キャプションをなくすために
通院の日。
わたしのそれは治るものではないので、これから一生通院の日があるのだと思うと不思議な気持ちになる。考えないほうがいい。
あまり調子が良くなくて、なかなか起き上がれなかった。
パンにバターを山盛り塗って食べる。塗って、というより乗せて。
8月は予定のない日が1日もない。
ゆっくり落ち着いて短歌を詠みたい気分だから、時間を作らなければ、と焦る。
9月は少しゆるやかに過ごそう、と誓う。
病院へ向かうために駅に行くと、夏休みであろう中高生が目立つ。三人組の女の子たちが横一列に並ぶ。追い越したいけれど、気をつかう。そういや大学生の頃、そんなエッセイを書いた。とても昔に感じるし、とても昔なのだろう。
大学生の頃を思い出すと、暗い気持ちになる。文章を書くことから逃げたのはわたしのほうで、狭い世界で褒められたまま食い逃げをしたから。
今はだいぶ現実的になった。たとえば短歌といっしょに写真は載せたくないと強く強く思っているが、販促のためにZINEの表紙は写真にしようとしている。
同じように、本当は写真を載せるときにキャプションをつけたくない。音楽なんてもってのほかである。短歌はビジュアルなしで伝えるべき(もしくは伝えないべき)だし、写真は言葉なしで伝えるべき(もしくは伝えないべき)だ。特に撮ってもらった写真で載せたいと思うものにはその強度があると思っているし、あると思っているから載せているのに、結局多くの人に見てもらえるようにキャプションや音楽を付ける。ダサいことを自らわかってするなんて、中学生のわたしに怒られる。
美学がある。わたしの場合のそれは、極限まで少なくすることだと思う。短歌が好きなのは、情報が溢れかえる現代で、動画が主流のなか写真すら使わず、決められた文字数の中で表現するから。阿呆なことをしているなあ、と思う。そう思うたびにうれしくなる。何度やめようとしても、実際にやめても、どうせまたわたしは短歌を詠むだろう。ビジュアルや、かわいさや、若い女であることや、恋愛や、情報や、物語から、とてつもなく離れ、とてつもなく近づき、何もかもを忘れるように、何もかもを手元に残すために。


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毎日iPhoneのノーマルカメラで1枚だけ自撮りをしています。
Instagram(nyanmyun)などには、撮っていただいた写真を載せています。みてね┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
