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整えないでいられる立場を考える——揺れる空気の中で働くということ

空気が強くなる瞬間

先日、教室の空気が一気に張り詰めたと感じる場面があった。詳しい経緯に触れる必要はない。ただ、いつもより言葉の強度が上がっていたことだけは確かだ。

あのとき、私はすぐにその場に入るべきだったのかもしれない、と後から思った。もう一人の大人が立つだけで、空気の流れがわずかに変わることがある。

問題は、叱責の内容が正しかったかどうかではない。強い言葉が発せられた瞬間、その場にいる全員が何かを受け取る。その時間を、もう少しだけ短くできたのではないか。そんな思いが残った。

その場に立つか、立たないか

私は場を整えることができる。問いを置き、視点を整理し、見えにくい構造を示す。それだけで空気は変わる。

けれど、その整いは私がいる間だけのものかもしれない。

だから基本的に介入しない。本当に必要だと感じるときだけ、年に一度か二度、立つ。

整えることには、その場で応答が返ってくる手応えがある。だがその感覚に寄りかかれば、組織は自分で動く力を弱めてしまう。

揺れている組織というもの

これは学校に限った話ではない。

企業でも、会議の場で声が強まる瞬間はある。誰かが反発し、空気が張り詰めることもある。そのとき第三者が入るかどうかで、流れが変わることもある。

組織は、安定と揺らぎを行き来するものだ。規範が隅々まで共有されることはない。

私は学級を崩れているとは見ない。揺れている、と見る。

揺れを力で押さえるのか。揺れながら形を見つけていくのを待つのか。違いはそこにあると感じている。

整える人になる誘惑

経験を重ねるうちに、どこが崩れやすく、どこが安定するのかが見えてくる。介入すれば、一定の方向に動かせることもわかってくる。

それでも私が目指したいのは、教師と子どもが自分たちで整っていける環境を、静かに支える立場だ。

否定されない場所に身を置くのではなく、壊れない距離を保ちながら現場に立ち続ける。この二つだけは、手放さずにいたい。

揺れやすさを抱えたまま働くということ

私は体調に波を抱えたまま働いている。完全に回復した状態ではない。

強い空気に触れると、身体が先に反応することがある。一日の終わりに、急に疲れが押し寄せる日もある。

だから距離を測る。踏み込みすぎない。整えすぎない。

それは逃げではない。自分が壊れないための設計だ。

強い空気に触れて消耗した経験は、学校に限らず、多くの人が持っているはずだ。立ち続けることと、自分を守ること。その両立は簡単ではない。

私はいま、揺れやすさを抱えたまま、それでも立ち続ける方法を探している。

私たちは、整えなくても回る場をつくれるのか

ここまでの話は、教師という職業だけに閉じない。

どの組織にも、場を整えられる人がいる。だが、その人がいなければ回らない状態を、安定と呼べるのか。

私は教師として、自分がいないときに同じことが起きたらどうなるか、という問いを持っている。

中堅として支える人にも、チームを任されている人にも、この問いは重なるだろう。

整える力を持つ人が、あえて整えすぎない。それは無責任ではない。組織が自分で動く余白を残すという選択だ。

揺れている場の中で、自分が揺れすぎないように立つ。そして、誰か一人に依存しない空気をつくる。

その両方を、今の私は目指している。