壊れた側に立つということ
それでも回る組織の中で
人手が足りない、という言葉は、もう特別なものではない。
どの場所でも、どの現場でも、当たり前のように聞く。
誰かが一歩引けば、どこかに穴があく。
誰かが休めば、誰かが埋める。
そうやって、なんとか回っている。
その「なんとか」の中に、自分が立っているとき、ふと考えることがある。
もし、その役割が、自分の心や身体をすり減らす場所だったら。
それでも、それは「仕方ない」で済まされるのだろうか。
責任という言葉は、便利だ。
組織という言葉も、便利だ。
全体という言葉は、さらに強い。
でも、その中にいるのは、ひとりの人間だ。
血が通っていて、疲れもして、崩れもする。
どれだけ組織の都合や人手不足があろうとも、
一度身体を壊した人間を、もう一度同じ状況に置き、一人の人間の心と身体を壊してまで成り立つ運営は、正しいとは思えない。
そして、もしその選択しか残されないのなら、
壊れる側に黙って耐えることを求める構造そのものが、問い直されるべきだ。
そう書くと、強すぎるだろうか。
理想論に見えるだろうか。
でも、実際にはもっと静かな話だ。
壊れるかもしれないとわかっていて、
それでも立つしかない場所がある。
壊れたことがある人は、
その気配を早く察知する。
「また同じになるかもしれない」と思う瞬間がある。
それを弱さと言うのか。
それとも、経験と言うのか。
組織は続いていく。
人は入れ替わる。
役割はまた誰かが担う。
でも、そのとき壊れた側の感覚は、
きれいに整理されるわけではない。
ただ、少しだけ、胸の奥に残る。
それでも回っていく仕組みの中で、
自分はどこまで立っていられるのか。
答えはほぼ決まっている。
「終末」に向かう自分が遠くに見える
