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123 『巨人の星』に『あしたのジョー』 アニメがテレビまんがだった時代

 私の囀りに返信先が反応してくれました。

 本当に感謝なのですがやはり最大140文字、言い足りなかったです。私の言わんとすることはヤマトがなくてもタッチはあり得たという想定、想像なのですが、ここを詳述しようとすると錯綜した過程を説明しなければなりません。しかしそれこそが実は一週間前の私のnoteの続編に必要な情報で。

 アニメ論からマンガ論になってしまいますが、手塚治虫が両方に手を出したので、双方のそれぞれの歴史は単独で語ることが出来なくなっています。
 さて、手塚を一時は窮地に追いつめた劇画、そしてその運動、それは何を目指したのか? テーマ的には手塚マンガの未来志向/思考を、現在と過去によってぶち壊そうとしたと捉えることが出来る。しかしそれによって劇画は何を得ようとしたのか? 簡単に言えば文学であり権威であり、マンガ/マンガ家の地位向上と思うのです。
 私がそれに気づいたのは『巨人の星』ですが、文庫で夢中になって読んだずっと後のこと。アニメでは悲劇の投手沢村栄治などマンガにはない話が語られていますが、それは間違いなくマンガの方で語られていた宮本武蔵、「いざ鎌倉」、スタンダールの話があったからと思う。読んでた時は『巨人の星』に似合いのエピソードとして楽しく読んでたけど、なぜマンガだけで完結させなかったのか? 実際、時期的に次の連載の『あしたのジョー』では朝鮮戦争に絡めたボクサーを登場させるものの、劇中に別のフィクション/物語を紹介することはなかったのです。
 つまり『巨人の星』は当時日本でも権威であった文学の力を借りて、マンガの地位向上を図ろうとした作品なのではと思いついたのです。しかし『あしたのジョー』によってマンガはマンガだけの表現、技術によって文学になったと解釈したのです。つまり手塚も劇画もマンガの地位向上という意味では目指す目標は同じだったと考えるのです。
 ただし、話しがマンガの歴史に限ることができれば単純だったけど、上記のマンガがアニメ化したためややこしくなる。単純に言って『巨人の星』や『あしたのジョー』のアニメ化が日本のアニメの地位向上に結びついたか? 率直にいって前者の長浜忠夫、後者の出崎統によりそれぞれ独自の物語り方を発見、発展させてアニメでも劇画ブームを起こしたのだが。結局は「マンガのアニメ化」が安直と見なされてしまい、そこにどんな創意工夫がなされたか、ファンも日本社会も気づくことはなかったのです。それがヤマト以前、テレビまんがとしての日本のアニメの社会的立場と思うのです。
 そうは言ってもテレビまんが時代のジャンル的な膨張は馬鹿に出来ない。実際、それらを栄養としてたっぷり吸収し、ヤマトで西崎Pと喧嘩別れした後でガンダムで観返したのが富野喜幸だし。
 では『宇宙戦艦ヤマト』に西崎義展、劇画に対してどういう立場をとったか、それが問題になる。アニメ『タッチ』をテレビまんがの継承者としたので本来はタッチの劇画論をしなければならないのですが、やはりヤマトからガンダムのアニメ論を私なりに説明したく、マンガ論は後回しにします。(大塩高志)


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