよ」

「かっこいいでしょ?」

そう言う玲の方が、どこか嬉しそうだった。

わたしは、その時計をとても気に入った。

機械式の腕時計は、たしかに面倒だった。
時間は少しずつずれる。
止まれば、またネジを巻いて動かさなければならない。

けれど、その面倒くささを、玲は少し楽しそうに見ていた。
そういうところも、玲らしかった。



木漏れ日の写真

ヴェルデには、ランチタイムが終わったあと、少しだけ店の空気が緩む時間があった。

お客様の声が引いていく。
片付けたテーブルに、午後の光が落ちる。
洗い終えたグラスが、カウンターの上で小さく光る。
忙しかった時間の熱だけが、まだ店の中に少し残っている。
その時間が、わたしは好きだった。

ある日のアイドリングタイムに、その日は休みだった玲がお店に立ち寄った。
カウンターで片付けをしていたわたしを見つけ、楽しそうにカメラを向けた。

それを見ていたパートの佐伯さんが、わたしたちを見て言った。
「あら、一緒に撮ってあげるわ」
そう言われて、断る理由もなかった。

わたしはフロアの制服のままだった。
玲はカジュアルな普段着だった。
並んで立ち、寄り添うほどでもなく、けれど離れているわけでもない。
そんな距離で、わたしたちはカメラの方を向いた。

その時の玲は、笑っていた。
細い一重の目が、さらに細くなる、わたしの好きな笑い方だった。
わたしも笑っていた。

佐伯さんも、楽しそうに笑いながらシャッターを切った。
「……あら。なんだかすごくいい雰囲気ね」

写真を撮られたあと、玲が小さな声で言った。
「ばれちゃったかな?」

わたしも小さく笑った。
「ばれたかもね」

その場面を今でもはっきり覚えている。

ランチの慌ただしさが過ぎた後の店内。
カウンターに残ったグラスの光。
テラスから差し込む木漏れ日。
佐伯さんの笑い声。
隣で笑っていた玲。

あの頃のわたしたちは、忙しかった。
休みは合いにくかった。
毎日疲れていた。
将来のことを、分かっているようで何も分かっていなかった。
それでも、確かに幸せだった。



一番近くにいられた場所

ヴェルデで過ごした時間は、わたしにとって、ただの職場の記憶ではない。
料理を覚えた場所であり、接客を覚えた場所であり、自分の居場所を作った場所だった。
そして、玲と一番近く、一番一緒にいられた場所だった。

光が眩しいほど、影は濃くなる。
木漏れ日の中で、光と影の境目はくっきりと浮かび上がっていた。
あの頃のわたしたちは、眩しい木漏れ日の光だけを見ていた。



たぶん、少し泣く

次回: 第四話 ひびのはいる音

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