落武者恐怖症 | 第9話
酔った全裸男が上機嫌でしゃべり倒している。中身のない話ばかりなのに、不思議と退屈はしなかった。
加能もひなも、声を上げて笑っている。川上も同様の反応をしながら、時折ひなに目線を送った。二人で話すタイミングをうかがっていたのだが、その隙はなかなか訪れない。
バーの扉が開き、新たな客が入ってきた。
最初に現れたのは、インターネット広告会社の元経営者、安川恵子だった。年齢は五十代半ばくらいだろう。しかし不自然なほど肌にハリがあり、遠目には四十代にも見える。全身をハイブランドのロゴで固め、入店した瞬間から甘ったるい香水の匂いが店内へ広がった。
川上は挨拶を交わしたあと、さりげなくスマホで検索し確認する。彼女の印象がだいぶ記憶と違い、混乱したからだった。
二〇〇〇年代初頭、創業した広告会社を上場させ、“女性カリスマ経営者”として時代の寵児になった人物――それが安川恵子だった。
だが七年前、脱税事件で失脚した。会社から追放され、連日のようにワイドショーで吊し上げられた女。その記憶が強く残っていた。
川上は株を始めたのがきっかけで、その会社について調べたことがあった。現在の時価総額は、全盛期の半分以下にまで落ち込んでいる。逆にいえば、それだけ安川の経営能力が突出していたということなのだろう。株主による安川再登板の期待は根強いと聞く。
けれど実際に会い、それは叶わない気がした。
はっきり言って、彼女はどこか壊れている。
肌のハリの不自然さだけではない。目は大きく切開され、二重は深く食い込み、小鼻は呼吸に支障が出そうなほど小さい。赤く膨らみ過ぎた唇は、スズメバチに刺されたのかと心配になる異常さがあった。
だがその顔を、安川自身は誇らしげにひなへ見せつけている。
「あなた、その唇もったいないわね」
いきなりひなの顎を掴み、まぶたや鼻筋を品定めするように眺め回した。
「素材はいい。でも欠点がないわけじゃない。ちゃんとした先生紹介してあげる」
ひなは困ったように笑いながら、曖昧に頷く。断らない。否定もしない。このバーのルールを彼女は守っていた。
川上は、安川の画像を検索した。
経営者時代、トレードマークだったという黒縁メガネは低い鼻に対し大きくて似合っていない。角張った顔をさらに強調させるようなショートヘア。化粧気もなく、今とは別人に見える。
戦いから降りた反動なのだろうか。目の前の安川は、女性らしさを追い求めるあまり、人間らしさを失っていた。
店内の中心は、竜太郎から安川へ移った。彼女は早いピッチで飲み進める。
「あんなに働いて、あんなに税金を払ったのに!」
突然、安川がテーブルを拳で叩いた。グラスが跳ね、酒がこぼれる。
「クソみたいなメディアどもが、わたしを国家の敵みたいに扱った!」
整形で引き上げられた頬が怒りで痙攣していた。
「国は、わたしがどれだけ税金を納めたか言うべきだった! どれだけ社会に貢献したか言うべきだった!」
「そうだっ! そうだっ!」
全裸の竜太郎が嬉しそうに合いの手を入れる。
そのせいで安川の興奮はさらに増した。
「わたしは国家に裏切られた! 病気にさせられたのよ!」
怒鳴りながら、安川は胸元を撫でた。
そしてふいに、笑う。
「もう誰にも奪わせない」
ゆっくりと服をたくし上げた。
川上は息を呑む。
「よく見なさい!」
やや垂れ下がった乳房の外側に沿って、小粒のダイヤモンドが並んでいた。ピアスのように皮膚へ埋め込まれている。
「現金は奪われる。でも身体の中なら奪われない」
恍惚とした目だった。
「だから今、お金を私自身へ変えてるの」
普通じゃない。
そう思うのに、川上はなぜか目を逸らさなかった。それは狂気というより、奇妙な芸術作品のようにも見えた。
「明日はね、乳首をダイヤに変える」
安川はうっとりした声で言った。
「最終的には全身を、宝石に変えるんだから」
加能も、ひなも、竜太郎も、誰一人として否定しなかった。むしろ拍手を送っていた。
ここでは“異常”が矯正されない。
川上はその空気に戸惑いながらも、どこか安心している自分に気づいていた。
安川が再びひなへ整形を勧め始めた頃、また扉が開いた。
今度の客を見て、川上は小さく目を見張る。
国会中継で見慣れた顔だった。
野党第一党の橋爪議員。真っ白なスーツに身を包み、鋭い視線で政権を追及する姿はテレビで何度も見たことがある。
清廉潔白。弱者の代弁者。
マスコミはいつもそう持ち上げていた。
だが、実際の彼女は違った。
橋爪は、安川の紹介でこのバーに通うようになった。政治の世界は足の引っ張り合いだ。注目される女性議員のプレッシャーは計り知れない。隣に座る彼女は、いかに生き残ることが難しいか、自分がどれだけ貴重なのかを、その場にいる全員に訴えた。国のため、国民のためというより、自分のためなのが彼女の言葉の端々からよくわかった。
それでも川上は、彼女と目が合うと、儀礼的に「がんばってください」と言った。
「ありがとう」
橋爪は目を細め、唇をすぼめる仕草をした。「坊っちゃん、かわいいなー」
背中から尻にかけて小虫が這いずり回るような気持ち悪さが走った。川上は苦笑いを浮かべて、急いで席を立つ。
トイレから戻ると、橋爪は頬を赤らめながらスマホ画面を見つめていた。
「やめられないの。国会で彼を攻撃することが」
甘えるような声だった。
川上がちらりと画面を覗く。
そこに映っていたのは、現職の総理大臣だった。隠し撮りらしい写真が大量に保存されている。
「この顔、最高」
橋爪は陶酔した顔でスマホを撫でた。
「わたしの答弁に怒ってるときの顔。こんな顔、奥さんにも見せないでしょ?」
総理批判の急先鋒ともてはやされているが、個人的な欲望だったのかと、川上はぞっとした。
「この瞬間、完全にわたしだけを見てる。二人の世界」
次に、国会答弁の動画を再生した。総理が怒鳴る。
「ここ! 総理の唾が飛んで目に入ったの!」
一時停止させ、興奮した声を上げる。
「ゾクゾクしちゃった……」
尻を椅子に押し付けながらクネクネと身悶える。
川上は胃が重くなるのを感じた。
普通じゃない。
なのに、帰りたいとは思わなかった。むしろ、この場所を出て、また“正常”な世界へ戻ることのほうが、今は少し怖かった。
このバーでは、誰も否定しないし、笑わない。それどころか、苦しみとして理解しようとする。落武者が見える自分も、受け入れてもらえるのではないか。そんな期待が、胸の奥で静かに膨らみ始めていた。
トイレから戻ってきたひなは、自分の席へは戻らなかった。
「少し話そう」
そう言って、カウンターではなく奥のテーブル席を示す。
川上はグラスを持って立ち上がり、彼女のあとに続いた。
向かい合って座る。バーの喧騒が少し遠くなった。
ひながようやく肩の力を抜いたような自然な笑みを浮かべる。
「楽しそうでよかった」
「いや……衝撃」
川上はまだ半分信じられないような気持ちで店内を見回した。
「こんな世界があるんだな」
「わたしも最初は驚いた」
ひなは噛み締めるように頷く。
「世界中探してもたぶんここだけ。ここだけが許される」
「普通じゃないことを、普通みたいに扱う」
川上はカウンターに視線を向けた。
全裸の竜太郎が笑いながら酒を飲んでいる。安川も半裸になって、加能にダイヤの埋め込み位置について熱弁していた。その横で橋爪が総理の画像をうっとり見つめている。
「加能さんはすごいバーをつくったね」
「たとえ問題を抱えてても、人から批判されない場所があるだけで、人ってこんなふうに笑えるんだよ」
ひなはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「でも現実では無理。秘密にしなきゃ生きていけない」
「現実では、弱点になるから……」
「そう。だからみんな仮面をつける。何重にも」
彼女は苦く笑った。その笑みは、自分自身を嘲っているようにも見えた。
「気づいたときには、本当の自分がどれだったかわからなくなる」
川上は彼女を見つめた。
「前澤さんは……」
少し迷ってから訊く。
「どんな問題を抱えてるの?」
ひなはすぐには答えなかった。川上をじっと見つめる。まるで品定めするような視線だった。
やがて彼女は視線を落とし、小さく息を吸った。
「わたし、人肌を感じないの」
彼女の声に悲壮感はなかった。しかし深い孤独が滲んでいた。
「人肌を?」
「うん。食べても味覚がないとつらいでしょ。それと一緒」
ひなは自分の腕を撫でた。
「触られても、何も感じない」
「……」
「わたしが誰かに触っても同じ」
彼女は指先で何度も自分の肌をなぞる。そこに本当に身体が存在しているのか確認するように。
「自分がマネキンになったみたいで気持ち悪い」
川上は何も言えないまま、自分の手に触れた。人肌を感じないとはどういう感覚なのか。想像しようとして、できなかった。
「ねえ」ひなが顔を上げる。「あなたの問題は何?」
川上の喉がわずかに鳴った。
「話したら少し楽になるんじゃない?」
自然と唇を結ぶ。「落武者が見える」などと言って、頭のおかしい人間だと思われないだろうか。そんな恐怖がまだ消えない。
「……ルール四って、今日すぐじゃないとダメなのかな」
ようやく出た言葉は、それだった。
「秘密は必ずマスターに話す。それがルール」
「うん……。でも、今日は急だったし。まだ心の準備が……」
「そうね。……ただ、加能さんはルールに厳しい」
川上は頷いた。
結局、自分の秘密は口にできず、ひなもそれ以上は追及しなかった。
「明日も朝から撮影」
「そろそろ帰ろう。セリフを覚えないと」
ひなは批判的な目をじろりと向ける。
「そんな調子で仕事してると、マスターに怒られるよ」
川上が加能へ視線を移す。彼はグラスを磨きながら、客たちの会話を静かに聞いていた。
「加能さんって、なんで役者辞めたんだろ?」
何気なく訊く。
ひなは一瞬だけ黙った。
「さあ」とだけ答える。
その声色には、知っているけれど話さない響きがあった。
「帰ろ」彼女は上着を羽織った。
川上は席を立ち、勘定を頼みにカウンターへ向かう。
「お会計お願いします」
加能は伝票を取り出し、川上ではなくひなへ渡した。
「いや、俺が」川上が手を伸ばす。
「これもルールなの。紹介した側が払う」
ひながクレジットカードで支払った。
竜太郎が笑いながら補足する。
「一緒に来なくても、紹介者にツケが飛ぶ」
「連帯保証人みたいじゃないですか」
川上が苦笑すると、
「そう」竜太郎が大きく頷く。「紹介するってのはそのくらいだってこと」
「でも安川さんに毎回奢られてるの週刊誌に知られたら、わたし政治家クビになっちゃう」
橋爪が酔った声で身体をくねらせた。
「大丈夫よ」安川が肩を抱く。「ルールその三があるから」
――このバーで聞いた話を口外してはいけない。
その言葉と同時に、加能の視線が川上へ向いた。穏やかな目だったが、その奥には冷たい光が沈んでいる。
破れば許さない。
そう告げているような目だった。
川上は反射的に背筋を伸ばし、彼に何度も頷いた。
