たぶん、少し泣く|第四話 ひびのはいる音
前回:第三話 眩しい木漏れ日の中にいた
第四話 ひびのはいる音
ヴェルデでの五年間
ヴェルデで働きはじめて、五年近くが過ぎていた。
わたしたちは、ヴェルデの中でも古株になっていた。
わたしは二十七歳。
玲は二十五歳だった。
わたしはフロア長になっていた。
最初は何もできなかったわたしが、いつの間にか、店の中のいろいろな役割を任されるようになっていた。
アルバイトに指示を出す。
テーブルで料理について詳しい解説をする。
カウンターでシェーカーを振り、カクテルを作ることもできた。

ガス台の前にも立てるようになっていた。
メイン料理までは任せてもらえなかったが、わたしがパスタを担当すれば、その分、三浦さんや玲がメイン料理に集中できる。
そう、玲はメイン料理も任される立場になっていたのだ。
玲がフライパンを振る姿を、わたしは少し離れたところから見ることがあった。
忙しいランチの最中でも、玲の動きには迷いがなかった。
火の前に立ち、皿を仕上げ、声を出し、次の料理に移る。
出会った頃より、ずっと料理人らしい顔になっていた。
その姿を見るたびに、わたしももう少し先へ行きたいと思うようになっていた。
玲も、少し疲れていたのだと思う。
ヴェルデは繁盛店だった。
ランチは忙しく、夜は夜で気を抜けなかった。
結婚式の二次会やパーティーが入ることもあった。
店の中は、いつも人の声と皿の音で満ちていた。
二十五歳の玲が、あの忙しい店に毎日立ち続けるのは、簡単なことではなかったと思う。
玲は、わたしより一足早くヴェルデを辞め、定休日のある観光施設内のレストランへ移ることになった。
観光客向けの、今で言えば「映える」料理を出すレストランだった。
「夕方には閉店だし、定休日あるし、それでいて料理もちゃんとしてる。長く続けられるよ」
玲が、自分自身のことも、わたしとの時間のことも考えてくれていることが伝わり、嬉しかった。
退勤時間が早くなった玲が、わたしより先に部屋へ入れるように、合鍵を渡してあった。
わたしが先に眠ってしまっても、ひとりで帰れる。
それから、玲はわたしの部屋で料理を作って待っていてくれるようになった。
わたしの帰る部屋で、玲が待っていてくれる。
疲れていても、帰りの足取りは軽くなった。
ドアを開けると、炊いた米の匂いや、味噌汁の湯気や、フライパンに残った油の匂いがした。
店では一日中料理の匂いの中にいるのに、玲が作った料理の匂いは、少し違っていた。
そこには、仕事ではない生活の匂いがあった。
交差点の店
わたしも、ヴェルデを離れ、市内に新しくオープンする店へ移ることにした。
ヴェルデは、時折潮風を感じられる海岸近くの立地にあった。
新しくオープンする店は、市街地の中に出店する予定だった。
地元の建築会社が外食部門を立ち上げ、その第一号店として出す店だった。
わたしは、オープニングスタッフとして採用された。
ここなら、ヴェルデとも競合しない。
不安よりも、期待の方が大きかった。
自分ならできる。
そう思っていた。
店の名前は、リストランテ・クローチェと言った。
クローチェ(croce)は、イタリア語で「十字」や「交差」を意味するらしい。
大きな交差点の近くにあるその店には、よく似合う名前だった。
建築会社が自社で建てた建物は、ヴェルデとは違う、都会的な雰囲気をまとっていた。

クローチェでのわたしに、はっきりした役職名はなかった。
店長ではない。
料理長でもない。
けれど、実質的には副店長のような立場だった。
ヴェルデでフロア長を務め、料理もできる人間として買われていたのだ。
正式なオープンまでには、店長と料理長が合流する。
それまで現場を支えてほしい。
そう説明されていた。
わたしは、その言葉を前向きに受け取った。
ヴェルデで、いろいろな仕事を覚えた。
フロアも、カウンターも、厨房の一部も分かる。
いつか玲と店を持つなら、こういう経験は必要だと思った。
店ができる前の不安定さも、現場が整っていく過程も、ヴェルデのオープン時に知っている。
今の自分なら、あの頃よりもっとできる。
店を一から立ち上げる経験なんて、そう何度もできるものではない。
大変だとしても、きっと自分の力になる。
そう考えていた。
玲にも、その話をしたと思う。
「大変そうだね。店長も料理長もいないなんて、大丈夫かな」
玲はそう言った。
心配しているようでもあり、応援しているようでもあった。
わたしは、たぶん笑って答えた。
「でも、いい経験になると思う」
本当にそう思っていた。
来ない人たち
オープンが近づくにつれて、話が少しずつ変わっていった。
店長の合流が、遅れることになった。
その後、前の店を辞められなくなったらしく、代わりの人間を探していると知らされた。
店長がいなくても、店の準備は進んでいく。
テーブルが運び込まれる。
食器が届く。
メニューが決まる。
スタッフが集まってくる。
新しい店が、少しずつ店の形になっていく。
その過程を見ているのは、嫌いではなかった。
むしろ、面白いと思っていた。
ただ、確認しなければならないことは多かった。
スタッフから聞かれる。
業者から確認される。
本社から連絡が来る。
決めなければならないことが、毎日のように出てくる。
本来なら店長に聞くようなことも、現場ではわたしのところへ来た。
続いて、料理長の合流も遅れることになった。
幸い、メニューやレシピなどは、開業を支援していたマネジメント会社が用意してくれたものがあった。
しかし、現場レベルのことは、わたしたちオープニングスタッフが考えなければならなかった。
不安がなかったわけではない。
けれど、ヴェルデで何年も働いてきた。
フロアも、カウンターも、厨房の一部も見てきた。
現場の流れなら分かる。
いる人間でやるしかない。
そう思った。
代わりの人間が決まるまで、店長代理として現場を見てほしいと言われた。
わたしは、それを引き受けた。
大変なのは分かっていた。
けれど、まだやれると思っていた。
いつか自分たちの店を出すなら、こういう経験も必要になる。
店が立ち上がる時の混乱も、スタッフが慣れていくまでの不安定さも、きっと勉強になる。
そう考えていた。
玲には、少し心配された。
けれど、わたしは大丈夫だと答えたと思う。
実際、その時はまだ、大丈夫だと思っていた。
当時のわたしには、責任を引き受けることと、無理を抱え込むことの違いが、分かっていなかった。
休憩のない日々
店長代理とはいっても、わたしを支えてくれる副店長のような存在はいなかった。
調理場には、わたしより経験の長いスタッフもいた。
スタッフ同士の仲も良かった。
皆、協力的だった。
けれど、責任を分担して背負ってくれる人も、深い部分で相談できる人もいなかった。
現場のことは、ほとんどわたしのところへ来た。
ひとつひとつは、小さなことだった。
食材が足りない。
予約の時間が重なっている。
新人が手順を間違えた。
お客様から確認が入った。
本社に数字を出さなければならない。
シフトを組み直す必要がある。
その小さなことが、毎日、少しずつ積み重なっていく。
朝一番で店に入る。
開店準備をし、レジを確認し、予約表を見る。
足りないものを確認し、スタッフに指示を出す。
そうしているうちに、ランチタイムが始まる。
客が入る。
料理が出る。
皿が下がる。
客が帰る。
その繰り返しだった。
ランチが終わると、本来なら休憩できる時間だった。
けれど、わたしには休憩がなかった。
スタッフにまかないを作り、皆が食べている間に、わたしはシフトを組み、売上を確認し、発注を見直した。
自分の分を、ゆっくり食べている時間はなかった。
そうしているうちに、ディナーの営業が始まる。
閉店後はレジを締める。
報告書を作る。
足りないものをメモする。
それから本社へ寄って、売上の報告をする。
家に帰るころには、日付が変わっていることも珍しくなかった。
帰ったら、寝るだけだった。
寝なければ、翌朝起きられない。
玲が待ってくれていても、ゆっくり話している時間はなかった。
玲が料理を作り置きしていてくれたこともあった。
けれど、味わって食べている余裕は、少しずつなくなっていった。
明日のことを考える。
起きる時間を考える。
店のことを考える。
それだけの生活になっていった。
短くなる言葉
玲と会う時間も、少しずつ減っていった。
ずっと続けていたカフェ巡りにも、食べ歩きにも行けなくなった。
休みの日に、わたしが動けなくなっていったのだ。
行きたい店はあった。
玲が雑誌やチラシを見て、ここ良さそうだよと言うこともあった。
わたしも、「行きたいね」と答えた。
行きたかった。
けれど、実際には行けなかった。
休みの日は、身の回りのことをして、少し横になって、それだけで終わっていた。
玲とは毎日連絡をしていた。
どんなに遅くなっても連絡する。
それは、付き合い始めた頃に玲が言ったお願いのひとつだった。
面倒だと思ったことは一度もない。
わたしたちの日課になっていた。
以前なら、今日の出来事や、面白かったお客様の話、次に食べに行きたい店のことなど、色々なことを話していた。
けれど、内容は短くなっていった。
今日も遅くなりそう。
今帰ったよ。
明日も早いんだ。
ごめん、もう寝るね。
そんな言葉ばかりになった。
玲の職場の話も聞いていた。
どんな料理を出しているのか。
観光客はどんな反応をするのか。
夕方に店が閉まる生活はどうなのか。
聞きたいことは際限なく浮かんだ。
けれど、言葉が出てこなかった。
頭の中にあるのは、店のことばかりだった。
売上。
シフト。
発注。
明日やらなければならないこと。
玲と話していても、返事が遅れることが増えた。
「どうかしたの?」
そう言われて、はっとする。
「なんでもないよ」
そう答える。
玲は責めなかった。
「無理しないでね」
わたしは、そのたびに、
「大丈夫だよ」
と返した。
大丈夫だよ。
もう少しだから。
落ち着いたら、どこか行こう。
ちゃんと休むよ。
その言葉は、玲に向けたものというより、自分に言い聞かせるためのものだった。
助けではなかった
しばらくして、代わりの店長兼マネージャーと、料理長が入ってきた。
これで少し楽になる。
そう思った。
ようやく、店長と料理長がそろう。
これで、本来の形になる。
そう思っていた。
しかし、そうはならなかった。
店長と料理長が入ったからといって、わたしの仕事量が大きく減ることはなかった。
むしろ、そこから別の苦しさが始まった。
新任の店長から、この規模の店で、この程度の売上しかないのは、お前が駄目だからだ。お前の責任だ。
そのようなことを言われた。
細かな言い回しは、もう曖昧だ。
けれど、そう受け取るしかない言い方だった。
店長も料理長もいない中で、どうにかオープンさせた店だった。
分からないことを確認しながら、毎日、現場を回してきた。
スタッフも協力してくれた。
それでも、後から来た人間には、結果しか見えない。
売上が足りない。
現場が弱い。
管理が甘い。
教育ができていない。
その原因は、わたしにある。
そう言われているようだった。
わたしは反論できなかった。
もっと上手くできたのかもしれない。
自分に力があれば、もっと売上を作れたのかもしれない。
もっと上手に人を動かせたのかもしれない。
一方で、ここまで回してきたのは自分だ。
そんな思いもあった。
けれど、その思いを口に出すことはできなかった。
言えば、言い訳になるような気がした。
結局、自分はまだまだ力不足だったのだ。
そう認めるしかなかった。
眠れない夜
それから、眠れなくなった。
最初は、帰ったらすぐに寝ていた。
寝なければ翌朝起きられないからだ。
布団に入れば、すぐに意識が落ちた。
疲れ切っていたから、眠ることだけはできていた。
しかし、目覚ましが鳴る前に目が覚めるようになった。
まだ暗い時間だった。
起きるには早すぎる。
けれど、もう一度眠ることができない。
天井を見ながら、今日の営業のことを考える。
予約の数。
スタッフの配置。
昨日注意されたこと。
本社に出す数字。
料理長の顔。
店長の声。
考えたくないのに、頭が勝手に動く。
眠らなければならない。
そう思えば思うほど、眠れなくなる。
寝過ごすことはできない。
そう思えば思うほど、目が覚めてしまう。
朝が近づいてくるのが怖かった。
仕事中に、ぼうっとすることが増えた。
今までなら気づけたことに気づけない。
言われたことが、すぐに頭に入らない。
簡単な判断に時間がかかる。
当然、店長や料理長に注意される。
注意されると、さらに焦る。
焦ると、また間違える。
その繰り返しだった。
できていたことが、少しずつできなくなっていった。
それでも、身体は店へ向かっていた。
戻らなければならない
いつしか、出勤すると吐き気に襲われるようになった。
最初は、朝食を抜けば大丈夫だと思った。
けれど、食べなくても吐き気は来た。
隠れてトイレで吐いて、仕事に戻った。
水で口をゆすぎ、鏡を見る。
顔色が悪い。
それでも、制服を整えて、何もなかったようにフロアへ戻る。
戻らなければならない。
わたしが抜けたら、店が回らない。
今は店長も料理長もいる。
店が回らなくなることはなかったはずなのに、わたしは離れることができなかった。
真っ直ぐ立っていることすら、難しくなっていたのに。
病院、行こう
玲は、わたしの変化に気づいていたのだろう。
電話の声。
返事の遅さ。
会ったときの顔色。
食事の量。
笑い方。
わたし自身が気づかないものを、玲は見ていた。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
けれど、吐いてしまっていた。
「眠れてる?」
「まあ、なんとか」
眠れているとは、言えなかった。
玲は、それ以上強くは言わなかった。
ただ、わたしを見る目が、少しずつ変わっていった。
ある休日だった。
わたしは部屋で座ったまま動けなくなっていた。
洗濯。
片付け。
買い物。
次のシフトの確認。
やることはいくつもあった。
けれど、立ち上がることができなかった。
身体の動かし方が分からなかった。
ただ座っていた。
合鍵を使って、玲が入ってきた。
その日、どういう約束をしていたのかは、よく覚えていない。
玲は、しばらくわたしを見ていた。
わたしは、大丈夫だとか、少し疲れているだけだとか、そんなことを言ったのだと思う。
玲はしばらく黙って、それから、いつもより少し強い声で言った。
「病院、行こう」
その日、玲はわたしを心療内科へ連れて行った。
白い壁
診断は、仮面うつだった。
不眠による自律神経失調。
嘔吐が続いたことによる栄養不足。
医師は、このままでは命に関わる危険があるとまで言った。
命に関わる。
その言葉を、わたしはどこか上の空で聞いていた。
仕事を止めるように言われた。
ドクターストップだった。
その日のうちに診断書を書かれた。
玲は隣で聞いていた。
わたしよりも、玲の方が、その言葉を真剣に受け止めていたように思う。
わたしは、ぼんやりしていた。
これで休める。
明日のシフトはどうなるのだろう。
店は大丈夫かな。
玲に迷惑をかけた。
そんなことが、途切れ途切れに浮かんでは消えた。
玲が店の本社へ連絡してくれた。
その声は、いつもより落ち着いて聞こえた。
わたしの代わりに、玲が現実を引き受けてくれていた。
病院の白い壁と、玲の横顔を覚えている。

玲には聞こえていたのだと思う。
わたしの心身に、ひびが入っていく音が。
けれど、わたし自身には、その音が聞こえていなかった。
たぶん、少し泣く
