たぶん、少し泣く|第五話 彼女の泣き顔
第五話 彼女の泣き顔
強すぎた木
一度も使うことのなかった有給休暇を消化し終えると、わたしはそのまま退職し、療養生活に入った。
本社へ最後の挨拶に行った際に、飲食部の部長が頭を下げながら言った。
「相沢さんが全部やってくれているから大丈夫だと思って任せすぎた。申し訳ない」と。
もうどうでもいいと思っていた。
それでも、その言葉で少しだけ心が晴れた気がした。
料理長とマネージャーに会うことはなかった。
ある日、心療内科の白い部屋で、医師はこんな話をした。

「いまの君の状態は、君が弱いからそうなっているんじゃないよ。むしろ、強すぎたんだ」
「例えば、強い風が吹いたとき、柳の木なんかは、しなって風を受け流すよね」
「だけど、君は強いから、真っ正面から受け止め続けることができた。できてしまった」
「堅い木は確かに耐え続けることができるけど、限界を超えたとき、バキッと折れてしまう。折れてしまったら戻すのに時間がかかるよ」
「強くて堅い木じゃなくて、しなやかな柳の木になれるといいね」
わたしは、その話を黙って聞いていた。
眩しすぎる優しさ
玲は、仕事が終わると部屋に来てくれた。
合鍵を渡してあったから、わたしが眠っていても入ってこられた。
台所に立ち、冷蔵庫の中を見て、簡単なものを作ってくれた。
仕事に行かなくていい生活になったはずなのに、わたしの身体は店の時間から離れられずにいた。
朝、目が覚める。まず時計を見る。
昼になると、ランチの営業が始まる時間だと思った。
夕方になると、ディナーの準備を考えた。
夜になると、レジを締める時間を思い出した。
もう行かなくていいはずなのに、わたしの意識はクローチェに残っているようだった。
「少しだけでいいから、食べよう」
玲はそう言って、わたしの前に座った。
わたしは頷いた。
けれど、箸を持つだけで疲れた。
玲は責めなかった。
「食べられる分だけでいいよ」
そう言って、向かいに座っていた。
玲は強い女だったわけではない。
人見知りで、臆病で、怖がりなところもある女の子だった。
それでも、わたしのそばにいてくれた。
「ありがとう」
けれど、素直に受け入れることができなかった。
優しくしてくれるほど、情けなくなった。
そばにいてくれるほど、縛っているような気がした。
自分が本当に回復するのか分からなかった。
どれだけ時間がかかるのかも分からない。
またレストランで働けるのかも分からなかった。
収入のこと。
生活のこと。
将来のこと。
不安は積もっていく。
玲は、わたしの分まで買い物をして、料理を作り、片付けをしてくれた。
手伝おうとしても、身体が動かなかった。
ありがとうと言うことさえ、うまくできない日があった。
「一緒にいれば、なんとかなるよ」
玲は言った。
それは、いつかの木漏れ日のようにやさしく、眩しかった。
ひどく眩しかった。
震える肩
ある夜、玲はいつものように部屋に来ていた。
わたしは布団の上で、上体だけ起こしていた。
部屋は静かだった。
玲は、いつものようにそこにいた。
買ってきたものを冷蔵庫に入れ、台所を少し片付け、わたしの様子を見ていた。
それが日常になりつつあった。
けれど、その日常が続くほど、わたしの中では別の不安が大きくなっていった。
玲は、わたしのために時間を使っている。
玲は、わたしの生活を支えている。
玲は、わたしの回復を待ってくれている。
それがありがたいほど、苦しかった。
「玲」
そう呼ぶと、玲は短く、
「うん」
と、答えた。
わたしの大好きな、いつもの優しい返事だった。
「別れた方がいいと思う」
玲は、すぐには何も言わなかった。
「なんで」
小さな声だった。
このままでは玲に迷惑をかける。
いつ治るか分からない。
仕事に戻れるかも分からない。
玲の人生を、わたしの都合で止めるわけにはいかない。
そんなことを言ったと思う。
できるだけ感情を入れずに話そうとしていた。
玲は黙って聞いていた。
怒らなかった。
責めなかった。
ただ、顔が少しずつ歪んでいった。
「わたしが、重かった?」
玲が言った。
わたしは首を振った。
違う。
けれど、うまく言葉にできなかった。
わたしが黙っていることで、わたしが本気なのだと察したのだろう。
玲は下を向いた。
肩が、小さく震えた。
彼女の泣き顔
それまで、わたしは玲を泣かせたことがなかった。
映画やドラマを見て、目を潤ませる玲は見たことがある。
悔しそうな顔も、拗ねた顔も、怒った顔も見たことがある。
けれど、わたしが原因で泣かせた涙は、一度もない。
その玲が、わたしの前で泣いていた。
わんわん泣くのではなかった。
静かに涙を流すのでもなかった。
ううううぅ…という、うめき声に近い嗚咽。
喉の奥から、絞り出すような声だった。
あんな声を、わたしは今まで聞いたことがなかった。
今でも、耳の奥に残っている。
「ごめんなさいぃ」
玲は、消えそうな声で、そう言った。
なぜ玲が謝るのか。
謝るのは、わたしだ。
玲は何も悪くない。
悪いのは、わたしだ。
「一緒にいれば、なんとかなるって、思ってた」
「わたしが、わたしは、そんなにちゃんと、考えてなかった」
いっそ、責められた方が楽だった。
ひどいと言われた方がよかった。
怒ってくれた方がよかった。
泣きわめいてくれた方がよかった。
ただ、泣きながら謝っていた。
一緒にいてください
わたしは、玲のためだと言った。
けれど、違う。
いつか玲が疲れて、わたしから離れていくのではないかと、怖かったのだ。
「ごめん」
ようやく、そう言えた。
「ごめん。別れたくない」
「ごめん。ごめん。ごめん。……一緒にいてください」
玲は、きっと、ずっと、わたしから離れない。
わたしも、もう二度と玲を泣かさない。
いまは玲に支えてもらう。
そして、必ず元気になる。
わたしは、強く、硬く、そう誓った。
たぶん、少し泣く
