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落武者恐怖症 | 第10話

 午前中の撮影はスタジオではなく屋外ロケだった。
 規制線の外には、スマホを構えた野次馬が何人も集まっている。最初は期待に満ちていた彼らの顔も、本番を重ねるごとに徐々に曇っていく。
 もちろん、そこでも相手役は落武者に見えていた。
 悲鳴だけはなんとか飲み込める。だが、顔のこわばりまでは制御できなかった。落武者を目の前にして、恐怖を隠しながら芝居を続けるのは容易ではない。セリフと表情が合っていないとダメ出しを受け、表情に気を取られるとセリフを飛ばして、川上はNGを連発した。
 悪夢の中にいるみたいで、視界がぐにゃりと歪む。全身から冷や汗が噴き出していた。これまで積み上げてきた自信もプライドも、音を立てて崩れていく。
 撮影許可の終了時刻が迫る。
 ディレクターは苦渋の表情で、
「……オッケーです」
 と、半ば諦めるように口にした。
 川上は重田を連れて、逃げるように社用車のバンへ駆け込んだ。
「なんとかならなかったのか、あの野次馬」
 頭を抱えながら、苛立ちを重田へぶつける。
「プロデューサーにお願いしたんですけど……すぐ終わる撮影だと思って、警備員を入れなかったみたいで」
「まったく、ろくでもないスタッフだ」
 吐き捨てた直後、自己嫌悪が押し寄せる。
 そもそも、自分が普通に芝居できれば済む話なのだ。
 午後の撮影はスタジオで、いつもの社長室のセットで行われる。共演者は前澤ひなだけ。移動する車内で、川上は深呼吸を繰り返した。
 先にスタジオ入りして、ひなを待つ。
 川上は慌ただしく作業するスタッフたちを見回した。彼らのチクチク刺さるような視線がない。それはいい意味ではなく、以前のような期待がないからだ。川上に対する信頼は、完全に地に落ちていた。本来なら悔しがるべきなのだろう。けれど今は、そのほうが楽だった。
 もう開き直るしかない。
 それに、相手がひなだけなら、なんとかうまくやれる気もした。
「川上さん、顔色ちょっと戻りましたね」
 重田が濃い眉をハの字にして、下から覗き込む。「先生の薬、飲んだんですか?」
 いや、と首を振る。「気休めにもならないから、やめた」
「そうですか……。別の病院、探してみます」
 本番になると落武者が見えるという普通じゃない人間を、重田は一度も笑わなかった。いつも本気で心配し、理解しようとしてくれる。川上は改めて、このマネージャーに感謝した。
 そこへ、ひなが現れた。相変わらず愛想のない顔だった。撮影から数日も経てば、通常スタッフの対応も落ち着くのだが、彼女の周囲だけ空気が今も張り詰めている。
「おはよう」川上は少し明るめに声をかけた。
 ひながじろりと睨む。馴れ馴れしくするな、とその目が一瞬でそう告げていた。
 そうか、と川上は思う。
 昨夜のバーのことやその前の出来事も全部、秘密なのだ。ここで二人が急に親しくなれば、不自然すぎる。余計な勘繰りを生む。だから、ひなはいつも通り冷たく接した。
 川上もそれに合わせ、距離を取った。
 ディレクターが二人の間に入って芝居の確認を始める。照明やカメラチェックのあと、いよいよ本番となった。
 シーンは、互いに別れを意識し始めた恋人同士の対峙。
 ひなの目は鋭く、真剣だった。
 川上は昨夜バーでひなと少し打ち解けたという思いがあり、撮影前は余裕さえ感じていたが、一気に吹き飛んだ。胸の奥から、不快な焦燥感がせり上がる。
「本番、よーい」
 静まり返ったスタジオに声が響く。
 川上は目を閉じた。
 落ち着け。とにかく、覚えたセリフを口にしよう。失敗が小さく見えれば上出来だ。自分にそう言い聞かせる。
 けれど同時に、どうせまた落武者を見るんだろ、という諦めも浮かんだ。午前中の失敗が脳裏をよぎる。
 カチンコが鳴った。
 川上は、ゆっくり目を開ける。
 目の前のひなが――、
 落武者に――、
 ならない。
 彼女が硬い表情のままセリフを吐いている。
 これ、本番?
 相手は前澤ひなだ。落武者じゃない――。
 落武者じゃない!
 川上は衝撃のあまり、かっと目を見開いた。
 次の瞬間、覚えたセリフが驚くほど滑らかに口から出た。
 自己肯定感の低い恋人を叱りつける。初めて彼女の弱さに触れるシーン。いつも完璧に見えた女が、今は壊れそうな顔をしていた。
「嫌いにならないで……」
 その声が、痛いほど胸に刺さる。哀れでもあり、儚くもあって、愛しかった。
 川上は恋人役として、ひなの身体を強く抱きしめた。
 実際の彼女には、人肌の感覚がないのだろう。それでも、川上は、壊れ物を包むようにして強く抱きしめた。
 静寂が落ちる。
「……はい。オッケー!」
 ディレクターの大声がスタジオに響いた。戸惑いと興奮が入り混じった声だった。
 遅れて拍手が起こる。やがてそれは、大きな拍手へ変わった。
 まさかの一発オーケー。
 川上はようやく腕の力を緩め、ひなから離れた。
 ディレクターが駆け寄ってくる。
「いや、驚きました! すごく良いのが撮れました!」
 川上は放心したまま、小さく頷いた。
 ひなはすでにいつもの無表情へ戻っていた。メイクさんに涙を拭かれている。
「次のシーンも、この流れでいきましょう!」
 ディレクターは鼻息荒くスタッフへ指示を飛ばした。
 重田が顔を紅潮させて近づく。
「すごかったです!」
 川上はゆっくり彼を見た。
「見えなかった……」
「はい?」
「落武者……」
 重田の目が大きく見開かれる。
「そ、それって……」
「治ったのか……?」
 自分でもまだ信じられなかった。
「本番で、目の前にいたのは前澤さんだった」
 現実を確かめるように、自分の顔や腕に触れる。ひなを抱きしめた感触が、まだ手の中に残っていた。
 重田もようやく理解が追いつき、泣き笑いの表情を浮かべた。
 次のシーンの準備が整った。
「本番!」
 川上はひなを見る。
 やはり落武者にならない。
「オーケー!」
 その後も撮影は驚くほど順調に進んだ。川上は一度もNGを出さなかった。
 午後六時を回ったところで、その日の撮影が終わる。
 スタッフたちはどこか呆然としていた。もちろん、それはいい意味で。
 視線が川上へ集まる。午前中まで腫れ物扱いしていた目が、今は「あの不調はいったい何だったのか」、「やればできるじゃないか」、「最初からちゃんとやれ」と親近感がこもった目へ変わっていた。その視線が妙に心地良い。
「どうすんだよ。時間空いちゃったじゃないか」
 プロデューサーがスケジュール担当を叱責した。おそらく、川上の不調を見越して長めに押さえていたのだろう。
 その様子を眺めているうち、川上は思わず口元を緩めた。
 チーフマネージャーの堂島が涼しい顔で、彼らの横を通り過ぎてこちらへ向かってくる。
「重田から聞いて飛んできちゃった」と近づき、上機嫌で川上の肩を叩く。「なに? 先生の薬が効いた? それともおまじない?」
「今日は飲んでない」
「えっ」堂島が目を丸くする。「じゃあ、なんで急に治ったの?」
「さあ」欧米人のように肩をすくめた。
「わかった。あんた、ちょっと疲れてたのよ。でも、もう平気なんだね」
 川上は唇に笑みを作る。
「今日はこれでもう終わりでしょ? 車、乗ってく?」
「珍しいね。堂島さんが運転なんて」
「今朝、大角さんたちとゴルフだったの。でも大角さん、肩を痛めたみたいで全然回れなくて。途中でお開き」
 顔をしかめながらそう言った。
 川上の胸に鈍い痛みが走る。ひなを助けるために壁へ突き飛ばした大角を思い出した。
 堂島は彼と懇意にしている。注意深く彼女の様子を観察したが、特別変わった様子はない。所属俳優に暴力を振るわれた――そんな苦情は、まだ届いていないらしい。
 胸の圧迫感が、少しだけ和らいだ。
「着替えたら声かけて。ちょっと挨拶回りしてくる」
 堂島は軽い足取りで去っていった。
 川上は楽屋へ戻った。着替えを済ませ、椅子に腰を下ろした瞬間、疲労がどっと押し寄せる。軽い眠気もあった。
 部屋の椅子を並べて横になる。だが眠れるほどではない。ふわふわした浮遊感と、妙な高揚感が交互に押し寄せ、川上はぼんやり天井を見つめ続けた。
 本当に治ったのか。もし治ったのだとしたら、原因は昨夜のバーしか思い当たらない。あそこへ行ってから、何かが変わった。
 いや、でも――。
 川上は頭を少し持ち上げた。
 午前中は落武者が見えていた。だったらバーは関係ない。たまたま、ひなが落武者にならなかっただけなのか。
 それとも――。
 川上はゆっくり起き上がった。顎に手を当て、目を細める。
 落武者が見えなかったのは、相手が前澤ひなだったからでは?
 もしそうなら、ひな以外との芝居では、また元に戻る。
 手のひらにじわりと汗が滲んだ。さっきまで消えていた不安が、また全身へまとわりつく。
 川上は落ち着きなく室内を歩き回った。
 治ったのか。治ってないのか。
 考えるほどわからなくなる。次第に足取りが重くなった。
 ドアの前で止まり、耳を澄ます。廊下の向こうから、人々の慌ただしい足音と話し声が聞こえた。
 川上は楽屋の扉を少し開ける。見慣れたスタッフたちが忙しそうに行き交っていた。皆、同じ方向へ向かっている。川上も吸い寄せられるように歩き出した。
 セットの社長室で撮影が行われていた。社長と新入社員が初めて対面するシーン。
 スケジュールでは夜九時過ぎの予定だったはずだ。
 川上は通りかかったADを捕まえた。
「スケジュール変更?」
「はい。米村さんの入りが調整できたんで、撮っちゃおうって」
 ADは早口で答え、小走りで去っていく。
 川上は遠くから、ひなと話す男を見つめた。
 米村健人。
 背丈が高く、線は細いが服の上からでも鍛えられた体だとわかる。柔和な目つきで、人懐っこい笑顔。ひなの話に自然な相槌を打ち、彼は穏やかに笑っている。
 撮影現場では、誰もひなへ気軽に話しかけられない。なのに米村だけは違った。その距離感の近さに、川上は小さな嫉妬を覚えた。
 米村は大きな身振りで話し、ひなを笑顔にさせる。それに気づいたプロデューサーとディレクターが寄っていく。すると今度はメイクさん、AD、照明スタッフまで集まり、自然と輪が広がっていった。
 米村健人は、若手で最も勢いがあるといわれる俳優だ。下積みを経験した、劇団出身の苦労人。戦隊ヒーローのオーディションを勝ち抜いて、ほんの一年半前にブレイクした。達者な演技力で主役を務めたかと思えば、バイプレーヤーとしても存在感を残す。今回のドラマでは、川上の恋敵役だった。
 川上はモニターの後方から、その芝居を見つめた。
 二人の秘密の関係を、米村演じる新入社員が嗅ぎつける。社長は誤魔化すが、新入社員の男は、悪意と好奇心が混ざった笑顔でしつこく食い下がる。ひなは芝居として、米村に押され気味になる演技が求められた。
 正直うまいと思った。ひなが責められて困る姿が、妙に愛らしく見える。ひなの演技力だけではない。そう見えるよう、芝居を支配しているのは米村のほうだった。
「あなたをクビにする!」
 社長の苦し紛れのセリフ。
「どんな理由で、ですか?」
 余裕の笑み。
 挑発的な視線。
 見つめ合う二人――。
「カット!」
 ひなは降参したというふうに天を仰いだ。
「もう!」
 と笑いながら米村の胸を叩いた。
 米村も笑う。
「すいません。ちょっとやり過ぎましたー?」
「最高!」
 ディレクターは両方の親指を立てて絶賛した。
 川上は唇を強く噛んだ。脇を冷たい汗が流れた。
 若手の芝居に圧倒されていた。敗北感という言葉が頭に浮かんだ。
 今すぐここから逃げたい。そんな衝動に駆られ、川上は一歩後ろへ下がった。
 だが米村の視線が先に川上を捉えた。そしてそのまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。川上は硬直した。
「川上さん。ご挨拶が遅れました。米村です」
 目の前で、深々と頭を下げる。
「ああ、どうも……」
 自分でも情けなくなるほど小さな声だった。
 顔合わせの日、米村は別仕事で不在だった。こうして真正面から見ると、存在感が異常だった。あまりにも眩しくてでかい。主役は自分ではなく、こいつなんじゃないか。そんな錯覚さえ覚える。
 米村は嫌味のない笑顔を浮かべ、再び頭を下げた。
「明日の撮影、よろしくお願いします。勉強させてください」
「おう……よろしく」
 川上は無理やり先輩ぶって片手を上げた。それが精一杯だった。
 米村が去る。その背中が、とてつもなく大きく見えた。
 川上はその場にしゃがみ込みたくなる。
 明日、あいつと芝居をする。
 ――無理だ。もしあいつが落武者に見えたら、完全に終わる。
 足が震えた。
「川上、帰るよ」
 背後から堂島に声をかけられ、川上はびくりと肩を跳ねさせた。ゆっくり首を回すと、堂島の横で、重田が怪訝そうな顔をしていた。
「……いや、やっぱりいいや。俺、タクシーで帰る」
「は? なんで? 通り道じゃない」
「ちょっと寄るところがあって……」
 堂島は意味がわからないという顔で重田を見る。重田も不安げだった。
「川上さん、大丈夫ですか? 何か――」
 川上は頭を振って遮り、強引に笑顔を作る。「大丈夫。ほんと大丈夫だから」
 そして二人の横をすり抜けた。
 絡まりそうになる足を無理やり前へ出す。スタジオの外へ飛び出し、待機していたタクシーへ乗り込んだ。
「どちらまで?」
「……荒木町まで」
 走ったわけでもないのに、息が切れていた。




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