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落武者恐怖症 | 第8話

 黒の本革で覆われた高級バーチェアに、人気俳優の綾瀬竜太郎が全裸で座っている。せめてものエチケットなのか、シートの上には丁寧に畳まれたハンカチが敷かれていた。
 あまりにもシュールな光景だった。笑いが起きてもおかしくない。だが、川上以外は誰ひとりとして動じていない。まるで彼が服を着ているかのように、ごく自然に接している。
 川上は自分のほうがおかしいのではないかという気がしてきた。思わず瞼をこすり、二つ離れた席を盗み見る。
 やはり、全裸だった。
 どこで脱いだのか。店内には衣服らしきものが見当たらない。となると、入り口の通路か。川上はそんなことを考えながら、饒舌に語っている竜太郎の様子を観察した。
 酔っているようには見えない。薬物の有無まではわからないが、加能とのやり取りはいたってまともだ。どこにでもいそうな気さくな兄ちゃん、といった印象ですらある。
 とはいえ、全裸だ。
 その事実だけが、現実との接続を拒んでいた。
 竜太郎がふと視線を向け、川上の存在に気づいた。
「あれ? 川上ちゃんじゃない!」
 屈託のない笑顔だった。
 川上と竜太郎は同い年だ。デビューもほぼ同期。だがその事実を、竜太郎が認識しているとは思えない。川上ちゃん、という呼び方には、無邪気な上下関係が含まれていた。
 川上は条件反射のように背筋を伸ばし、敬語で返した。
「ご無沙汰してます……」二度、三度と軽く頭を下げる。「三年ぶりくらいですかね?」
 竜太郎の首から下を視界に入れずに話す。
「なんだっけ、あのドラマ?」
 彼は腕を組んで斜め上を見た。
「『真夜中の婚活』です」川上が答える。
「ああ、マヨコンだ。川上ちゃん、何役だっけ?」
「主人公が婚活で、初めて恋に落ちた女性の兄役です」
「そうだ。思い出した。それで俺、殴られるんだよね?」
「はい。それが一話の山場で」
「たいしてあのドラマ面白くなかったよね?」
「数字は良かったらしいですが」
「まあ、俺が出てるし」
 竜太郎は胸を張って笑った。
 加能とひながつられて笑う。川上も、わずかに遅れて表情を緩めた。
 竜太郎は満足そうにビールを飲み干し、グラスを置くと、思い出したように言った。
「あっ、気にしないで。全裸」
 妙に真面目な顔だった。
 川上はバーのルールその二を思い出し、曖昧に笑う。
「俺のこと裸族だと思って」
「……なるほど」
 思わず口にしてから、相手を否定してはいけないというルールには、この「なるほど」という返答が最適だと気づく。
「今さ、しんどいドラマ撮ってて。もう脱ぎたくて脱ぎたくてしょうがないの」
「なるほど……」
「特に本番」
 その言葉に、川上は反応した。
「共演者の前で全部脱いで、うおーって叫びたい衝動が」
「なるほど……、なるほど……」
 彼に共感しているのか誤魔化しているのか、自分でもわからないまま相槌を打つ。もっとその話を聞きたかった。「本番」になると、そうなるのか。
 次の瞬間だった。
 竜太郎が両拳を握りしめ、体を震わせながら天井に向かって叫んだ。
「うおおおお!」
 川上は固まった。
「ほぅ! 最高!」
 竜太郎の肌には鳥肌が立っていた。
 そして、まるで映画『トップガン』のトム・クルーズばりに爽やかな笑顔で親指を突き上げる。
 目が合ってしまったので、川上もぎこちなくそれに応じ、すぐに視線を逸らしてグラスをあおった。
 ――普通じゃない。
 ようやく理解する。ここは、そういう場所なのだと。
 異常を否定しない場所。むしろ、それを“正常”として扱う場所。
 五箇条のルールの意味が腑に落ちた。
 同時に思う。
 ――この男もここで救われているのかもしれない。ひなと同じように。
 胸に小さな灯がともった。バーにがぜん興味が湧いた。
「川上ちゃんはマスターと共演は?」
 川上は残念そうに首を振る。「ないですね」
「ないね」
 加能が静かに同意し、竜太郎の前にグラスを差し出した。丸く削られた氷の上に、琥珀色のウィスキーが揺れる。
「お二人はたしか大河で。それも師弟役でしたよね」
「剣士の役。役でも現実でも師弟だった」
 竜太郎は酒を舐めるように飲み、視線を向ける。加能も微笑み返す。
「その頃は、本番で脱ぎたい衝動は?」
 ひなが問う。川上も興味深く、顔を向けた。
「ちょうどあの頃からだよな」
 答えたのは加能だった。
「隠していたが、すぐにわかった」
 竜太郎は片目をつぶって応じる。
「全部打ち明けて、対処法を教えてもらってさ。なんとか乗り切ったんだよ」
 川上はぐっと首を伸ばした。
 対処法。
 その言葉に、喉の渇きを覚える。知りたくてたまらない。
 しかし、まだ自分の秘密を打ち明ける勇気がなくて訊くのを躊躇してしまう。
「そういう経緯で、この店ができたんだって」
 ひなは川上に教えるように言った。
 それにただ頷く。
「あっちで“普通じゃない”奴を、ここでは普通に扱うためにね」
 マスターの優しい言葉が川上の胸を打った。
 ――普通じゃない奴を、ここでは普通に。
 竜太郎が嬉しそうに笑い、ウィスキーを飲む。長い脚を組み替える。
 所作は完璧に美しいが、全裸だ。
 川上は、その光景を見ても、もう何も感じなかった。
 マスターがドアのほうへ視線を流した。ほんのわずかな動きだったが、空気が切り替わる。
 背後でドアが開いた。気圧が抜けたように、ふっと体が軽くなる。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
 やや高音の整った声だった。
 川上は無意識に首をひねり、振り返る。
 その瞬間、息を呑んだ。
 客の外見に驚いたのではない。存在に驚愕したのだ。
「おう」竜太郎が片手を上げる。顔見知りらしい。
 男は深々と頭を下げた。体育会系の挨拶だ。そのまま軽い足取りと身のこなしでバーカウンターの席に着いた。
 川上は隣に座った男を、まじまじと見つめた。
 光っている――。
 黄金のオーラが、全身から滲み出ていた。
 昨年、四階級制覇を成し遂げたプロボクサー。
 円成寺誠太だ。
 バンタム級のサイズなので、実物はそれほど大きくはない。だが、存在感は圧倒的だった。
「円成寺選手……」
 気づけば立ち上がっていた。
「はじめまして。役者をやってます、川上です」
 差し出した手を、円成寺は強く握り返す。
「テレビで見たことありますよ」
「ほんとですか!」思わず声が弾んだ。
「川上ちゃん、ファンなの?」
「大ファンです!」
 即答で返し、円成寺に向き直る。
「大晦日の試合、最高でした。感動しました!」
「ありがとう」
 照れたように頭を掻く。その仕草が、逆に“本物”の匂いを強めていた。
「ちょっと川上さん、落ち着いて」と、ひなが注意する。
「ごめん……」
「ここでボクシングの話をするの、初めてだな」
 円成寺がぽつりと言う。
「皆さん、興味ないんですか?」
「自分のことで精一杯だろ」
 竜太郎が両手と両足を広げてみせた。リラックスした股間がだらりと左の太ももに寄りかかっている。
 加能がビールを差し出す。
 円成寺はグラスを掴み、半分ほどを一気に飲み干した。
「この前の試合、怖くなかったんですか?」
 川上は思わず踏み込んでいた。
「バンタム級に階級を上げて、初めての試合。しかも相手はフィリピンの英雄、エザリッジ」
「……そりゃ決まったときは、マジかって思った」
 静かな声だった。
「でも、練習を重ねると、恐怖は薄れていく」
 そこで、ちらりと川上を見る。
「役者も同じじゃない?」
 言葉が鋭く刺さる。川上は答えられなかった。視線だけが、加能へ逃げる。
「準備をせずに、本番に立てるものじゃない」
 加能が落ち着いた口調で言った。
 今のドラマに準備も情熱もない。それでも現場に立っている自分を恥じた。
 どの世界でも頂点を掴む者は、日々の積み重ねを誰より信じている。だから余念がない。それは間違いない。だがこの最強の男が、ほんの最近までとある精神障害と鬱を患っていたのが信じられなかった。
「その……」
 言葉を選ぶ。
「今回の強さって、病気を克服されたことも関係してるんですか?」
 空気が、止まった。
「……病気ね」
 円成寺はそう口にして、急速に目元が翳る。残りのビールを苦そうに飲み干した。
 しまった、と焦る。謝罪の言葉を口にしようと開きかけたとき、
「まだ治ってない」
 と、円成寺が暗い声で言った。「鬱は抜けたけど……」
 言葉が、そこで途切れる。
 治ってない?
 川上は絶句する。
 円成寺がトイレに立った。その背中を目で追いかけた。
 さっきまでの光が、弱まっていた。
 戻ってきたときには、明らかに様子が違っていた。眉間に皺を寄せ、何かを呟いている。
「……なんで……」
 耳を近づけ、何を話しているのか聞き取ろうとしたが判然としない。
「なんかすいません。余計なことを聞いてしまいました」
 円成寺は答えない。荒い呼吸を繰り返す。
 次の瞬間――、ドン、と鈍い音。
 黄金の拳で、彼は自分の太ももを殴っていた。
「なんで。なんでだよ。クソっ」
 低く、押し殺した怒り。人が入れ替わったようで怖かった。
 川上は凍りつく。何が起きているのか、理解できない。加能に視線を向けたが、彼はグラスを磨いている。まるで、何も起きていないかのように。
「大丈夫ですか……」
 そう言って、顔を覗き込もうとしたが、円成寺はそれをかわすように再び立ち上がり、トイレへ向かった。
 川上が心配になって追いかけようとすると、加能が止めた。
「座ってなさい。君もビールを飲むかい?」
 椅子に尻を戻した。「……はい」
 加能はビールを用意し、川上の分と円成寺の分をテーブルに置いた。
 戻ってくると、円成寺は一気にビールを胃に流し込んだ。
 そして、その場で縄跳びをするように跳び始めた。床を叩く音だけが響く。
 これはいったい。普通じゃない――。
 だがここでは誰も、それを異常とは扱わない。ひなたちは何の反応も示さないでいる。
 川上は、ただ目を瞬かせて見ていることしかできなかった。
 円成寺は息を切らし、またトイレへ向かった。
 さすがに恐怖すら覚え、ひなと竜太郎に目線を送る。彼らは気づかず、真剣な顔を突き合わせ、低い声で何かを話し込んでいた。
 慣れたと思っていた全裸の竜太郎の姿が、また異様に浮き上がって見える。
 不穏な焦りを感じていたとき、トイレのドアが勢いよく開いた。
「よかったー!」
 無邪気な声だった。もちろん円成寺だ。
 足取りは、さっきまでとは別人のように軽い。ステップを踏むように戻ってくる。
 席に着くなり、
「出たー」と、満面の笑みで言った。
 川上は思わず苦笑した。
「よかったですね……。便秘だったんですか?」
「違う。小便」
「えっ……おしっこ?」
「うん」
 あまりにもあっけらかんとしている。
「俺、外でトイレするの苦手でさ」
「あー……なるほど」
 適当に相槌を打ちながらビールを口に含む。「わかる気がします」
 すると円成寺が身体を向けて迫った。
「小便器って最悪だと思わない?」
「最悪……」
 何がどう最悪なのか不明のまま、同調する。
「だってさ、小便するじゃん。で、便器に当たるでしょ」
 両手の人差し指を合わせる。
「つながるじゃない?」
「ああ……」
 なんとなく意味はわかった。
「もし便器に菌があったらどうするの?」
 真顔で訊かれる。川上は口を開いただけで固まった。
「つながってるわけだから、こっちに入ってくるじゃん」
「……大変ですね」
「大変だよね!」
 急に声が大きくなる。
「それ考えたらダメでさ。出なくなるの。先っちょまできてるのに、止まっちゃう。おしっこって踏ん張っても出ないでしょ?」
 鼻息が荒い。
「で、隣に誰かが来たらもっと無理。菌って、飛ぶでしょ?」
 川上は黙って聞くしかなかった。
「だから俺、立ちションできないの。もうずっとだよ。みんなできるのにさ」
 潔癖症や神経質。そういった言葉では言い表せられない異様さを感じた。
 まったく笑えない。自分では制御できない感じが、どこかで理解できてしまっている。
「じゃあ、いつも個室で用を……?」
「基本そう。でも個室もダメなときがある。何回も水流して、“ここは清潔、ここは清潔”って暗示をかけてやるんだよ」
 感情任せで話すので、言葉が早くなる。さっきの王者の面影は、どこにもなかった。
「ほんと面倒な性格。たかが小便だぜ……」
 悔しそうに拳を握る。その手が小刻みに震えていた。
「なんで子供でもできることができないんだって……」
 低く吐き捨てる。
「あぁクソっ……ってなるんだよ」
 拳を太ももに向けかけて、彼はやめた。
 どうやら円成寺の精神障害は、汚染への恐怖から排尿できなくなるというものらしい。
 症状は自分と違う。だが、構造は同じのような気がする。彼も、ある意味で本番になると壊れる。当たり前のことができなくなる。それを自分で責める。終わりが見えない。
 川上は憧れのチャンピオンに親近感を覚えた。
「でも、おしっこできてよかったですね」
 気づけば、そんな言葉が出ていた。
「うん。今日は三回でいけたから上出来」
 円成寺は指でテーブルを叩く。「ここだけ。外でできるの」
 このバーなら何をしても誰も否定しない。誰も“普通”を押しつけない。
 だから多少、症状が落ち着くのだろう。
 ふと、先生の顔が浮かんだ。
「実は俺……」
 川上は声を潜め、顔を近づけた。
「同じクリニックに通ってるんです」
 円成寺も口元を隠す。
「銀座の?」
 首を縦に振る。
 円成寺は手を横に振った。
「ダメダメ。病院は意味ない」
「えっ……」
 川上は落胆する。円成寺が病を改善できたのはクリニックの力もあったのではないのか。
「俺をどん底から救ったのは」
 テーブルを指で軽く叩く。「間違いなく、ここ」
 だから彼は四階級制覇したあとも、こうしてこのバーに通っているのだという。
 それを聞いて、焦燥感のような不安がさっと広がる。川上は横目で竜太郎を見た。
 全裸だ。
 円成寺を見る。
 症状は消えていない。
 ここでも病気が治りはしないのだと受け止めた。その事実に、胸の奥が少しだけ冷えた。
 遅れて、首をひねった。
 前澤ひなは?
 彼女だけが“普通”に見える。何らかの症状が出ている様子はない。
「彼女はどんな問題を抱えているんですかね?」川上は小声で尋ねる。
 円成寺は興味なさそうに肩をすくめる。そして席を立った。
「マスター、帰ります」
「またお待ちしています」加能が穏やかに微笑む。
 竜太郎とひなも手を振る。
 川上は立ち上がり、円成寺の背中を見送った。さっきまで弱っていたはずなのに、黄金のオーラが、彼を包んでいた。




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