落武者恐怖症 | 第11話
「加能さん。開けてください!」
川上は何度も真っ黒な扉を手のひらで叩き、声を張り上げた。
扉横のセンサー端末に、人差し指をかざす。反応しない。それが無情に繰り返された。
昨日、指紋は登録したはずだった。端末には赤い警告ランプが灯るだけで、入店を許す気配はない。扉に耳を押し当て、中の様子を窺ったが、音ひとつ聞こえなかった。
諦めきれず、別の入り口を探した。石畳の裏路地を抜け、柳新道通りに出る。こちらにも小さなバーやスナックが軒を連ねていた。建物の周囲をぐるりと回ったが、入り口はあの黒い扉だけだった。
もう一度、願うようにセンサーに指をかざす。
赤いランプ。
「なんでだよっ」
川上は扉を蹴った。鈍い音だけが、路地に虚しく響いた。
店を離れ、外苑東通りへ出る手前で、ふと足が止まる。
金髪の女が背を向けて立っていた。タバコをくゆらせている。ミニスカートから伸びる白い脚に見覚えがあった。川上をバーへ案内した女。マリリンだ。
川上はつかつかと近づき、その細い肩を掴んで振り向かせた。
「俺を覚えてるか?」
マリリンは川上を真正面から見据え、パンダのような目元の奥の黒目をゆっくり上下させた。
「バーに入りたい。会員になって、指紋も登録した。なのに鍵が開かない」
必死に訴えるが、彼女は不機嫌を顔に塗り固めたような表情でこちらを見るだけだった。指に挟んだタバコを口元へ運び、深く吸う。
「君も会員だろ? 一緒に来てくれ」
だが、すぐに弾くように払われる。
振り返った川上の顔に、マリリンは白い煙を一気に吹きつけた。
まともに吸い込んで、川上はむせ返った。「なにすんだ……」
苦しげに顔を上げると、そこに彼女はもういなかった。
慌てて左右を見回す。マリリンは外苑東通りの信号を渡ろうとしていた。
「おい、待て!」
川上は追いかけ、その腕を掴んだ。
「頼む。バーに――」
「無理」
「どうして」
「お腹すいたから」
「バーでおごってやる。一緒に来い」
また腕を強く引く。今度こそ従うと思った。
マリリンの腕は、するりと抜けた。川上は体勢を崩してよろめく。
それを見て、マリリンが大きな口を開けて笑った。
「あんた、相当病んでるね」
その言葉に、川上の顔がかっと熱くなった。目の周りを真っ黒に塗りたくった病的な女に言われたことが癪に障った。
「バーの開店は二十二時。それまで誰も入れない」
川上は腕時計を見る。
熱くなった顔が、急速に冷えていく。
「まだ開店前」
マリリンは小馬鹿にしたように言った。
開店まで、二時間近くあった。取り乱した恥ずかしさを隠すように、川上は目を逸らす。
「……何が食べたいんだ」声は小さくなっていた。
近くの焼肉屋に入った。
やたら掛け声の大きい店員たちに迎えられ、一番奥の席へ通される。店内は狭く、隣席との間にはすだれが掛かっているだけで、会話の内容などほとんど筒抜けだった。ここで話すには、注意が必要だ。
川上は腹が減っていなかった。ここ最近、まともに食欲がわかない。
高い肉ばかり注文して一人で焼いていくマリリンを眺めながら、川上はビールを胃へ流し続けた。店員におかわりを頼むと、マリリンも黒烏龍茶を頼んだ。意外なことに、酒は飲まないらしい。
「どうして荒木町なんだ?」
マリリンが肉を返しながら、軽く首をひねる。生焼けの肉に割り箸の先を押しつけ、ジュー、と音を立てる。
「歌舞伎町だって近いだろ。こんなところに立ってても、誰も買わないんじゃないのか」
「あたし、立ちんぼじゃないし」
「じゃあ仕事は何?」
肉をひっくり返す。
答えない。
店員が来て、ビールと黒烏龍茶を置いていった。
「あのバーに案内するだけで生活できるわけじゃないだろ」
「余計なお世話」
マリリンは川上に目もくれず、最後の肉を頬張った。
「何か急ぎ?」口を動かしながら訊く。「バーに何の用?」
川上は言葉に詰まった。
米村健人の芝居を見て怖気づいた。明日の撮影を想像して、足が震えた。助けてほしくて、バーに駆け込もうとした。そんなことを、目の前の女に言えるはずがなかった。
マリリンは、歯に挟まった肉の繊維を長いつけ爪の先で取った。その指をおしぼりで拭い、川上の顔の前に手を伸ばす。
「スマホ貸して」
「……なんで?」
「いいから」
川上は警戒しながらスマホを取り出した。
「ロック外して」
言われるままにロックを外して渡す。
マリリンは素早く操作し、どこかへ電話をかけた。
「おい」
取り返そうとすると、彼女は自分の震えるスマホを掲げた。
「それ、あたしの番号。緊急のときは連絡して」
川上は手を止めた。
「あと、あのバーに誰かを紹介するときは、まずあたしを通して」
「お前……何者なんだ?」
マリリンはスマホを返しながら、唇に薄い笑みを浮かべた。
「別に」
それから黒烏龍茶で軽く口の中をゆすぎ、言った。
「普通だよ」
川上はマリリンと別れ、二十二時ちょうどにバーへ入った。
入り口の指紋認証は、今度は問題なく作動した。黒い扉が開き、奥へ進むと、マスターの加能正平が温和な空気で迎え入れてくれた。
席に着くと、ジントニックが差し出される。
開店を待ち焦がれていたはずなのに、いざ加能と向かい合うと、なかなか話を切り出せなかった。バーテンダーと客のあいだに、奇妙な沈黙が落ちる。
「秘密にしていると、話しづらいでしょう」
加能が、背中を軽く押すような口調で言った。
バーのルールその四、誰にも話せない秘密を最低でもマスターに伝える。
客は、川上一人だった。
加能は、どうぞ、と言うように目だけで頷く。
川上はうつむき、ジントニックを半分ほど一気に飲んだ。喉の奥が熱くなる。大きく息を吐いてから、ようやく口を開いた。
「実は、問題を抱えていまして」
加能はグラスを拭く手を止めて、聞く態勢になった。
その沈黙に背を押され、川上は続けた。
「綾瀬竜太郎さんと少し近いんですけど、ぼくも本番になると変な症状が出るんです。病院では、恐怖症とか、強迫性障害の一種だと言われました」
一度言葉を切り、ジントニックで口を湿らせる。
「ぼく自身も自覚していない不安や恐怖のせいらしいんですが、それが何なのか、まだわからなくて」
加能は無駄な相槌を挟まない。だが視線は外さず、続きを待っている。
「でも不思議なことに、今日の撮影で、その症状が出なかったんです。それがどうしてなのか、わからなくて」
「症状というのは?」
真正面から訊かれ、川上は押し黙った。
バー内の会話が漏れることはない。話せばいい。話してしまおう。そう思うのに、喉の手前で言葉が止まる。
川上はグラスを掴み、残りのジントニックを飲み干した。氷が硬い音を立てる。
ちらりと加能を見る。彼は穏やかな顔をしていた。こちらの心ごと包み込むような、あたたかい微笑だった。
「本番になると……なぜか」
「はい」
「……落武者が見えるんです」
言った。話してしまった。
何かしらの反応があると思った。
加能は何も言わない。店内に流れるBGMだけが、単調に響いている。
「変、ですよね……」
川上は自虐的に笑った。
それでも加能は、真顔のまま口を結んでいる。
意味が伝わらなかったのかもしれないと思い、川上は少し早口になった。
「本番になると、相手役がみんな落武者に見えるんです。そのせいで連日NGを出して、スタッフには呆れられて、信頼も失いました。こっちのプライドもズタズタで……この先、役者を続けられるのかなって」
「それは不安でしょうね」加能が深刻な声で同情した。「大変でしたね」
その一言で、川上の胸が少しだけ緩んだ。
「でも今日は見えなかったんです。正確に言うと、前澤さんと芝居をしているときだけは」
「それは良いことです」
「ええ。ただ、理由がわからなくて。彼女以外の相手役は落武者に見えていたし……」
加能は考えるように頷いている。
「こういうことって、あるんですか?」
川上は答えを待った。
だが、加能は口を開かない。
「困るんです」焦りが声に滲んだ。「明日、米村健人との撮影があって……。知ってますか、米村健人」
加能が申し訳なさそうに首を傾げる。「存じ上げません」
「米村は若手で、今一番勢いのある役者です。今日見たんです。彼の芝居を。前澤さんもすばらしい役者ですけど、完全に米村が場を持っていってた。もし明日の本番で、あいつが落武者に見えたら、俺……何もできないんじゃないかって」
話しながら、恐怖が具体的な形を取り始める。
米村の笑顔。米村の余裕。米村の広い背中。そのすべてが醜く変貌を遂げ、川上の中で膨れ上がっていく。
「怖くて、たまらないんです……」
情けないくらいに声が震えた。
「落武者に見えない可能性もあるのでは?」
加能はこちらの不安を和らげようと微笑む。
「……そうだといいですけど」
「誰にも、明日のことはわかりません」
短くそう言うと、グラスを拭く手を再開した。
川上はひどくがっかりした。救いを求めてここへ来たのに、返ってきたのは当たり前の言葉だけだった。
露骨にため息を漏らす。そのまま帰ってもよかったが、腰は上がらなかった。
やがて、背後の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
加能の低音で響く声に、相手は「こんばんは」と囁くような声が返る。
川上は振り返らなかった。背中を丸め、床に視線を落としていた。
「今日はお疲れさま」
背後で、前澤ひなが言った。「マスター、ビールください」
ひなは充実した一日を終えたような顔で、川上の隣に腰を下ろした。
「米村くん、すごいわ。完全に持っていかれた。でも、やりにくくはないのよね」
加能がビールを差し出す。
ひなはグラスを手に取り、喉を鳴らして飲んだ。口元についた泡を指で拭うと、弾んだ声で続ける。
「あれは若さなのかな。それとも確固たる自信?」
川上は顔を背けた。
大人げないとは思う。後輩に嫉妬するのも情けない。けれど、とても会話に応じる気にはなれなかった。
ひなはその態度を見て、何かを察したらしい。米村の話をやめた。
「あなたも今日はずいぶんうまくいったわね」
「まあ」
「NGなしで驚いた。みんな、見直してたよ」
「あ、そう」
無愛想な返事に、ひなは怪訝な視線を川上から加能へ移した。
「マスターも、後輩の芝居に嫉妬したりしました?」
川上はキッと横目で、ひなを睨んだ。
加能は、笑顔で頷いた。
「もちろん」
思わず顔を上げた。
意外だったからだ。加能正平は凡才ではない。誰もが認める唯一無二の役者だ。嫉妬などという感情とは無縁の人間だと思っていた。
「役者は嫉妬しなきゃダメ」
加能は穏やかに続ける。
「嫉妬しないのは、ただうぬぼれているだけだよ」
勇気の出る言葉に胸が震えた。
「ですって」
ひなが軽く川上の肩を叩く。
「後輩に嫉妬するのは正常みたいだから、気にしないで」
川上は腹が立ち、その手を払った。
「あっ。感じ悪」
「そっちが」
ひなは呆れたように頭を振り、席を離れようとした。
「本番で、いつもと違っただろ。俺……」
その背中に向けて言った。
ひなは振り返る。「だから、NGなしで驚いたって言ってるじゃない」
「そうじゃなくて。どうしてそうなったか、気にならないか」
「あなたは本番になると何らかの問題が起きる。それが起きなかった。そう思ったけど」
川上はひなの瞳を覗き込んだ。
「わかってたのか」
「それ以外にないでしょ」
「……」
「午前中は散々だったってスタッフから聞いてたし。突然うまくいったなら、あなたの中で問題が起きなかったんだと思うしかないじゃない」
「でも、どうして問題が起きなかったのか、自分でもわからない。君との本番のときだけ、うまくいった」
「それって、落ち込む話?」
「え?」
「羨ましい」
「……羨ましい?」眉間に皺を寄せる。
「だってわたし、人肌を感じなくなってから、一度もその問題が解消されたことがない。ここで問題を打ち明けて少しは楽になった。でも治らない。ここに来る人、みんな治ってない」
ひなは、ふっと力なく笑った。「それなのに、あなただけ問題が消えた。正直、羨ましい話」
「今日だけかもしれない。理由もまったくわからないし」
「理由か……」
ひなは視線を遠くへ投げた。
「わたしは、どうすれば治るかわかる。というか、それしかないと確信してる」
「教えてよ」川上は思わず身を乗り出した。
しかし、ひなは首を横に振る。
「あなたとわたしとでは、問題の根っこが違う」
「それが俺にはわからない。俺は何を恐れているのか。何が不安なのか……まったく」
「それが自覚できれば、きっと落武者は消える」
川上は頷きかけた。
そのまま、動きが止まる。
ゆっくり顔を隣へ向けた。
ひなは、しまった、という顔をしていた。
「なんで知ってんだ……」
