落武者恐怖症 | 第7話
川上は話の真偽を見定めるように、ひなの瞳を見つめる。
「あなたを誘いたい。それがわたしのしたかった、本当のお礼」
彼女はこちらの視線をしっかり受け止めて続けた。
「わたしはそこで救われている」
魅惑的な誘いだった。自分と同じような問題を抱える人が本当にいるのなら、一度会ってみたい。会って、話を聞きたい。対処法はあるのか。治る病気なのか。
前のめりになる気持ちとは裏腹に、川上の口元には不自然に歪んだ笑みが浮かんでいた。弱みを見せたくない。肉体も精神も正常であると主張して、普通を装ってしまう。
「胡散臭い話だな。だいたいなんで俺がそんなおかしなバーに行く必要があるんだよ」
あまりにも素直でいれば騙され、他人に弱みを見せれば、すぐに出し抜かれる世界で生きてきた。その癖が、反射的に顔を出す。自分を守るために。
ひなの目が冷たくなった。その誘いを簡単に引っ込めてしまいそうな気配。内心で焦りながらも、もう一度誘ってくるのではないかという期待が捨てきれない。
川上はドアの前に突っ立ったまま動かず、つまらない揶揄を続けた。
「おかしいのは俺じゃなくて他の連中。君も騙されてるんじゃない? まあ一度くらい覗いてもいいけどさ」
だが、誘いの言葉はなかなか出てこない。川上の声はだんだん小さくなり、やがて途切れた。立ち去るべきなのに、足が動かない。
ひなは白けた表情で腕を組んでいる。
不可解な沈黙が流れ、二人は無言のまま向き合った。
やがて彼女は、突き放すような口調で言った。
「二十一時半、四谷三丁目の交差点。もう誘わない」
川上はふっと唇をほころばせる。
「しょうがない。芸の肥やしに」
行ってやるか、と続けようとしたが、最後まで聞かずに、ひなは背を向けてバスルームへ消えた。
やや滑稽で、虚しさが胸に残った。それでも、ほんのわずかに気持ちが軽くなっているのを感じた。
どんなバーなのか。問題を抱える人が集まるバーとは、いったい――。
一度自宅に戻り、四谷三丁目へ向かった。足取りは重くなったり、軽くなったりした。不安がないわけではない。それでも立ち止まらなかったのは、「そこで救われている」と言ったひなの真摯な眼差しが、強く残っていたからだ。
二十一時二十七分、四谷消防署の前に着いた。
ひなにメールを送ると、すぐに返信が届く。
『消防署前の信号を渡って、車力門通り入り口へ』
簡潔な文章だったが、あらかじめ用意されていたようにも感じられた。川上は途端に気恥ずかしくなる。彼女の手のひらの上で転がされているような、すべてを見透かされているような感覚に、足が止まった。
『誘われたから顔を出すけど、変な店だったらすぐ帰る予定』
そう送ったが、返事はない。
信号が変わり、ぶつくさと独り言を漏らしながら、新宿通りを四谷方面へ進んだ。
車力門通りの表示板が見える。赤い門柱とレトロな街灯。通りの両側には小さな飲食店がひしめき、会社帰りのサラリーマンたちで賑わっていた。
スマホを取り出した、そのときだった。
視界の端に、澱んだ空気をまとった黒い塊のような影が近づいた。つかつかと靴音を鳴らして向かってくる。視線を落としたまま警戒していると、ミニスカートから伸びる白い脚が目の前で止まった。
「おにいさん」
艶っぽい声。
反応せず無視していると、下から覗き込まれ、女と目が合った。
金髪。黒いシャドウで目元を囲んだ濃いメイク。黒のレザージャケットの隙間から覗く黒いブラ。いかにもという格好で、下品でまったくそそられない。どこからどう見ても、商売女の雰囲気だった。
川上は背を向け、歩き出す。
「人を待ってるんで」
「いいから行きましょ」
腕に絡みついてくる。振りほどこうとするが、思いのほか力が強い。
睨みつけると、女が笑った。
「ひなさんに頼まれています」
川上は目を瞬かせた。
女はさらに腕を絡め、引きずるように通りの奥へ連れていく。
周囲の視線が気になったが、誰もこちらを見ていない。スマホを構える人間もいない。昭和の空気が漂い、粋な大人が夜を過ごす街。川上はこの空気を一瞬で気に入った。
通りの突き当たりに、稲荷神社が現れる。提灯の光の下で、二尾の狐がこちらを見下ろしている。睨まれているようにも、見守られているようにも感じた。思わず手を合わせたくなるが、女は構わず腕を引き、左へ曲がった。
ここまで一言も会話はない。
やがて、暗い裏路地へ。女は密接していた体を離してさらに奥へ進む。
湿った空気。足元の悪い石畳。つんのめりそうになりながら進むと、女が立ち止まった。
視線の先に、真っ黒な壁。よく見ると、そこは勝手口のような扉だと気づく。横には電子機器が埋め込まれ、緑のランプが点灯している。
女はカバーを開け、人差し指を差し込む。
カチッと音が鳴り、黒い扉が解錠されたのがわかった。
女がドアを押し開ける。川上は背後から中を覗いた。暗闇だった。
顎だけで促される。
川上の足は動かない。
突然、尻に激痛が走った。「うわっ!」
「黙れ。早く行け」
耳元で、女が冷たく囁き、鷲掴みしている尻にひねりを加えた。肌に食い込む爪の痛みに、川上は小さな悲鳴を上げて逃げるように中へ入った。
女はついてこなかった。
黒い扉は閉じられ、自動で施錠される。
細い通路の足元に、小さな光が点々と続いている。
それを頼りに進むと、奥から軽快な音楽が聞こえてきた。その入り口の前に、もう一つの扉。
ドアノブを掴み、一度深く息を吸う。そして、引いた。
逃げ道を探していた風が一気に顔を打つ。音が耳に流れ込む。
川上は大きく目を見開いた。
バーカウンターを照らす紫色のネオン。カウンター奥の壁には、大量の酒瓶が整然と並べられている。
その光景に目を奪われていると、
「いらっしゃい」
渋い低音の声が店内に響いた。
視線を酒瓶から手前へ戻す。
白シャツに黒ベスト、黒の蝶ネクタイをしたバーテンダーが軽く頭を下げていた。
川上も会釈し、その精悍な顔を見た瞬間、はっと息を呑んだ。
切れ長の涼しい目元、欧米人のように高い鼻筋、わずかに上がった口角。
どこかで見た顔だと直感した。
記憶と違うのは髪だった。かつてはウェーブのかかったミディアムの黒髪だったが、今は白髪交じりの短髪を後ろに撫でつけている。顎には髭も蓄えられていた。
「あの……もしかして、加能正平さんでは?」
思わず前のめりに尋ねる。
バーテンダーは唇に笑みを浮かべ、ゆっくりと顎を引いた。
「マスターの加能です」
川上は言葉を失った。
――あの加能正平が、目の前にいる。
思わず頬が緩み、口元を手で押さえながら何度もその顔を見返した。
加能正平は、川上が最も尊敬する役者だった。役作りのために歯を削り、髪を抜き、台本のト書きに「指が折れる」とあれば実際に折った。狂気じみたその姿勢でハリウッドにも名を知られ、『ショウヘイ・カノウ』の名は世界に届いていた。
ところが五年ほど前、その名は表舞台から忽然と消えた。役作りが行き過ぎ、崖から飛び降りたまま遺体が上がっていない――そんな噂が業界内で囁かれていた。憑依型の役者だっただけに、あり得ない話ではないと川上も思っていた。
「うれしいです。お会いできて」
自然と右手が伸びた。
「ぼくも会えてうれしいよ」
まだ六十にも満たないはずだが、好々爺のような柔らかい笑みで、加能はその手を力強く握り返した。
「二人でさっきまで飲んでたみたいだね?」
手を離し、左隣を指す。
そちらに目をやると、美しい木目の長いカウンターの隅に、ひなが座っていた。目が合うと、二人はぎこちなく目を伏せた。
「さすがにあの通りを二人で歩くのはどうかと思って」ひながぼそりと言う。
川上は小さく頷いた。「ここに案内した彼女は?」
「マリリン」
「マリリン? お店の人?」
「違う。この街の“車力”」
ふん、と加能が鼻先で笑う。
一瞬意味がわからなかったが、通りの名前を思い出して合点がいった。運ばれてきた自分が“荷物”というわけだ。
「まだ開店前なんだ。水でも飲む?」
「あ、はい。お願いします」
差し出されたグラスはよく磨かれていて、水が光を受けてきらりと輝いていた。
一口含む。乾いた喉に冷たさが染み渡る。
「聞いてると思うけど」
加能の声がわずかに硬くなった。
川上は視線を戻す。
「この店は会員制で、紹介がなければ入れない。勝手に誰かを連れてくることも許されない」
「わかりました」
「マネージャーや事務所の人間もダメ」と、ひなが補足する。
川上は真剣な顔で頷き、それから少しだけ笑みを作った。
「大丈夫です。友達もいなければ、役者仲間もいませんから」
そう自嘲する。
だが加能は笑わなかった。虚空を見つめたまま、突然声を張り上げた。
「バーのルールその一、マスターの許可なくこのバーを紹介してはならない」
川上は呆気に取られる。
「復唱して」
ひなが強い口調で言う。
「えっ……あ、はい……」
加能がもう一度繰り返す。
川上も小声で続けた。
「……マスターの許可なくこのバーを紹介してはならない」
これでいいですか、といった感じで加能を見上げると、彼はまだ虚空を睨んでいた。
儀式はまだ途中らしい。
「バーのルールその二、このバーにいる人間を否定しない」
ひなをちらりと見ると、じろりと睨み返され、唱和するのだと理解する。
「……バーにいる人間を否定しない」
「バーのルールその三、このバーで聞いた話を口外してはいけない」
まるで映画『ファイトクラブ』の真似事だなと苦笑したくなったが、空気は冗談では済まない重さを帯びていた。
「……このバーで聞いた話を口外してはいけない」
「バーのルールその四、誰にも話せない秘密を最低でもマスターに伝える」
「秘密を……?」
思わず言葉を挟む。
「復唱して!」
ひなの咎めるような声ときつい視線。川上は渋い顔をして目を伏せた。
加能が腕時計を見る。
「まもなく当会員のお客様が来られます。約束できないなら、今すぐ出ていってください」
ひどく冷淡な声だった。
川上はまだ迷っていた。
「約束できないのであれば、今すぐ出ていってください。二人とも。永久に」
驚いて、ひなを見る。
彼女は懇願するような目を向けていた。この場所が必要なのだと訴えていた。
川上はグラスを掴み、水を一気に飲み干す。口元にこぼれた水を手の甲で拭い、一つ大きく息を吐くと、意を決した。
「バーのルールその四、誰にも話せない秘密を最低でもマスターに伝える」
早い調子で口を動かした。
「バーのルールその五、絶対にマスターの許可なくこのバーを紹介してはいけない」
ルールその一と同じだと思ったが、加能の言葉をすぐに繰り返した。
加能の表情が緩む。そして、テーブルの下から小さな機器を出した。それは指先にはめるパルスオキシメーターのような形をしている。
「指紋認証です。バーに入るための鍵になります」
促されるまま、人差し指を入れて指紋認証を登録した。
「まもなくお客様がいらっしゃいます」
加能は背筋を伸ばして、ドアのほうを見た。
「あの、もしルールを破ったらどうなりますか……」
恐る恐る聞く。破ってもたいしたことがなければ、ルール四を無視すればいいと考えた。本番になると落武者が見えるという恐怖症の苦しみからは解放されたいが、それを部外者に知られてしまうのはやはり躊躇してしまう。
加能は静かに答えた。
「あなたの生きる場所がなくなる」
穏やかな声なのに、底に凄みがあった。
その瞬間、背後の扉が開く。バーの開店は二十二時ぴったりらしい。
客が入ってきた。
川上が振り返る。
客を見て、思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえる。ルールその二が頭にすぐ浮かび、なんとか耐え、ぎこちなく会釈する。
見覚えのある顔だった。
川上が密かにライバル視している人気俳優。
その男が、目の前に立っていた――。
なぜか。
全裸で。
縮こまった股間も隠さず――。
