その教室は、だれの教室なのだろう──「失礼します」と言う前に、少しだけ考える
教室のドアの前で
教室のドアの前で、小さな声が聞こえます。
「失礼します。」
そう言って入っていくのは、そのクラスの名簿に名前がある子です。席もあり、一緒に学ぶ仲間もいます。
それでも毎回、その言葉を口にしてから教室に入ります。授業が終わると、「ありがとうございました」と言って戻っていきます。
とても丁寧なやりとりです。間違っているとは思いません。
けれど、その姿を見ていると、私はほんの少し立ち止まってしまうのです。
来ている人、なのだろうか
その教室は、本来その子の教室でもあるはずです。
それなのに、「失礼します」と言うたび、どこか“来ている人”のように見えてしまわないだろうかと考えてしまいます。
考えすぎかもしれません。礼儀として大切な言葉だと言われれば、その通りです。
それでも、言葉は空気をつくります。
何気ない一言が、その場の関係をかたちづくることもある。そう思うと、どうしても気になってしまうのです。
こども園では、分けられていなかった
ふと思い出すのは、こども園の風景です。
特別な配慮が必要な子も、そうでない子も、同じ部屋で過ごしていました。
うまくいかない場面があっても、周りの子どもたちは少しずつ覚えていきます。どう声をかけるか、どう待つか。
特別という言葉より先に、「一緒にいる」という感覚が育っていくように見えました。
小学校に入ると、学び方の違いによって教室が分かれることがあります。必要な支援を保障するための仕組みです。それ自体を否定したいわけではありません。
ただ、その仕組みが、いつの間にか心の中にまで線を引いてしまわないか。そこが少し気がかりです。
通常学級の子どもたちは、どう見ているのだろう
私はときどき想像します。
毎回「失礼します」と入ってきて、毎回「ありがとうございました」と言って戻っていく姿を、周りの子どもたちはどんなふうに見ているのだろう、と。
何も感じていないのかもしれません。自然に受け止めているのかもしれません。
けれどもし、どこかで「あの子は少し違う立場の人」と無意識に位置づける瞬間があるとしたら。
その小さな区別が、長い時間の中で別の意味を帯びていかないだろうか。そう思うと、少し怖くなります。
差はあっても、同じ仲間でいられるだろうか
子どもたちは一人ひとり違います。学び方も、得意なことも、苦手なことも。
違いがあるのは自然なことです。
けれど、その違いが必要な配慮としてとどまるのか、立場の差に変わってしまうのか。
その境目は、思っているよりも小さなところにある気がしています。
私が譲れないこと
特別支援学級に在籍していても、その子は通常学級の仲間です。外から来る存在ではありません。
だからこそ、制度や慣習が子どもたちのあいだに見えない壁や上下を生むことだけは、受け入れられないのです。
大きな制度を論じたいわけではありません。ただ、教室に流れる空気のことを考えています。
細かいと思われるかもしれません。それでも、子どもたちが同じ場所にいると自然に感じられる時間を、できるだけそのままにしておきたい。
答えはまだ出ていません。
それでも、その教室がだれの教室なのかを、これからも静かに考え続けるのだと思います。
