「変身」において翻訳の解釈が分かれている箇所(連載の第19回で取り扱われている範囲で)

(2026年4月28日追記)
公開後に見つかったり刊行されたりした訳を、できるかぎり追記しました。その部分は太字にし、邦訳に関しては☆を、英訳に関しては♢を付けました。ただし、「…としている訳が3つあります」→「…としている訳が4つあります」などのような、新しい訳の追記に関係しない細かい修正には、このような表示はしておりません。
なお、この回は難しい箇所が特に多く、私も大変難航した回でしたこともあり、既に今回の追記作業よりも前に、公開後に見つかったり刊行されたりした訳を追記していた箇所もあります。ですが、煩雑になりますので、これらの訳も一括して、上記と同じく☆と♢で示させていただきますが、ご了承いただけましたらと思います。

また、今回のこの追記作業よりも前に、新たに修正や加筆修正をしていた箇所が3箇所と、今回の追記作業のさいに、加筆修正や追加をした箇所が3箇所と、私の別の記事をご紹介している箇所が1箇所あります。
以上の7箇所の始めには、♧を付けました。
これらの箇所だけをすぐにご覧いただくこともできますように、以下に目次の形でも入れておきます。この記事全体の目次とは違いますが、ご容赦下さい。


(追記終わり)

岡上容士(おかのうえ・ひろし)と申します。高知市在住の、フリーの校正者です。文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが連載なさっている「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の校正をさせていただいており、その関係で、「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」という、この連載も書かせていただいています。今回は多忙でしたためとは言え、いつもよりだいぶ遅れましたことをお詫びいたします。

私の連載の内容につきましては、前々回の「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所(連載の第17回で取り扱われている範囲で)」の冒頭で記しましたので繰り返しませんが、今回初めてお読み下さいます方は、前々回のその冒頭部分だけでもご覧いただければと思います。https://note.com/okanoue_kafka/n/n7b93dc212b5b

なお、以下に※で列挙しています凡例(はんれい)的なものは、その回から初めてお読み下さる方もおられると思いますので、毎回記させていただくようにしていますし、今後もそのようにします。ただ、英訳に関する項目だけ、前々回から「※英訳に関しては、特に示す必要はないと思われる箇所では省略します。」と変更しています。

※解釈が分かれている箇所は、詳しく見ていくと、このほかにもまだあるかもしれませんが、私が気がついたものにとどめています。

※多くの箇所で私なりの考えを記していますが、異論もあるかもしれませんし、それ以前に私の考えの誤りもあるかもしれません。ご意見がおありでしたら、コメントの形でお寄せいただけましたら幸いです。

※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を入れています。なお邦訳に関しては、必要と思われる場合には、原田訳以外の訳もあげています。ただし、原田訳以外の訳は、あとの説明に必要な部分だけをあげている場合もあります。

※ほかにも、文の一部分や、個々の単語に対して、邦訳の訳語をあげている場合があります。この場合には、『変身』の邦訳はたくさんありますので、同じ意味の事柄が訳によって違った形で表現されていることが少なくありません(たとえば「ふとん」「布団」「蒲団」)。ですが、説明を簡潔にするため、このような場合には全部の訳語をあげず、1つ(たとえば「ふとん」)か2つくらいで代表させるようにしています。

※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。

※高橋義孝訳と中井正文訳は何度か改訂されていますが、一番新しい訳のみを示しています。

※英訳に関しては、特に示す必要はないと思われる箇所では省略します。

※ドイツ語の文法での専門用語が少し出てきますが、これらを1つ1つ説明していますと長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、これらに関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。

※原文や邦訳や英訳など、他書からの引用部分には色をつけてありますが、解説文の文中であげている場合にはつけていません。

それではこれから始めますが、今回は難しい箇所が多く、だいぶ長くなりました。ですので、お時間があまりおありでない方は、(○ではなく)◎で示された15の項目――の中でも「(特に①)」などと記した番号のもの――だけでも、お読み下さいましたら幸いです。

また、長くなったこともあり、邦訳や英訳の訳例は、特に重要と考えた項目以外では、いつもよりかなり少なめにしています。ご了解いただきたくお願いいたします。

◎(特に②)
Es verging eine kleine Weile, Gregor lag matt da, ①ringsherum war es still, vielleicht war das ein gutes Zeichen. Da läutete es. Das Mädchen ②war natürlich in ihrer Küche eingesperrt und Grete mußte daher öffnen gehen.
ちょっとばかり時が流れた。グレゴールは疲れ果ててそこに横たわっていた。あたりは静まり返っている。きっといいしるしなのだろう。そのとき、玄関のベルが鳴った。女中はむろん台所に閉じこめられているので、グレーテが開けなければならなかった。(原田義人〔よしと〕訳)
いっときが過ぎ、グレーゴルはへとへとになってその場に伸びていたが、あたりはしんとしたままだった。どうやらこれは、好都合な気配ではないかと思われた。その時ベルが鳴った。女中はもちろん台所に閉じこもっていたから、グレーテが開けに出なくてはならなかった。(川村二郎訳)

①この ringsherum war es still, vielleicht war das ein gutes Zeichen. の部分は、原文は過去形で書かれていますが、原田訳では現在形で訳しています。これはなぜかと言いますと、原田先生がこの部分を体験話法と判断なさったためかと思われます。
体験話法に関しての詳しいことは、次の題名の頭木さんのブログをご覧下さい。ただしここでは、はじめに第6回の該当箇所全体の原文と英訳と邦訳があげられており、私の記事はそのあとで始まっています。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
ですがその一方で、川村訳では過去形で訳しており、川村先生はこの部分を体験話法とは判断なさっていませんね。
この部分に関してはこのように、体験話法として訳している訳と、そうでない訳とがありますし、中には、一方を現在形、他方を過去形で訳していて、どっちつかずの感じになっている訳もあります。
私としましては、緊迫感がそれほど強いとまでは言えないように感じましたので、体験話法とは判断しませんでした。ですが、ある文が体験話法か否かを決める絶対的な基準のようなものはありませんから、体験話法として訳しても、間違いでは決してありません。ご参考までに、この部分を体験話法と判断したと仮定して、直接話法で書いてみますと、ringsherum ist es still, vielleicht ist das ein gutes Zeichen. となります。

②war ... eingesperrt は、ドイツ語の文法用語で言いますと、「状態受動」になっています。つまり、sein(war は sein の3人称単数の過去形) と他動詞の過去分詞で、「...されている」という、「状態[を表す]受動」の意味になるわけです。従って、原田訳の「閉じこめられている」(正確には「閉じこめられていた」と過去形にすべきですが)という訳は、文法的には全く正しいということになります。
ですが、ここで疑問が生じます。前の方――この連載では第17回に該当する箇所――では、「この十六歳ばかりの少女は、前の料理女がひまを取ってからけなげに我慢していたが、台所の鍵はたえずかけておいて、ただ特別に呼ばれたときだけ開けるだけでよいということにしてくれ、と願い出て、許されていたのだった(原田訳)」と書かれており、この文から考えますと、女中は「[だれかによって]閉じこめられていた」のではなく、自分の意志で台所に「閉じこもっていた」ことになりますね。
邦訳ではおおむね、この点が考慮されているようでして、「閉じこめられていた」とは訳さずに、川村訳のように「閉じこもっていた」、またはこれに近い言葉で訳している訳がほとんどですし、内容から判断しますと、むしろこのように訳した方が正しいということになります。
以上のようなことから考えますと、ここはむしろ、原文の方に問題があると言えるのではないでしょうか。ここでは einsperren を再帰動詞として用いて、Das Mädchen sperrte sich natürlich in ihrer Küche ein と書くか、前からそうであることを強調するのでしたら過去完了形にして、Das Mädchen hatte sich natürlich in ihrer Küche eingesperrt と書くかしましたら、はっきりと「(自分を閉じこめていた→)閉じこもっていた」という意味になりますから、これらの方が正しい書き方であると言えます。
それでは、なぜカフカは原文のような書き方をしたのかと問われますと、私もはっきりとはわかりません。私が今、考えられることとしましては、
〔1〕「彼女にとっては不本意ではあったが、やむをえない事情によって、台所に閉じこもることを余儀なくされていた(つまり、閉じこめられていた)」というニュアンスで言いたかった。
〔2〕再帰動詞が過去分詞になると、sich がなくなることがある*ので、ここでは sich einsperren を過去分詞の eingesperrt としておいてから、war を加えて過去形の文にした。
*このことに関しては、連載の第16回でお話ししています。ご興味がおありの方はご覧下さい。「○Oder er scheute nicht die Mühe, ...」で始まる項目の②にあります。
https://note.com/okanoue_kafka/n/n3f61ad03c022 
〔3〕単に書き間違えた。
の3つです。いずれなのかはっきりおわかりになる方がおられましたら、あるいは、これら以外のご見解をお持ちの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。
ちなみに英訳では、was ... locked(または、locked away、locked up、barricaded、shut up) などと単純に受動形にしている訳がほとんどです。けれども、David Wyllie 訳では The maid, of course, had locked herself in her kitchen ... 、John R. Williams 訳では The maid had of course locked herself in the kitchen, ... 、Mary Fox 訳は The servant, of course, locked herself in the kitchen, ... ♢、Phillip Lundberg 訳は The maid had locked herself inside the kitchen … 、David Gildea 訳は Predictably, the housekeeper had secured herself in the kitchen, … としており、感心しました。
もっとも、原文は確かに状態受動の形で書かれているのですから、それに添って訳した原田訳や多くの英訳をことさら批判するつもりはありません。念のために。

○Der Vater war gekommen. »Was ist geschehen?« waren seine ersten Worte; Gretes Aussehen hatte ihm wohl alles verraten. Grete antwortete mit ①dumpfer Stimme, ②offenbar drückte sie ihr Gesicht an des Vaters Brust: »Die Mutter war ohnmächtig, aber es geht ihr schon besser. Gregor ist ausge-brochen.«
父親が帰ってきたのだった。「何が起ったんだ?」というのが彼の最初の言葉だった。グレーテの様子がきっとすべてを物語っているにちがいなかった。グレーテは息苦しそうな声で答えていたが、きっと顔を父親の胸にあてているらしい。
「お母さんが気絶したの。でももうよくなったわ。グレゴールがはい出したの」

①この dumpf[er] はいろいろに訳せますね。原田訳以外の邦訳では、「くぐもった」「こもった」が多いですが、「聞きとれない」「くすんだ」「こもった低い」「こもったような」「にぶくはっきりしない」「はきはきしない」「はっきりしない」「よく聞きとれない」「よく通らない」もあります。英訳では muffled が非常に多いですが、dull、hushed、stifled、subdued もあります。
②この offenbar には「明らかに」という意味も、「どうも...らしい」という意味もあり、どちらの意味であるのか断定でない場合も少なくありません。原田訳の「きっと...らしい」という訳は、日本語としてはちょっとあいまいですね。
ここでもどちらの意味であるのかは断定できません。グレーゴルがグレーテの声からこのように推測したとも解せますし、「グレーテの声がこんなであったのは、明らかに顔を父親の胸にでも当てていたからだ」と、いわば断定したとも解せますから。
邦訳でもここの解釈はほぼまっぷたつに分かれており、たとえば辻瑆(ひかる)訳では「グレーテはこもった声で答えたが、これは顔を父親の胸におしつけているにちがいなかった」、高本研一訳では「グレーテの返事の声が聞きとれないのは、顔を父親の胸に押し当てているためのようだった」としています。
英訳では、apparently や evidently のように、どちらの意味にもなる語を使っている訳もありますが、これら以外では、clearly や obviously としている訳や、likely や presumably や probably としている訳もあり、やはり分かれています。
このような語に関しては、読者の好みで解釈してよいのではないでしょうか。

○»Ich habe es ja erwartet«, sagte der Vater, »ich habe es euch ja immer gesagt, aber ihr Frauen wollt nicht hören.« Gregor war es klar, daß der Vater Gretes allzu kurze Mitteilung schlecht gedeutet hatte und annahm, daß Gregor sich irgendeine Gewalttat habe zuschulden kommen lassen. ①Deshalb mußte Gregor den Vater jetzt zu besänftigen suchen, denn ihn aufzuklären hatte er weder Zeit noch ②Möglichkeit.
「そうなるだろうと思っていた」と、父親がいった。「わしはいつもお前たちにいったのに、お前たち女はいうことを聞こうとしないからだ」
父親がグレーテのあまりに手短かな報告を悪く解釈して、グレゴールが何か手荒なことをやったものと受け取ったことは、グレゴールには明らかであった。そのために、グレゴールは今度は父親をなだめようとしなければならなかった。というのは、彼には父親に説明して聞かせるひまもなければ、またそんなことができるはずもないのだ。

①Deshalb 以下の文も、たとえば池内紀(おさむ)訳(「となれば、父をなだめにかからなくてはならない。釈明しようにも、そのための時間も方法もない」)のように体験話法として訳している訳と、たとえば城山良彦訳(「そこでいま、父親をなだめにかからなくてはならなかった。事情をよく説明する時間も可能性もなかった」)のようにそうでない訳とがあります。原田訳は前半は過去形、後半は現在形で訳していますが、主語を「グレゴール」や「彼」と訳していますから、体験話法とは判断していないような感じですね。
ここに関しても、体験話法かそうでないのかは決められませんので、読者の好みで解釈してよいのではないかと思います。ここもご参考までに、この部分を体験話法と判断したと仮定して、直接話法で書いてみますと、Deshalb muß(今のドイツ語の書き方では muss) ich den Vater jetzt zu besänftigen suchen, denn ihn aufzuklären habe ich weder Zeit noch Möglichkeit. となります。
なお、原文が体験話法であるのなら、Gregor ではなく er となっているはずという考え方もあるかもしれませんが、体験話法でも人称代名詞ではなく固有名詞が使われることは(少ないですが)ありますから、この文が体験話法であることを否定する根拠にはならないのではないかと、私は思います。
②それから、この文の denn 以下では、――体験話法的に言いますと――自分には父親に説明する時間もないし、自分は家族が言っていることはわかるものの、人間の言葉はもう話せなくなっているのだから、説明すること自体もできない、ということを言っていますね。
それでこの Möglichkeit は、普通の意味(「可能性」、♢英訳では possibility)と解してよいのではないかと思いますが、訳によっては、邦訳では「手段」「手だて」「方法」☆「見こみ」、英訳では [the] ability(能力)、[the] means(手段、手だて、方法)、way(同左)、the chance(機会、チャンス)、the occasion(同左)、[the] opprtunity(同左)――[the] に関しては、定冠詞の the を付けている訳と付けていない訳とがあります――としているものもあります。
Möglichkeit にはこれらのどの意味もありますから、いずれの訳でも間違いとは決して言えません。ただ、私としましては、ここは素直に「可能性」と解しておいてよいのではないかと思います。

○Und so flüchtete er sich zur Tür seines Zimmers und drückte sich an sie, damit der Vater beim Eintritt vom ①Vorzimmer her gleich ②sehen könne, daß Gregor ③die beste Absicht habe, sofort in sein Zimmer zurückzukehren, und daß es nicht nötig sei, ihn zurückzutreiben, sondern daß man nur die Tür zu öffnen brauche, und gleich werde er verschwinden.
そこで自分の部屋のドアのところへのがれていき、それにぴったりへばりついた。これで、父親は玄関の間からこちらへ入ってくるときに、グレゴールは自分の部屋へすぐもどろうというきわめて善良な意図をもっているということ、だから彼を追いもどす必要はなく、ただドアを開けてやりさえすればすぐに消えていなくなるだろうということを、ただちに見て取ることができるはずだ。

①Vorzimmer の訳語に関しては、連載の第9回で考察しています。ご興味がおありの方はご覧下さい。「○»Haben Sie auch nur ein Wort verstanden?« ...」で始まる項目の③にあります。
https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12735120026.html 
②この sehen ですが、邦訳では「見る」という感じで訳している訳がわずかにありますが、この場合には、daß 以下の内容は純粋に「見る」ようなこととはちょっと違いますから、「見てとる」とか「わかる」とかいった感じで訳した方がよいかなと、私は思います。英訳では大部分が see――英語の see にも、「見る」という意味だけでなく「わかる」という意味もありますね――と訳していますが、know や notice や understand としている訳もあります。
なお、邦訳、英訳ともに、「daß 以下のことをグレーゴルが父にわからせる」という感じで意訳している訳もいくつかありますが、これらも sehen を「わかる」と解しているとは言えますね。
③die beste Absicht habe は、直訳しますと原田訳のようになりますし、これでも全然構いませんが、ほかにもいろいろな訳し方ができますね。次の諸訳は特に上手と思いましたので、あげておきます。

グレーゴルは感心なことに、すぐにも部屋に戻ろうとしているのだな、...(川村訳)
彼の息子にはすぐにも自分の部屋にもどる殊勝(しゅしょう)な意思があり、...(Nabokov 英訳→野島秀勝訳)
グレーゴルが殊勝にも、すぐに部屋にもどろうとしているのを...(池内訳)ただちに部屋へ戻ろうとしているグレゴールのこの上ない誠意を、...(山下肇〔はじめ〕・萬里〔ばんり〕訳)
☆グレゴールはさっさと自分の部屋に引き返すつもりでそれを渋る気は毛ほどもないこと、…(西田岳峰〔たかね〕訳)
グレゴールが誠心誠意、すぐ自分の部屋に戻るつもりであることは、...(川島隆訳)

○Aber der Vater war nicht in der Stimmung, ①solche Feinheiten zu bemerken; ②»Ah!« rief er gleich beim Eintritt in einem Tone, als sei er gleichzeitig wütend und froh.
しかし、父親はこうした微妙なことに気づくような気分にはなっていなかった。入ってくるなり、まるで怒ってもいればよろこんでもいるというような調子で「ああ!」と叫んだ。

①solche Feinheiten は、直訳しますと「このような細かい(または、微妙な)こと」のようになりますが、邦訳ではかなりいろいろに訳されています。直訳的に訳されているものは省略し、何らかの言葉が足されているものだけをあげておきますと、次のようになります。「このような気遣(きづか)い」「このようなこまやかな心くばり」「このような/こんな/そんなに微妙な心づかい」「そういう微妙な空気」「そうした微妙な配慮」「そのような細やかな気づかい」「そのような繊細な心づかい」「そんな繊細な機微(きび)」☆「そんなデリケートな配慮」「そんな微妙な計算」「そんな微妙な仄(ほの)めかし」
英訳では、such subtleties としている訳が多く、ほかには subtleties like that、these subtleties、such details、such fine details、♢such small details、these details、such delicasy、such fine distinctions、such niceties、these fine points がありますが、おおむねは直訳していますね。
②Ah はいわゆる感嘆詞で、これもいろいろな訳し方ができますね。
邦訳では、!は省略して示しますと、Ah に感じが近い「ああ」が多いですが、「あああ」「ああ、何てこった」「うわぁ」「うわっ」「おお」☆「おおお」「おおっ」「おっ」「おや」☆「おわっ」「こりゃあ」「ほう」「やあ」「エーイ」「そうか」(終わりの2つはこの場の雰囲気にはちょっと合わない感じもしますが)もあります。
英訳では、同じく!は省略して示しますと、つづりは全く同じ Ah が大部分で、ほかには Aha がいくつかあり、あとは ♢Ahh、Ah-ha、Ha、Oh が1つずつあります。

◎(特に①)
Gregor zog den Kopf von der Tür zurück und hob ihn gegen den Vater. ①So hatte er sich den Vater wirklich nicht vorgestellt, wie er jetzt dastand; ②allerdings hatte er in der letzten Zeit ③über dem neuartigen Herum-kriechen versäumt, sich so wie früher um die Vorgänge in der übrigen Wohnung zu kümmern, und hätte eigentlich darauf gefaßt sein müssen, veränderte Verhältnisse anzutreffen.
グレゴールは頭をドアから引っこめて、父親のほうに頭をもたげた。父親が今突っ立っているような姿をこれまでに想像してみたことはほんとうになかった。とはいっても、最近では彼は新しいやりかたのはい廻(まわ)る動作にばかり気を取られて、以前のように家のなかのほかのできごとに気を使うことをおこたっていたのであり、ほんとうは前とはちがってしまった家の事情にぶつかっても驚かないだけの覚悟ができていなければならないところだった。

①の So hatte er sich den Vater wirklich nicht vorgestellt, wie er jetzt dastand; ... は、文法的には、――wie と人称代名詞の1格か4格で、(「...ような」というニュアンスは加わりますが)関係代名詞とほぼ同じことになります*から――wie er を den Vater を先行詞とする関係代名詞的な用法とみなすこともできるかもしれません。ですが、そのように考えますと文頭の So が浮いてしまいますので、ここではこの So があとの wie と呼応して wie 以下の内容を受けており、「父親をwie 以下のように想像したことは本当になかった」という意味になっていると考えた方がよいのではないかと、私は思います。
*この語法は、今回の連載のこのあとの箇所にあります。ご参考までに、そこの部分だけの原文と邦訳を先にあげておきます。

... ; in eine straffe blaue Uniform mit Goldknöpfen gekleidet, wie sie Diener der Bankinstitute tragen; ...
銀行の小使(こづかい)たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。
(岡上記:sie――ここでは4格で、あとの Diener が1格でこの副文の主語――は前の eine straffe blaue Uniform を受けており、wie sie で eine straffe blaue Uniform を先行詞とする関係代名詞のようになっています)

②allerdings には、「もちろん」という感じの意味と、「ただし」「とは言っても」という感じの意味とがあり、どちらの意味であるのか迷うことも少なくありません。ここでも邦訳、英訳ともに、解釈が分かれています。
私の考えでは後者の意味であり、「想像もしなかったような姿で、父親が立っていた。とは言っても、以前は部屋の外のできごとをずっと気にかけていたのに、ここ最近は新しい這い回り方に気を取られて、気づかいをおこたっていたのだから、自分が知らないうちに事情が変わっていても当然のことであり、本当は驚かずに受けとめないといけなかったのだろうが」という感じで言っているのではないかと思います。
③この前置詞の über は、「...に従事して」という従事の意味とも、「...のために」という原因の意味とも解せますが、ここでは結局、「新しいやり方で這い回るという行為をしていたために」という、両方の意味を含んでいますから、どちらか厳密に決めなくてもよいのではないかと、私は思います。


Trotzdem, trotzdem, war das noch der Vater? Der gleiche Mann, der müde im Bett vergraben lag, wenn früher Gregor zu einer Geschäftsreise ausgerückt war; der ihn an Abenden der Heimkehr im Schlafrock im Lehnstuhl emp-fangen hatte; gar nicht recht imstande war, aufzustehen, sondern zum Zeichen der Freude nur die Arme gehoben hatte, und der bei den seltenen gemeinsamen Spaziergängen an ein paar Sonntagen im Jahr und an den höchsten Feiertagen zwischen Gregor und der Mutter, die schon an und für sich langsam gingen, immer noch ein wenig langsamer, in seinen alten Mantel eingepackt, mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock sich vorwärts arbeitete und, wenn er etwas sagen wollte, fast immer stillstand und seine Begleitung um sich versammelte?
それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套(がいとう)にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖(しゅもくづえ)をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。

個々の部分の解釈はあとにしまして、体験話法という観点から、この文章を見てみることにしましょう。
ここは典型的な体験話法であり、たいていの邦訳がそのように訳しています。普通の文と同じように訳している訳が2つ、Trotzdem, trotzdem, war das noch der Vater? の部分は過去形に訳し、Der gleiche Mann, ... の部分は「...していたのと同じ人なのだろうか」という感じで現在形に訳している訳が2つありますが。

♧(2025年3月29日修正:体験話法の箇所での時制の不統一)

ただし、der müde im Bett vergraben lag, … から最後までは過去のことを言っています。従って、 Der gleiche Mann, も含めて概括的に言いますと、「過去の父親はこんな人であったのに、これが今、目の前にいる父親と同じ人なのだろうか」という感じで言っていることになります。
体験話法では、登場人物が思っている内容が過去形で言われている場合には過去完了形で書かれるのが原則ですが、過去形のままにされることもあります。ですが、この文章では、本来でしたら過去形か過去完了形に統一されていなくてはいけないのに、過去形と過去完了形が混用されており、ちょっと不自然な感じがします。
特に、der müde im Bett vergraben lag, wenn früher Gregor zu einer Geschäftsreise ausgerückt war; ... と、gar nicht recht imstande war, aufzustehen, sondern zum Zeichen der Freude nur die Arme gehoben hatte, ... では、言われていることはそれぞれ同時に起きたことと言ってよいですから、一方を過去形にしてもう一方を過去完了形にする必要性はないと思われます。
なぜこのように不統一になっているのかは私もよくわかりませんが、単に文章に変化をつけたかったためかもしれませんね。はっきりした理由がおわかりになる方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。
(修正終わり)

ここもご参考までに、直接話法で書いてみますと、次のようになります。過去形と過去完了形の不統一はそのままにしておきます。太字部分が書き換えた箇所です。

Trotzdem, trotzdem, ist das noch der Vater? Der gleiche Mann, der müde im Bett vergraben lag, wenn früher ich zu einer Geschäftsreise ausgerückt war; der mich an Abenden der Heimkehr im Schlafrock im Lehnstuhl empfangen hatte; gar nicht recht imstande war, aufzustehen, sondern zum Zeichen der Freude nur die Arme gehoben hatte, und der bei den seltenen gemeinsamen Spaziergängen an ein paar Sonntagen im Jahr und an den höchsten Feiertagen zwischen mir und der Mutter, die schon an und für sich langsam gingen, immer noch ein wenig langsamer, in seinen alten Mantel eingepackt, mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock sich vorwärts arbeitete und, wenn er etwas sagen wollte, fast immer stillstand und seine Begleitung um sich versammelte?

また、体験話法として訳す場合でも、必ずしも登場人物自身のこととして「私」とか「ぼく」などとは訳さずに、三人称で訳す場合もありますから、原田訳でも誤訳では決してありませんが、純粋に体験話法として訳したらどのようになるかを、原田訳に基づいて以下に記しておきます。こちらも太字部分が書き換えた箇所です。

それはそうとしても、これがまだぼくの父親なのだろうか。以前ぼくが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、ぼくが帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれてぼくを迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とぼくとのあいだに立って、ぼくたちよりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。

ちなみに、邦訳の中には、このような感じで純粋に体験話法として訳している訳もありますが、zwischen Gregor und der Mutter の部分に関しては、 Gregor はすべての邦訳が「グレーゴル」か「グレゴール」――ほかに「グレゴオル」と「グレーゴア」が1つずつだけ。どの読み方も間違いではありません――と訳しており、zwischen mir und der Mutter とみなして訳している訳はありませんでした。

♧(2026年4月28日追加:私の別の記事のご紹介)

… , wenn er etwas sagen wollte, … の wollte に関しては、私の「番外編〈4〉:「変身」で体験話法になっている箇所の、sollte と wollte の意味や英訳などについて」という記事で、体験話法とも関連づけて、より詳しく分析しています。よろしければご覧下さい。ただ、かなりマニアックな内容ですので、話法の助動詞の用法や体験話法にご興味がおありの方のみでよろしいのではないかと思います。「(14)第Ⅱ部、第19回」にあります。
https://note.com/okanoue_kafka/n/n93fe7f6c45e3
(追加終わり)

それでは次に、個々の部分の解釈について見ていきます。いくつかに分けて、原文と原田訳をもう一度示します。

○Trotzdem, trotzdem, war das noch der Vater?
それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。

この noch は、「[こんな姿で見えていても] まだ、なお」という意味かと思われます*が、あえて訳出しない方が日本語としてはすっきりするような感じもしますし、現に訳出していない邦訳もかなりあります。
♢*英訳でも、訳出している訳は still としています。

○Der gleiche ①Mann, der müde im Bett ②vergraben lag, wenn ③früher Gregor zu einer Geschäftsreise ausgerückt war; ...
以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、...(岡上記:Der gleiche Mann の訳は、原田訳ではこのあとの方で出ています)

①Mann は、英語の man と同じく、一般的に「人」「人間」を意味する場合と、「男」を意味する場合とがあります。邦訳を見てみましたところ、多くの訳では「人(ただし、前の gleiche と合わせて「同一人」としている訳もあり)」「人物」「人間」のいずれかにしていますが、3つの訳は「男」、他の4つの訳は「父親」としています。この場合には、どの訳も間違いではありませんね。もっとも、「父親」とするのは原文とは少しずれていますが。ちなみに英訳では、すべて man としています。
②vergraben は「埋める」という意味の動詞で、ここでは過去分詞形――vergraben の場合には、不定形(原形)と同形になりますが――になっており、直訳しますと原田訳のような感じで「埋められて横になっていた」となりますね。これでも勿論間違いではありませんが、いくつかの邦訳のように「もぐりこんでいた」と訳した方が日本語らしくなりますね。川崎芳隆訳の「ふとんにくるまっていた」も、上手な訳であると思いました。
③この früher を、「以前」という感じにではなく、「朝早く」と訳している邦訳が2つがありましたが――英訳ではありませんでした――、やはり違うかなと思います。複数の辞書を見ましても、früher 単独で「朝早く」という意味は出ていませんでした。また、こう訳しますと、あととのつながりで、朝早く出て晩に帰ってきたという感じになりますが、こうした商用旅行は日帰りとは限らないでしょう。

○... ; der ihn an Abenden der Heimkehr im Schlafrock im Lehnstuhl empfangen hatte; gar nicht recht imstande war, aufzustehen, sondern zum Zeichen der Freude nur die Arme gehoben hatte, ...
彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、...(原田訳)
かれが帰宅した晩など、寝間着のまま安楽椅子にすわってかれを迎えてくれた父。よく立ち上がることができないので、喜びを示すのにただ両腕をあげた父。(高本訳)

gar nicht recht に関してですが、gar nicht は否定の強めになっているにもかかわらず、次の nicht recht は部分否定ですから、紛らわしいですね。第6回でも durchaus nicht besonders という表現が出てきて迷いましたが、やはり基本は部分否定であり、それを少し強めたものであろうと、私は判断しました*。ここでも同じように考えて、たとえば高本訳のように訳した方がよいのではないかと思います。
*ご興味がおありでしたらご覧下さい。「○... ; um den einzuholen,  ...」で始まる項目にあります。
https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12700098529.html

◎(特に①と②)
... , und der bei den seltenen gemeinsamen Spaziergängen an ein paar Sonntagen im Jahr und an ①den höchsten Feiertagen zwischen Gregor und der Mutter, die schon ②an und für sich langsam gingen, immer noch ein wenig langsamer, in seinen alten Mantel eingepackt, ③mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock sich vorwärts arbeitete und, wenn er etwas sagen wollte, fast immer stillstand und seine Begleitung um sich versammelte?
年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父(、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか)。

①(ここでは前置詞の an に支配されて複数3格の形になっていますが、1格の形で示します)die höchsten Feiertage は難しく、諸訳でもいろいろに訳されています。
邦訳では、höchsten を訳出せずに「祭日」とだけしている訳や、「誕生日など」としている訳もありますし、これら以外では☆「選(え)り抜きの祝日」「大きな祭日」「大きな祝祭」「大きな祝日」「重要な祝日」「大祭日」「特別大きな祭日」「特別な祝日」「特別の祭日」「特別の大祭日」「とびきりの祝日」「よほどの祭日」としています。
英訳では、big holidays、high holidays、♢the highest feast days、the highest holidays、[the] important holidays、the most important holidays、the main holidays、[the] major holidays、♢the most notable holidays、the principal public holidays、[a] public holiday、♢public holidays、the most solemn holidays、special holidays としています。[a] と [the] に関しては、a や the を付けている訳と付けていない訳とがあります。
それで、höchst は形容詞 hoch の最高級(英文法の用語では「最上級」)であり、「一番高い」とか「最も高い」が本来の意味ですね。ただ、形容詞の最高級には絶対最高級と言って、「きわめて...」「とても...」という意味になる場合もあり、ここではこの絶対最高級と考えてよいのではないかと思われます。邦訳でも、「一番...」「最も...」としている訳はありませんし。
次に意味に関してです。英語の high holiday はユダヤ教の特別の祝日を意味しているようですが、私はこの方面は専門外でして詳しいことはわかりませんし、この連載のテーマからも離れてきますので、具体的な説明は省略します。ドイツ語の原文も、絶対最高級で強調されてはいますが、あるいはこのような祝日のことを言いたかったのかもしれません。
ですが私としましては、簡単に考えて、「とても大事な祝日」くらいに訳してよいのではないかとも思います。そのような意味では、「誕生日など」とした訳も、原文とは一見飛躍しているようでいて、案外上手ではないかと思いました。

②an und für sich にはいくつかの意味がありますが、ここでは「元来(がんらい)」とか「もともと」という意味ではないかと思われます。
〔1〕それでここでは、「グレーゴルと母親は、このような散歩のときには、父親のことを考えて、もともと(→はじめから)ゆっくり歩いていた」ということを言っているのではないかと、私は思っていました。しかし、
〔2〕ドイツ語を専門とする知人にも意見を求めましたところ、ここでも文字どおり「元来」とか「もともと」という意味であり、グレーゴルと母親はもともと歩くのが遅かったと考えた方がよいと思うとのことでした。改めて邦訳を見てみましても、原田訳も含めてこのように訳している訳が多いですので、やはりこのように解した方がよいのかもしれませんね。
ただ、浅井健二郎訳ではこの部分を「この二人の歩み自体がすでにゆっくりしたものだったのに」、真鍋宏史訳では「十分ゆっくり歩いている」としていて、ゆっくり歩いたのが父親のためにであることをほのめかしているのではないかと思われますし、A. L. Lloyd 訳では ... , while they walked slower and slower for him, ... 、Wyllie 訳では ... , who(=Gregor and his mother) were already walking slowly for his sake; ... 、M. A. Roberts 訳では ... , Mother going slowly near him for his sake, ...(母だけとしか訳していないのは問題ではありますが) としていて、そのことをはっきり言っており、〔1〕のように解釈したのではないかと思われます。
上記以外の英訳では、an und für sich を、anyhow、anyway、themselves、as it was、even on their own、in and of themselves(この表現は私も知りませんでしたが、辞書によりますと、ここでは in themselves と同義と考えて構わないようです)、in any case、on their own account などとしていますが、一応「もともと」という感じの意味になりうる in and of themselves は別として、ここでの意味とは今一つ合わないような感じがしますね。

③mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock に関しては、aufsetzen の過去分詞形の aufgesetzt[em]――「...されている」という意味になってあとの Krückstock にかかっている――を、前後も含めて文字どおりに直訳しますと、「つねに注意深く aufsetzen されている撞木杖で」となりますね。原田訳も含めて、aufgesetzt[em] を「寄りかかられている」という感じで訳している訳もありますが、aufsetzen のここでの意味――「[ここでは地面に] 置く」ではないかと思われます――から考えますと、やはり「つかれた [杖]」という意味と解し、たとえば高橋義孝訳のように「いつも用心しいしいステッキを突いて」などと訳した方がよいのではないかと、私は思います。
英訳では、この部分は多種多様に訳されていて興味深いのですが、解釈は上記でほぼ間違いないと思われますし、詳しく取り上げていると長くなりますので、残念ですが断念します。♢→このときにはこうしていましたが、「連載の修正だより(5)」で、ここの英訳の一覧を付録にしましたので、この記事にも付録として追加しておきます。

◎(特に①と③)
①Nun aber war er recht gut aufgerichtet; in eine ②straffe blaue Uniform mit Goldknöpfen gekleidet, wie sie Diener ③der Bankinstitute tragen; über dem hohen steifen Kragen des Rockes ④entwickelte sich sein starkes Doppelkinn; unter den buschigen Augenbrauen drang der Blick der schwarzen Augen frisch und aufmerksam hervor; das ⑤sonst zerzauste weiße Haar war zu einer peinlich genauen, leuchtenden ⑥Scheitelfrisur niedergekämmt.
以前とちがって、今ではきちんと身体を起こして立っている。銀行の小使たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。上衣(うわぎ)の高くてぴんと張った襟(えり)の上には、力強い二重顎(あご)が拡(ひろ)がっている。毛深い眉(まゆ)の下では黒い両眼の視線が元気そうに注意深く射(さ)し出ている。ふだんはぼさぼさだった白髪はひどくきちんとてかてかな髪形になでつけている。

まず、ここ全体に関してですが、前の部分の延長として考えて、原田訳のように体験話法とみなして訳している訳と、そうでない訳とがあります。ここは前とは話が変わっていますし、冒頭の Nun aber war er recht gut aufge-richtet; ... はまだしも、ここからあとはそれほど緊迫感が強いとまでは言えないように思われますので、私は体験話法とは判断しませんでした。ですが、ここもどちらが正しいとは決められませんので、読者の好みで解釈してよいのではないかと思います。
この部分を体験話法と判断したと仮定して、直接話法にしますと、動詞の過去形を現在形にすればよいだけ――war → ist、entwickelte → entwickelt、drang → dringt――ですので、全文の書き換えは省略します。

①(体験話法でないとしてお話を進めますが:)この文の Nun aber ですが、nun も aber もここでは特殊な意味ではなく、「しかし今や」とか、過去形に厳密に合わせるのでしたら「しかしそのときには」といった感じで訳して構わないのではないかと、私は思います。
それから、今回の連載の最初の項目の②で取り扱った Das Mädchen war natürlich in ihrer Küche eingesperrt ... と同じく、この文も状態受動になっており、Das Mädchen war ... と全く同じ理由で、厳密にはちょっとおかしいですね。普通に読みますと、「しかしそのときには、彼は [だれかによって] とてもしゃんと立たされていた」のようになってしまいますが、ここでは父親はむしろ自分の意志でしゃんと立っていたのだと思われますから。この文もやはり再帰動詞を使って、Nun aber richtete er sich recht gut auf; ... と書くのが正しいと言えるでしょう。それでここも、なぜこのような書き方をしたのかと考えてみますと、 Das Mädchen war ... と同じように、
〔1〕「彼は、グレーゴルが働けなくなった今、自分がしっかりして働かなくてはという気力によって、しゃんと立たされていた」というニュアンスで言いたかった。
〔2〕再帰動詞が過去分詞になると、sich がなくなることがあるので、ここでは sich aufrichten を過去分詞の aufgerichtet としておいてから、war を加えて過去形の文にした。
〔3〕単に書き間違えた。
のいずれかと考えざるをえませんが、ここに関しても、はっきりおわかりになる方や、これら以外のご見解をお持ちの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。
邦訳では、普通の文とみなして過去形で訳しているか、体験話法とみなして現在形で訳しているかという違いはありますが、ほぼすべての訳が、内容的には原田訳のような感じで訳しており、状態受動として訳している訳はありませんでした。
一方で英訳では、かなりいろいろに訳されていますが、代表的なパターンの訳を1つずつあげるにとどめておきます。

But now he stood firm and erect; ... (Joyce Crick 訳)
But now he was standing there erect and in fine form, ... (Karen Reppin 訳)
Now, however, he was perfectly erect, ... (Stanley Appelbaum 訳)
♢But here he was, standing upright; … (Gildea 訳)
But now he he held himself quite upright, ... (Williams 訳)(岡上記:これと次の訳は再帰動詞風に訳していますね)
Now, however, he was holding himself very erect, ... (Stanley Corngold 訳)
Now, however, he was drawn up to his full height; ... (J. A. Underwood 訳)(岡上記:これと次の訳だけが受動態として訳しています)
Now, however, he was quite well erected; … (Robert Boettcher 訳)
ユニークと思われる訳は:
Now, on the other hand, he cut a fine, upright figure, ... (Malcolm Pasley 訳)
Now here he was, a fine, upstanding citizen, ... (Will Aaltonen 訳)
Now, however, he looked quite stately; ... (Fox 訳)

②の straff[e] は、辞書では「ピンと張った」という感じの意味が出ており、そのように訳しても勿論構いませんが、要はしわやたるみがなく、身体にぴったり合っているということを言っているのではないかと思われます。
邦訳では、「きちっと身体に合う」「きっちりした」☆「シワひとつない」「ピシッとした」「ぴったり [と] した」「ぴったりの」「ぴったりすぎる」「ぴったり合った」「ぴったりと身についた」「ぴっちり[と]した」「ぴんとのびた」「引きしまった」などとしています。
英訳では、tight、tight-fitting、tight fitting、tightly fitting、close-fitting、severe、smart、snug、taut、without a single crease としています。
③この der Bankinstitute(Bankinstitut の複数2格) に関しては、なぜ普通に der Banken と書かずにこのように書いたのか疑問に思いましたが、私はドイツの経済のことはわかりませんので、大変申し訳ありませんがご説明はできません。ご存知の方がおられましたら、ぜひご教示下さいましたら幸いに存じます。
邦訳ではすべてが「銀行」とだけ訳していますが、英訳はずいぶんいろいろありまして、bank や banks とだけしている訳もある一方で、a banking company、banking concerns、banking establishments、banking houses、a bank institute、the banking institute、banking institutions(前に the を付けている訳も)、a banking society♢、financial institutions としている訳もあります。
④(ここも体験話法でないとして過去形で訳しますが:)entwickelte sich は、直訳しますと「発達していた」という感じになりますが、日本語としてはもう一つですね。原田訳のような感じで、「広がっていた」としてもよいと思いますが、他の既訳では「盛り上がっていた」とか、「せり出していた」とかも、上手であると思いました。
⑤sonst には「以前に [は]」という意味もあり、この意味に解している訳も多いですし、それでも間違いでは決してありません。ただ、sonst がこの意味に使われることは少ないですから、ここでは「いつも [は]」とか、原田訳のように「ふだん [は]」とかいった意味に解してよいのではないかと、私は思います。
⑥Scheitelfrisur に関しては、Scheitel はここでは「頭髪の分け目」、Frisur はここでは「髪型」という意味であり、2つが合わさった形で「きっちり分けられた髪型」というくらいの意味になっているのではないかと考えられます。
もっとも、この語を前後の語句と合わせて訳しますと、たとえば丘沢静也(しずや)訳(「いつもボサボサの白髪が、くしで几帳面〔きちょうめん〕にぴったり分けられ、テカテカ光っている」)のように、「髪型」という語を出さない訳し方もできますし、邦訳ではこのように出さないで訳しているものの方が多いです。

なお、④と⑥に関しては、英訳でもここはいろいろなふうに訳されていて興味深いのですが、解釈が違っているということではありませんし、今回の連載は長くなっていますので、残念ですが取り上げることは断念します。

◎(特に②と③)
Er warf seine Mütze, auf der ein ①Goldmonogramm, wahrscheinlich das einer Bank, angebracht war, ②über das ganze Zimmer im Bogen auf das Kanapee hin und ging, ③die Enden seines langen Uniformrockes zurückgeschlagen, die Hände in den Hosentaschen, mit ④verbissenem Gesicht auf Gregor zu.
この父親はおそらく銀行のものだと思われる金モールの文字をつけた制帽を部屋いっぱいに弧(こ)を描かせてソファの上に投げ、長い制服の上衣のすそをはねのけ、両手をズボンのポケットに突っこんで、にがにがしい顔でグレゴールのほうへ歩んできた。

①Goldmonogram は、Gold と Monogram の合成語ですね。Gold はほぼ明確ですが、Monogramm はどのような意味でしょうか。たとえば、『郁文堂 独和辞典』を見ますと、「姓名などの頭文字を組み合わせて図案化した記号」と説明されています。
邦訳では、Gold は「金の」「金色の」「金モールの」としており、Mono-gramm は文字どおりの「モノグラム」のほかには、「文字」「飾り文字」「頭文字」「組み合わせ文字」「組み文字」「花文字」「イニシァル」「しるし」「マーク」としています。2つを合わせた形で、「金文字」「金モールじるし」としている訳もあります。このモノグラムが金のモールでできているのかどうかは、これだけではわかりませんが、訳としてはどの訳でも構わないと私は思います。
英訳では、[a] gold monogramm などと分けて訳されています。Gold の訳語は形容詞としての gold がほとんどですが、golden が少しと、gilded が2つだけあります。Monogramm は、ほとんどすべての訳がほぼそのまま mono-gram としていますが、insignia としている訳♢と、logo としている訳が1つずつあります。

②「ここでの über はどんな意味なのですか?」と問われますと、私も案外戸惑ってしまいますが、直訳的には「...を通って、...を横切って」という感じの意味と考えてよいのではないでしょうか。
邦訳では、「部屋ごしに」「部屋全体に」「部屋の中を飛ばせて」「部屋の端から端へ」「部屋を横切って」「部屋を横切り」「部屋じゅうを横切るように」「部屋全体を横切るような [弧を描いて]」としています。また、原田訳のように「部屋いっぱいに」とあっさり訳している訳も多いですが、これも案外上手ではありますね。それから、「奥にある [長椅子めがけて]」「奥の [ソファーめがけて]」☆「部屋の奥にある [ソファーの上へと]」「部屋の反対側の [ソファーめがけて]」「部屋の向こう側にあった [ソファーの上に]」「部屋の向こう隅にある [ソファーまで]」「居間の奥にある [ソファーめがけて]」のように意訳している訳もあります。
英訳ではほぼすべてが、前置詞としては across を使っており、across the room(across の前に ♢all the way や clear や right を入れている訳も)、across the entire room、♢across the full width of the room、across the whole room(across の前に right を入れている訳も)、across the length of the room のいずれかにしていますが、ただ1つ、Philipp Strazny 訳だけは、through the whole room としています。また、Joachim Neugroschel 訳は、前後も含めて ... , and pitching it(=his cap) in an arc the full length of the room over to the settee, ...(the full length of the room は「部屋の全長にわたって」という感じの意味で、副詞的に用いられていますね) としています。

③die Enden seines langen Uniformrockes zurückgeschlagen と die Hände in den Hosentaschen は、文法的には「絶対4格」と呼ばれていて、あとに haltend(現在分詞) を補って考えて、分詞構文のような感じで訳されます。
前者に関しては、zurückgeschlagen は過去分詞で受動的な意味になりますから、前記のように考えて直訳しますと、「長い制服の上着の端(つまり、すそ)を、後ろへはね上げられた(または、折り返された)状態に保ちながら」となりますね。ここも諸訳での訳し方の違いは興味深いのですが、長くなりますので深入りはせずにおきます。
後者に関しては、動詞が何もないので戸惑いますが、このような表現はドイツの文学作品では案外よく見られます。やはりあとに haltend を補って考えますが、これをどのように訳すかということになってきますね。
邦訳では「[両手をズボンのポケットに、以下同じ] 入れ」「入れたまま」「入れて」「入れながら」「突っ込み」☆「突っ込むと」「突っ込んで」「突っ込んだまま」としています。
英訳では、まず in 以下から先に見ておきますと、(Hosen を訳出せずに) in his pockets、in♢(または into) his trouser pockets、in his trousers pockets、in his pant pocket、in his pants pockets のいずれかにしています。全体としては、原文と全く同じく、動詞を入れずに his hands in ... とだけしているか、with (直後に his hands in ... が来ず、この間に別の句がはさまれていることもあります) his hands in ... としています。動詞を補っている訳としては、次のものがあります。

 ... to thrust his hands in his trouser pockets, … (Underwood 訳)
... , put(過去形) his hands in his trouser pockets, ... (Wyllie 訳)
... , and thrusting his hands in his trouser pocktes ... (Williams 訳)
... , thrust(過去形) his hands in his pockets, ... (Christopher Moncrieff 訳)
... ; hiding his arms in the pockets of his pants, ... (Fox 訳)
... by stuffing his hands deep into its(=of his uniform) pockets. (Miqhael-M. Khesapeake 訳)
♢… , his hands tucked(過去分詞形) into his trouser pockets, … (Mark Harman 訳)
♢… , [he] stuffed(過去形) his hands in his trouser pockets, … (Gildea 訳)

④この verbissen[em] の意味は明確ですが、いろいろに訳せますね。
邦訳では、「苦虫をかみつぶしたような」「苦りきった」「苦々しい」「苦々しげな」「怒りをこらえた引きつった」「不機嫌な」「不機嫌な憤(いきどお)った」「ふきげんにおこった」「もの凄(すご)い」としています。「もの凄い」はちょっと言い過ぎかと思われますが、あとはみな、上手に訳していますね。また、mit verbissenem Gesicht 全体で「しかめっつらをして」としている訳(菊池武弘訳)もあり、これも上手であると思いました。
英訳では、grim(あるいは、これに近い感じで grimly set) としている訳が非常に多いですが、♢dour、morose、sullen、determined、dogged、fierce、hostile、menacing としている訳もあります。ですが、私は英語にはあまり詳しくありませんが、♢dour と morose と sullen 以外の5語は、ここでのニュアンスとはちょっと違うのではないかと感じました。それから英訳では、Gesicht は文字どおり face としている訳が多いですが、air(ここでは名詞の look に近い意味)、expression、look、visage としている訳もあります。また、mit verbissenem Gesicht 全体で、簡単に grim-faced や scowling としたり、逆に少し凝って with a face distorted with anger (Fox 訳) としている訳もあります。

○①Er wußte wohl selbst nicht, was er vorhatte; ②immerhin hob er die Füße ungewöhnlich hoch, und Gregor staunte über die Riesengröße seiner Stiefelsohlen.
何をしようというのか、きっと自分でもわからないのだ。ともかく、両足をふだんとはちがうくらい高く上げた。グレゴールは彼の靴のかかとがひどく大きいことにびっくりしてしまった。

①のこの文を、原田訳のように体験話法的に訳している訳もかなりあります。ここは確かに、父親がグレーゴルに迫ってきていて緊迫した状況ではありますが、この文は単に父親の心の中を推測しているだけですし、この一文だけが体験話法と考えるのはちょっと唐突な感じもしますので、私は体験話法とは判断しませんでした。辻訳(「なにをするつもりなのかは、自分でわからないらしかった」)などのように、vorhatte は現在形のように訳しても、wußte は普通に過去形で訳してよいのではないでしょうか。
②この immerhin は、ほとんどの邦訳では(字句の微妙な違いはありましても)「ともかく」か「いずれにせよ」という感じで訳していますが、「けれども」「それでもとにかく」「それでも」としている訳もあります。
英訳では、♢all the same、and yet、but、♢but still、however、nevertheless、still のように逆接的に訳している訳がやや多いですが、at any rate、at all events、in any case のように「ともかく」という意味で訳している訳もあります。
immerhin には「それでも」という感じの逆接的な意味もありますが、ここでは「ともかく」でよいのではないかと私は思います。もっとも、どちらに訳しても意味がさほど大きく変わるわけではありませんが。

◎(特に①)
①Doch hielt er sich dabei nicht auf, er wußte ja ②noch vom ersten Tage seines neuen Lebens her, daß der Vater ihm gegenüber ③nur die größte Strenge für angebracht ansah.
だが、びっくりしたままではいられなかった。父親が自分に対してはただ最大のきびしさこそふさわしいのだと見なしているということを、彼は新しい生活が始った最初の日からよく知っていた。

①この Doch hielt er sich dabei nicht auf, … に関しては、私は原田訳のような意味であると信じて疑わなかったのですが、今回に諸訳を見てみましたところ、邦訳、英訳ともに、「その場にじっとしてはいなかった」という感じで訳している訳がいくつかありました。また、どっちつかずのような感じで訳している訳もありました。
ですが、原文から判断しますと、「その場にじっとしてはいなかった」という訳はやはり無理ではないかと、私は思います。辞書によりますと、sich bei(または mit) ... aufhalten で「...にかかずらう」とか、「...で手間取る」とかいった感じの意味になりますから。もっとも、sich bei ... aufhalten で、「...のところにとどまる」という意味にもならないことはないのですが、bei のあとには人しかきませんので、dabei とはなりません。ただし、さらに細かいことを言いますと、「da+前置詞」の形になった語の da の部分は、原則としては人ではなく物事しか意味しませんが、人を意味することもまれにはあります。ですが、これらの訳がこの dabei を bei dem Vater のように解釈していないことは明らかですし、そもそも dabei を「その場に」と解釈したこと自体、無理があると思います。「その場に」「そこに」と言いたかったのでしたら、dort などを使ったのではないでしょうか。
ただし、この dabei の da の部分を「驚いたこと」と解さずに、この前の内容全体と解して、「そんなことにかかずらわってはいなかった」という感じで訳している訳もいくつかありましたが、こちらはこれで間違っていないと思います。
英訳でも、ここはいろいろなふうに訳されていて興味深いのですが、長くなりますので、hielt ... sich dabei nicht auf の部分の訳を列挙するにとどめます。「その場にじっとしてはいなかった」という感じのものや、それ以外でも不適切と思われるものは除外します。♢did not allow this to distract him、didn’t dally for long、did not(またはdidn’t) dwell on this(または、that、it)、had no time to dwell on that、did not linger in doing so、didn’t linger in his amazement、did not linger on ♢this(または that point)、did not linger over this、at this point of his reflections [Gregor] lingered no more、did not ponder that any further、did not stop at this、wasted no time with that

②この noch は、邦訳、英訳ともに、訳出していない訳が大部分ですが、邦訳で「もう」、英訳で already としている訳もあります。ですがそうではなく、文字どおり「まだ [始まったばかりの最初の日のうちから]」という意味ではないかと、私は思います。なお、一部の英訳で、from the very first day of his new life などとしてこのニュアンスを出したとおぼしき訳があり、上手だなと感心しました。
③この nur は、これも文字どおり「[最大の厳しさ] だけ [をふさわしいとみなしていた]」という意味でしょうし、「最大の厳しさこそ」という感じで訳している訳もあります。また、山下肇訳は「もっぱら最大の厳格さをもってのぞむのを」としており、これも上手であると思いました。
また、größte は、これも文字どおり「最大の」と解しても、前に祭日の箇所でお話しした絶対最高級の「とても大きな」と解しても、どちらでも構わないと思いますが、ここではむしろ前者の方が自然かもしれませんね。邦訳、英訳ともに訳し方が分かれていますが、前者のような――「最大の」という感じの――訳し方をしている訳の方が多いです。

◎(特に①と②)
Und so ①lief er ②vor dem Vater her, stockte, wenn der Vater stehen blieb, und eilte schon wieder vorwärts, ③wenn sich der Vater nur rührte.
そこで父親から逃げ出して、父親が立ちどまると自分もとまり、父親が動くとまた急いで前へ逃(の)がれていった。(原田訳)
それで彼は父親の前を逃げて歩き、... (以下略、次以降も同じです)(辻訳)
そこで彼は父親の前を逃げまわった。(高安国世訳)
それで父親の前を逃げて走り、... (城山訳)
そこで、彼は父親の前を逃げ走って、... (立川〔たつかわ〕洋三訳)
そこで彼は、父の前へ前へと、ある程度の距離を保って走り、... (川村訳)そこでグレゴールは、父親の先に出て這って進み、... (山下肇・萬里訳)
そこで彼は、父に対して一定の距離を保つように逃げ、,,, (浅井訳)
だから、彼は間合いを取るように父親が動くに連れて同じように動いた。(野村廣之訳)
そのため、彼は父親の前を逃げ回り、... (真鍋訳)

①この lief(laufen の過去形) を、「走った」という感じで訳している訳も多いのですが、私としましては「走った」と訳さない方がよいのではないかと思います。laufen の一般的な意味は勿論「走る」ですが、「歩く」「進む」という意味もありますし、――eilte(急いだ) ともありますので迷うところでもありますが――あとの方では ohne daß das Ganze infolge seines langsamen Tempos den Anschein einer Verfolgung gehabt hätte(そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった〔原田訳〕) という表現も出てきていますから。上記の訳例の中にも、「走った」としていない訳がいくつかありますね。
英訳では、ran(ran away や ran on もあります) としている訳が多いですが、fled、hurried away、scampered、scooted away、scurried、scurried along、scurried away、scurried off、scuttled、began to beat a retreat もあります。英訳では、 fled 以外はすべて、ran に近いニュアンスを含んでいますね。
なお、このあとの箇所の訳例の中でも、Lauf や Laufen を「走る[こと]」という感じで訳している訳がかなりありますが、それらに関しては特に指摘はいたしません。

②この vor dem Vater her は「父親の前を[逃げた]」という意味になります。neben ... her や、hinter ... her や、vor ... her は、2つのものがほぼ等しい距離を保ちながら移動することを意味します。ですから、上記の訳例の高安訳以下のように訳した方がよいでしょうし、川村訳や浅井訳や野村訳のように、このニュアンスをわざわざ説明して下さっているような訳もありますね。なお、既訳で「父親の前へ逃げた」とか「父親の前から逃げた」のような感じにしている訳もありますが、vor ... her の訳としては不適切ではないかと私は思います。
英訳では、ahead of his♢(または the) father か、before his father か、 in front of his father としている訳が多いですが、ahead of ... が一番ニュアンスが近いですね。from his father、up to his father としている訳もありますが、やはり不適切と思います。また、before his father’s approach、from his father’s advance(この場合には from を使っても構わないと思います)、in the face of his father’s advance のようにして、ニュアンスを出そうとしている訳もあります。
それでこの語法は、このあとのある箇所でも非常に重要になってきますから、よくご注目いただけましたらと思います。ご参考までに、カフカ以外の文例も少し上げておきます。

岩崎英二郎・小野寺和夫『ドイツ語不変化詞辞典』(白水社)の p.274(記号的なものの表記の仕方は若干変更しました。また、文例を1つ省略しました)
hinter etw.(3格) her, vor etw.(3格) her, neben etw.(3格) herなどの形で用いられて, 2個の対象が前後, あるいは左右に, ほぼ等しい間隔を保ちつつ移動する関係を示す:Sie ging neben mir her. 彼女は私と肩を並べて歩いた. / Er schob den Karren vor sich her. 彼は手押し車を押して行った. / Ich lief hinter dem Bus her und sprang im letzten Moment noch auf. 私はバスのあとを追いかけ, 最後の瞬間に飛び乗った. / Die Polizei ist hinter dem Täter her. 警察は犯人を追跡中である.

Er war aus seiner Wohnung fortgelaufen, um unter Menschen zu kommen, er wollte sich vor Gott verstecken. Aber Gott war hinter ihm her. (Georg Heym: Der Dieb〔泥棒〕)
かれは家から走り出し, 人ごみの中へまぎれ込んだ。神の前から姿を隠したかったのだ。しかし神はかれのあとについていた。(山本尤〔ゆう〕訳)
家をとびだし、 人ごみにまぎれこんだ。神の前から身を隠そうとした。しかし、神はあとをつけてきた。(本郷義武訳)

Ein Stoß Raben flog über sie vor dem Winde her, den Städten zu. (Georg Heym: Der fünfte Oktober〔十月五日〕)
一群の鴉(からす)が、風に追われながら、かれらの頭上を街のほうへ飛びすぎていった。(本郷義武訳)(岡上記:sie は街の人々のことを言っており、このとき彼らは街の外に出ていました。vor dem Winde her を直訳しますと、「風の前を進んで」のようになりますね)

③wenn sich der Vater nur rührte には nur が入っていますから、直訳しますと「父親がただ動いただけのたびに」となり、意訳しますと「父親が少しでも動けば [そのたびに]」のような感じになりますね。
なお、「父親がちょっと動いても」という感じで訳している邦訳も2つありますが、これでも意味は通りますので、間違いではないと思います。

♧(2026年4月28日加筆修正:wenn sich der Vater nur rührte の英訳)

英訳では、多くの訳で wenn を when や if と訳していますが、when や if にはもともと、文字どおりの意味と、even if の意味とがありますから、どちらの意味に解したのかは判断できません。なお、近年の訳では as soon as としているものが多く、これらの訳では even if とは解していませんね。
nur に関しては、訳出していない訳も少なくありませんが、訳出している訳では、moved または stirred の前に、even や、merely や、only や、so much as を入れて、この意味を出しています。また、これらの語句を入れずに、budged(原形の budge は「ちょっと動く」という感じの意味) を使っている訳もあります。
それから、made the slightest move(または movement) としている訳も――the の前にさらに even を入れている訳も――あります。英語の形容詞の最上級は「どれほど...な~でも(~の部分には名詞がきます)」という意味になることがありますね。
さらには、at his father’s slightest move(または movement) と、前置詞を使って訳している訳もあります。ここでの at は「...を見て」という意味と思われますから、これらの訳は、逐語訳的には「父親のどれほどわずかな動きでも、それを見ると」という感じになりますね。
これら以外では、whenever his father moved, however slightly とか、if(または when) his father made any kind of move としている訳もあります。
(加筆修正終わり)

○So machten sie mehrmals die Runde um das Zimmer, ohne daß sich etwas Entscheidendes ereignete, ja ohne daß ①das Ganze infolge seines langsamen Tempos den Anschein einer ②Verfolgung gehabt hätte.
こうして二人は何度か部屋をぐるぐる廻ったが、何も決定的なことは起こらないし、その上、そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった。

①das Ganze は文字どおり、「全体」という意味ですが、「全体」という語はいかにも翻訳的であるということであまり好まない訳者もいまして、あえて全く訳出していない邦訳もいくつかあります。ほかの訳し方としては、「いっさいは」「すべてが」「そのすべてが」「総じて」「だいたい」があります。
英訳では、the whole(1つだけは entire) thing としている訳が多いですが、the whole business(ここでは「仕事」という意味ではなく、thing に近い意味と思われますが)、the whole movement、the whole operation、the whole performance、the whole process としている訳もあり、いろいろな名詞が使われているのは興味深いですね。このほかには、everything、♢the slow pace、their movements、their race、their(または this) interaction、♢this whole affair としている訳や、単に it や this とだけしている訳もあります。
②Verfolgung には「追跡」のほかに「迫害」という意味もあり、この意味に解している訳が、邦訳で1つ(中井正文訳)、英訳で2つだけ(いずれも、前の語句も含めて記しますと the appearance of a persecution と訳しています)ありました。このニュアンスも含んでいるのかもしれませんので、間違いでは決してありませんが、ここでは動いているペースが主眼になっていますから、「追跡」と解してよいのではないかと私は思います。

◎(特に①)
Deshalb ①blieb ②auch Gregor vorläufig ①auf dem Fußboden, zumal er fürchtete, der Vater könnte eine Flucht auf die Wände oder den Plafond für besondere Bosheit halten.
そこでグレゴールも今のところは床の上にいた。とくに彼は、壁や天井へ逃げたら父親がかくべつの悪意を受け取るだろう、と恐れたのだった。(原田訳)
(以下、訳の引用は Deshalb blieb auch Gregor vorläufig auf dem Fußboden の部分のみとします)
だから、グレゴールも、さしあたり床のうえを走るだけにとどめていた。(片岡啓治訳)
そのため、グレーゴルもさしあたって床の上ばかり這っていた。(立川訳)グレゴールはとりあえず動くのは床の上だけにしていた。(多和田葉子訳)
...グレゴールも、さしあたり床の上を這いつづけた。(山下肇・萬里訳)
For this reason Gregor remained at floor level for the time being, ... (Susan Bernofsky 訳)
♢… , he had restricted his movements to the floor―… (Lundberg 訳)

①blieb ... auf dem Fußboden は、私は最初、床の特定の場所にとどまっていたという意味かなと思っていました。ここは多くの邦訳では、原田訳のようにか、あるいは「床の上にとどまっていた」とか「床の上を離れなかった」とかいった感じで訳していますし、また多くの英訳では、remained on the floor か stayed on the floor か kept to the floor と訳しています。
ですが、ここではこのような意味ではなく、床の上だけで父の前を逃げることにしたという意味ですね。上記の訳例の片岡訳以下は、この点を明確にしています。もっとも、前段であげた諸訳の訳者も、あるいはこのように解していたのかもしれませんが、これらの訳文では必ずしもそうとは受け取られませんね。
②この auch は「...も」という普通の意味であり、「父親だけでなくグレーゴルも」ということを言っていると考えてよいと、私は思います。

○①Allerdings mußte ②sich Gregor ②sagen, daß er sogar dieses Laufen nicht lange aushalten würde; ③denn während der Vater einen Schritt machte, mußte er eine Unzahl von Bewegungen ausführen.
とはいえ、こうやって走り廻ることも長くはつづかないだろう、と自分にいって聞かせないではいられなかった。というのは、父親が一歩で進むところを、彼は数限りない動作で進んでいかなければならないのだ。

①allerdings がまた出てきましたが、ここの前の内容――父に追いかけられていたが、それほど速いペースではなかったので、さしあたりは床の上だけで父の前を逃げていた――から考えますと、ここでもやはり、「もちろん」と言うよりも、原田訳のような意味に解した方がよいのではないかと、私は思います。

②sich(3格) sagen に関しては第18回で取り上げましたが、必要と思われる部分をここに引用しておきます。

sich(3格) sagen には、おおよそ、「自分に言い聞かせる、自分に納得させる」「一人言を言う、つぶやく」「思う、考える」といった複数の意味があり、どれが正しいとは決められないことも少なくありません。その場の雰囲気からして不自然でなければ、訳者の好みで訳して構わないと思います。

ここでも全く同じことが言えると思いますが、せっかくですから、諸訳がどのように訳しているかを見てみましょう。mußte は無視した形で示します。邦訳では、「思う」「考える」「自分に言い聞かせる」「自分に言って聞かせる」「自分に言う」「つぶやく」「認める」、英訳では、admit、admit to himself、tell himself、keep telling himself、realize としています。また、英訳では mußte sich ... sagen をまとめて考えて、knew、was aware、was conscious of the fact としている訳もあります。

③この denn 以下は、体験話法とも、――語順は daß につながる形にはなっておらず、普通の文の語順になっていますが――前の mußte sich ... sagen の内容の続きとも、地の文(語り手が普通に語っている文)とも解せますね。私としましては、このあたりは確かに深刻な状況を言ってはいますが、denn 以下だけが体験話法になるのはちょっと唐突な感じがしますし、; でこの前とはいったん切れたような形になっていますので、地の文と解してよいのではないかと思います。ですが、どれが正解であるとは断言できないとも思いますので、読者の好みで解釈してよいのではないでしょうか。
ここもご参考までに、この部分を体験話法と判断したと仮定して、直接話法で書いてみますと、denn während der Vater einen Schritt macht, muß(今のドイツ語の書き方では muss) ich er eine Unzahl von Bewegungen ausführen. となります。


Atemnot begann sich schon bemerkbar zu machen, wie er ja auch in seiner früheren Zeit keine ganz vertrauenswürdige Lunge besessen hatte.
息切れが早くもはっきりと表われ始めた。以前にもそれほど信頼の置ける肺をもっていたわけではなかった。(原田訳)
もう息切れもはじまりかけていた。それでなくてさえ、肺のほうは、もともとそう丈夫ではなかったのだから。(片岡訳)
もともと頼りにならない肺をもって生まれたのですぐに息切れがしてきた。(多和田訳)
♢It was fast becoming apparent that Gregor was growing short on breath, just as he had always had trouble with his lungs, this had been a major weak point right from the start. (Lundberg 訳)
♢Already, he was beginning to feel short of breath, just as in earlier days, when his lungs had been none too reliable. (私の判断で『変身』の英訳リストには入れていない某訳)

この wie 以下ですが、邦訳では、原田訳のように独立した文のように訳したり、「...ではなかったのだが」という感じで終わらせたりしている訳がほとんどです。これでも意味は十分に通りますから、間違いと言うつもりは決してありませんが、この wie は接続詞ですから、それなりの意味を出したいような気もしますね。
接続詞の wie と ja や doch や denn が一緒に使われますと、独特なニュアンスを持ちます。簡潔に、しかもわかりやすく記すことはなかなか難しいのですが、その前の文と同じような例をあげて、前の文の理由づけをしたり、前の文と同じだと言ったりします。とは言いましても、これだけではやはりわかりにくいでしょうから、カフカ以外の文例とその邦訳で見てみましょう。

Allein das Meer schlief nicht, wie diese Briten meinten, sondern es schwieg nur, wie ja auch Gott nur schweigt, wenn er zu schlafen scheint――und wenn Gott lange schweigt, dann will er reden. (Gertrud von le Fort: Das Gericht des Meeres〔海の法廷〕)
しかし、海は、イギリス人たちが考えたように、眠っているのではなかった。海は沈黙しているだけだった――ちょうど神も、眠っているようにみえるとき、じつは沈黙しているにすぎないように。そして、神がながく黙しているときは、やがて語り出そうとするときである。(前田敬作訳)
神も眠っているようにみえるとき、じつは沈黙しているにすぎないのだから。(前田敬作、教科書版の注釈、訳はこの部分だけです)

Die Tage sind herumgegangen, wie ja zuletzt alle Tage unseres Lebens herumgehen. (Werner Bergengruen: Der Turmbau〔塔の建築〕)
三日間は過ぎていきました。わたしたちの生涯のすべての日はやがては巡ってくるようにね。(野島正城〔まさなり〕訳)
それらの日々は、めぐりました。だって、わたしたちの人生のすべての日々は、結局めぐるしかほかないのですから。(前田敬作訳)
日がたちました。何といっても、この世も月日に関守(せきもり)はありませんから。(永野藤夫訳)

それで、カフカの文に戻りますと、邦訳では、訳例としてあげた2つが、wie ... ja を理由として訳しているだけで、「...ように」としている訳はありませんでした。英訳では、 as を使っている訳がいくつかありますが、as にも「...のように」という意味と「...なので」という意味とがありますから、どちらの意味と解しているのかは明確ではありません。♢ただ、今回に追記した2つの英訳だけは、はっきり「…のように」という意味を出しています。

◎(特に②と③)
Als er ①nun so ②dahintorkelte, ③um alle Kräfte für den Lauf zu sammeln, kaum die Augen offenhielt; ...
こうして全力をふるって走ろうとしてよろよろはい廻って、両眼もほとんど開けていなかった。(原田訳)
走るのに全力を集中するため、いまはヨロヨロとよろけながら、ほとんど目も開けておられず、...(三原弟平〔おとひら〕訳)
さてこうしてよろめき走り、走ることに全力を集中するために、目もほとんどあけていず、... (辻訳)

①この nun は特別な意味ではなく、「今」(過去形に厳密に合わせるのでしたら「そのとき」)という普通の意味と考えてよいと私は思いますし、辻訳のように、ちょっと話題を変えるような感じで、「さて」などと訳しても構わないとも思います。もともとそれほど深い意味があるわけではありませんから。

②この dahintorkeln という分離動詞は、このままの形では辞書に載っていませんから、前半の dahin の意味が torkeln に加わっていると考えて、意味を推測せざるをえません。ここでの dahin の意味として候補に上げられるのは、私が思いつく範囲では、次の3つになります。
〔1〕向こうへ去って:つまりは、父親から逃げて。
〔2〕あまり考えずに漫然と:dahin にはこのような意味もあるようでして、ここでは「...し回る」という感じで訳せそうですね。
〔3〕「...に向けて」という感じの意味で目標を表しており、あとの um ... zu ... の内容を受けている。
私は〔1〕かなと思いましたが、自信があるわけではなく、断言することはできません。
邦訳では、高安訳が「よろよろと前に出」、原田訳が「よろよろはい廻って」、片岡訳が「よろめきまわって」とし、いくつかの訳が「よろめいて進む」のような感じにしている程度で、明確に訳出している訳はあまり多くはありませんでした。
英訳では、過去形にしている訳も過去進行形にしている訳もありますが、動詞の原形の形で示しますと、stagger along、stagger forward、stagger about、stagger around、stagger round、stagger on、go staggering on、lurch about、lurch along、teerter along、drag his feet としています。

③次に、um alle Kräfte für den Lauf zu sammeln は、前の nun so dahin-torkelte にかかっているのでしょうか、あるいは、あとの kaum die Augen offenhielt にかかっているのでしょうか。実は邦訳でも英訳でも、この点の解釈は分かれています。
um ... zu ... が文中で用いられた場合には、普通は前の語句にかかることが多いのですが、ここではどうも意味が合わない感じがしませんでしょうか。
このように解している邦訳でも「...ために」と訳してはおかしいと思ってか、「全力を集中しようと思いながら」などと変えてしまっている訳がほとんとで、三原訳だけが「...ために」と訳しています。もっとも、「走る力を集めるために、今はいわば力を温存しておくべく、よろよろと進んでいた」と考えれば、成り立たないことはないかもしれませんが。
ですが、かと言って、あとの kaum die Augen offenhielt にかかっていると考えたとしても、全力を集中させるためであったのならば、このような感じではなくて目をしっかりつぶるのではないかとも言えそうですね。

このようなわけで、ここの②③に関しては、どのような解釈が正しいのか、申し訳ありませんが私も断定することができません。はっきりおわかりになる方がおられましたら、ぜひご教示をいただけましたら幸いです。

○... ; in seiner Stumpfheit an eine andere Rettung als durch Laufen gar nicht dachte; ...
愚(おろ)かにも走る以外に逃げられる方法は全然考えなかった。(原田訳)頭がぼんやりして、いまはめくらめっぽうに走り回る以外には自分が助ける道を考えつけない。(中井訳)
感覚も鈍ってしまって、走ってわが身を救う以外の手立てはまったく考えもせず、... (浅井訳)

この in seiner Stumpheit に関しては、邦訳、英訳ともに、原田訳のような感じの訳し方と、中井訳や浅井訳のような感じの訳し方とに分かれています。Stumpfheit は、形容詞 stumpf の名詞形ですね。stumpf のメインの意味は「鈍い」ですが、「うつろな」「ぼんやりした」という意味や、「愚かな」という意味もあります。ですから、原田訳のような訳が絶対に間違いとは言えないのですが、この場合の in は「...の状態で」という意味と思われますから、中井訳や浅井訳のように解した方がやはり自然であり、「愚かにも」と言うのは少し無理ではないかと私は思います。

◎(特に①)
... ; und fast schon vergessen hatte, daß ihm die Wände freistanden, die ①hier ②allerdings mit sorgfältig geschnitzten Möbeln voll Zacken und Spitzen verstellt waren – ...
四方の壁が自分には自由に歩けるのだということも、もうほとんど忘れてしまっていた。とはいっても、壁はぎざぎざやとがったところがたくさんある念入りに彫刻された家具でさえぎられていた。――...(原田訳)
確かにこの居間の壁際(かべぎわ)に置かれていた家具には、念入りに彫刻が施されていたので、ぎざぎざや尖(とが)った部分がたくさんありはしたが、それでも壁を自由に這い回ることができる自分には壁という逃げ道が残されているのだ、ということをもうほとんど忘れてしまっていた。(野村訳)
... 、ギザギザやトゲトゲだらけの細かい彫刻が施された家具がそこかしこで道をふさいでいるとはいえ、壁に逃げたければ逃げればいいことすら忘れかけていたころ――...(川島訳)

①この hier はここの部屋のことを言っているのでしょうが、実を申しますと、私はこれまでこの hier を、「グレーゴルが今いたところでは」という意味と解していました。つまり、壁もおおむねは自由に這い回れるのだが、たまたま今いた所はこんなであったというふうに。このように解している訳も、わずかですがあります。ですが、よく考えてみますと、この文の主語である「壁」(関係代名詞の die(=die Wände)) は複数形になっていますから、やはり不自然かなと思い直しました。このような意味で言いたいのでしたら、単数形になりそうですから。英訳では、この hier を訳出していない訳や、単に here としかしていない訳も多いのですが、はっきり in this room としている訳も案外多くあります。
とは言え、壁を「自由に歩ける」と言っていながら、次に「家具でさえぎられていた」と言いますと、ちょっと矛盾しているようにも感じられますね。ほぼ全部の壁がそのような状況でしたら、壁を「自由に歩ける」とは、どう考えても言えませんから。この点に関しては原文自体もどうも明確でなく、問題がありますね。野村訳や川島訳では、この点を考えてでしょうか、上記のように言葉を足して、一応は矛盾が感じられないようにしています。

②またまた allerdings が出てきましたが、家具が彼の動きの邪魔になっていたという話はこれまでにも出ていましたが、家具にこのようなギザギザなどがあったという話は出ていなかったと思いますので、ここでも「もちろん」と訳すのではなしに、原田訳などのように訳した方がよいのではないかと、私は思います。

なお、この文も、邦訳、英訳ともに、いろいろな訳し方があって興味深いのですが、hier と allerdings を別とすれば解釈に大きな違いはありませんし、長くなりますので、詳しく取り上げることは断念します。

♧(2026年1月24日加筆修正:父親がグレーゴルにリンゴを投げたシーン)


... – da flog knapp neben ihm, leicht geschleudert, irgend etwas nieder und rollte vor ihm her.
... ――そのとき、彼のすぐそばに、何かがやんわりと投げられて落ちてきて、ごろごろところがった。(原田訳)
...――するとそのとき、何かが彼のからだすれすれに投げつけられ、目の前に落ちて転がった。(山下肇・萬里訳)
...――そのとき、からだすれすれに、なにかがポンと投げられ、飛んで落ちて、グレーゴルの前に転がった。(丘沢訳)
...――ちょうどそのとき、弱い力で投げられた何かが彼のすぐそばをかすめて、目の前に転がった。(真鍋訳)
その時、何かがグレゴールのすぐ側(そば)をかすめて飛んでいって床に落ちてころがった。(多和田訳)
そのとき、何か軽く投げられた物が彼の体をかすめて飛んできて下に落ち、目の前に転がった。(田中一郎訳)
☆グレゴールのわきを、軽くほられた(=放り投げられた)何かがヒュッとかすめて飛んだ。それは落ちるとグレゴールの前を転がった。(西田訳)
☆身体のすぐ横を、何かぽいと放り投げられたものが通り過ぎ、目の前に落ちて、さらにごろごろと転がっていった。(頭木弘樹さん訳)
...―something flew by, lightly flung, and rolled forward. (Peter Wortsman 訳)
Suddenly something flew sharply by him, fell to the ground, and rolled away. (Lloyd 訳)
...―something that had been lightly tossed flew right by him and rolled in front of him on the floor. (Appelbaum 訳)
... , when something small that had been lightly tossed flew close beside and rolled in front of him. (Roberts 訳)
...―suddenly something flew past him, something lightly tossed, and rolled in front of him. (Reppin 訳)
...―an object, that had been lightly thrown, suddenly flew right past him, hit the floor and rolled in front of him. (Richard Stokes 訳)
Then something tossed lightly flew past him, came to the floor, and rolled in front of him―... (C. Wade Naney 訳)
...―then something flew gently past his head, landed on the floor and rolled in front of him. (Moncrieff 訳)
...―suddenly something came sailing past him, some object lightly tossed; it landed on the floor and rolled away in front of him. (Pasley 訳)
...—something whizzed past him, something had been hurled at him, something now rolling around on the floor in front of him. (Michael Hofmann 訳)
Suddenly something whizzed past him, fell to the ground and rolled away. (Aaltonen 訳)

ここに関しては、原田訳は少しあいまいですが、「何かが彼のとなりに落ちて、それから彼の前の方にころがって行った」という感じで訳している訳がかなり多いです。ですがこれは、語学的には成り立たないと私は思います。
まず nieder までの部分から考えてみます。「彼のとなりに落ちた」のでしたら、neben は3・4格支配の前置詞ですから、運動の方向を表す場合には4格支配となり、neben ihn とならなくてはいけません。ですから、この場合には「彼のすぐとなりで [彼を追い越しながら] 下に向かって飛び、それから彼の前に落ちた」と考えるべきでしょう。
次に、rollte vor ihm her ですが、これだけを見ますと、2つの可能性が考えられます。
〔1〕her(こちらへ) を分離動詞 herrollen の前綴(つづ)りと解しますと、「彼の前でこちらへころがってきた」という意味になり、詳しく言いますと「彼の前方にあったものが、彼の目の前で彼の方へころがってきた」となりますね。
〔2〕前にお話ししたように、vor ... her という言い方もありますから、このように考えますと、「彼の前を、彼と同じく、前に移動していた」という意味になります。従ってここでは、「進んでいる彼の目の前で、いわば彼に追われるような感じで前方に転がっていた」という感じの意味になりますね。
文法的にはどちらとも解せますが、動きとしましては、彼の前方に落ちて、落ちてきたのとは反対の彼の側にころがったと考えるよりも、引き続き前方にころがっていた(すなわち〔2〕)と考えた方が自然ですね。もっとも、私は物理学的なことはわかりませんが、落ちてきたのとは反対側にころがるという動きが、断じてないとまでは言い切れませんから、たとえば野村訳(「そのとき、軽く投げつけられた何かが飛んできて、グレーゴルの身体のすぐそばをすり抜けるようにして床に落ちて、彼の前に転がってきた」)のように考えても、絶対に間違いとは言い切れません。
邦訳では山下肇・萬里訳以下が、英訳ではここにあげた諸訳が、一応正しく訳しているのではないかと思います。ただ、これらの邦訳のうちで、「[目の、またはグレーゴルの] 前に転がった」ですと、「[目の、またはグレーゴルの] 前に転がってきた」という意味とも受け取れますから、この点はちょっととも思いますが。西田訳と頭木さんの新訳は、ここの意味を非常に適確に表していると思います。
なお、「多くの既訳のような意味になるのならば、『彼のとなりへ (neben ihn) 落ちた』と4格支配にならなくてはいけない」と記しましたが、「それでは『彼のとなりで (neben ihm) 落ちた』と考えたらどうか?」という考え方も出てくるかもしれません。ですが、これもやはり成り立たないのではないかと思います。ここだけで見ればこれは成り立つかもしれませんが、あとの rollte vor ihm her は、上記のいずれかの意味にしかなりませんから、「彼のとなりに(または、となりで)落ちて、それから彼の前の方にころがって行った」という意味には、どう考えてもなりません。このように言いたいのでしたら、それこそ vor も運動の方向を表す4格支配にならなくてはならず、rollte vor ihn とか、(her ではなく、「向こうへ」という意味の hin を入れて)rollte vor ihn hin とならなくてはいけないと思います。
ただ、カフカの文章では、「語学的にはその解釈が正しいが、そう読むとそこの状況からして不自然」という場合も時々ありますから、今回私が違うと判断した訳が、100%絶対に間違いであるとまでは断言できないかもしれません。とは言えこの場合には、語学的に正しい解釈が状況からしておかしいということはないように思われますので、これでよいのではないでしょうか。ですが、私が考えつかなかったような見解もありうるかもしれませんので、ご意見がおありの方がおられましたら、ぜひお寄せ下さいましたら幸いです。
(加筆修正終わり)

◎(特に②)
Aus der Obstschale auf der Kredenz hatte er sich die Taschen gefüllt und warf nun, ohne vorläufig scharf zu zielen, Apfel für Apfel. Diese kleinen roten Äpfel rollten ①wie elektrisiert auf dem Boden herum und stießen aneinander. Ein schwach geworfener Apfel ②streifte Gregors Rücken, glitt aber unschädlich ab. Ein ihm sofort nachfliegender drang dagegen ③förmlich in Gregors Rücken ein; ...
食器台の上の果物皿からリンゴを取ってポケットにいっぱいつめ、今のところはそうきちんと狙(ねら)いをつけずにリンゴをつぎつぎに投げてくる。これらの小さな赤いリンゴは、まるで電気にかけられたように床の上をころげ廻り、ぶつかり合った。やわらかに投げられた一つのリンゴがグレゴールの背中をかすめたが、別に彼の身体を傷つけもしないで滑り落ちた。ところが、すぐそのあとから飛んできたのがまさにグレゴールの背中にめりこんだ。 

①の wie elektrisiert ですが、原田訳☆や本田雅也訳(「まるで帯電したかのように」)のように、あるいは「電気仕掛けのように」という感じで訳している訳と、「感電したように」とか、「電気にはじかれたように」とか、「電気ショックを与えられたかのように」と訳している訳とがあります。elektrisiert はどちらの意味にもなりますから、どの訳も間違いではありませんが、後者の訳のように感電したり、電気ショックを与えられたりしたら、単にころげ回るだけでは済まないような感じもします。「電気仕掛けのように」という訳が、一番わかりやすくて良いのではないでしょうか。もっとも、これは私の主観的な考えかもしれませんが。
英訳では、as if(または though) electrified か as if they were electrified としている訳がほとんどで、ほかには as if electrically charged、as if they were charged with electricity、as if galvanized、as if magnetized、as if they had electric motors(これは面白い訳ですね)、♢as if they were motorised、as though they were self-propelled (この2つはちょっと飛躍していますね) が1つずつあります。

♧(2026年1月24日加筆修正:streifte の訳)

②の streifte に関しては、ほとんどの邦訳では「[グレーゴルの背中を] かすめた」と訳しています。例外として、高橋訳では「[背中を] かすったが」、山下肇・萬里訳では「[グレゴールの背中を] かすり」としています。ですが、「かすめる」も「かする」も、国語辞典では「軽く触れて通り過ぎる」「すれすれに通り過ぎる」などとなっており、あとの「滑り落ちた」とはちょっと合わないのではないかと、私は感じます。英訳でもほとんどが「かすめる」という語(graze や glance off など)を使っています。
streifen には「かすめる」という感じの意味も確かにありますが、基本的な意味は「軽くふれる」ですね。私でしたら、「背中に軽く当たった [が]」としたい感じがします。☆西田訳では「グレゴールの背中に命中した [けど傷にはならんと転げ落ちた]」、Lloyd 訳では struck Gregor’s back、Fox 訳では touched upon Gregor’s back、♢Gildea 訳では  hit Gregor's back としています。
(加筆修正終わり)

③の förmlich は訳しにくい語の1つです。邦訳では、「文字どおり」が多いですが、ちょっと直訳的かもしれませんね。「たしかに」「まさしく」「まさに」もありますが、やはり直訳的かなと思います。「きっちり」「ぐさっと」「ぐさりと」「したたか」「びしりと」「まともに」「もろに」としている訳もあり、これらの方が日本語らしい感じがしますね。「あやまたず」☆「見事」はちょっとニュアンスが違うかなとも思いますが、訳としては上手ですね。
英訳では、邦訳の「文字どおり」にあたる literally のほかに、actually(これもわりあい多いです)、♢deep and hard、deeply、firmly、positively、really hard(副詞)、right(副詞)、♢essentially right(副詞)、square(副詞)、squarely もあります。

○... ; Gregor wollte sich weiterschleppen, als könne der überraschende unglaubliche Schmerz mit dem Ortswechsel vergehen; doch fühlte er sich wie festgenagelt und streckte sich in vollständiger Verwirrung aller Sinne.
突然の信じられない痛みは場所を変えることで消えるだろうとでもいうように、グレゴールは身体を前へひきずっていこうとしたが、まるで釘(くぎ)づけにされたように感じられ、五感が完全に混乱してのびてしまった。

 sich strecken には「体を伸ばす」「寝そべる」「横たわる」などの意味がありますが、ここでは状況から言って、原田訳のような訳が良いと思われますね。他の邦訳では、「のびてしまった」の前に、「その場に」「ながながと」「べったり」「へなへなと」などの語を加えている訳もありますし、「動けなくなってしまった」「体がだらんと伸びた」「そのままつっぷしてしまった」「床へぶっ倒れてしまった」「その場にへたりこんでしまった」「その場に横たわっているしかなかった」としている訳もあります。

○Nur mit dem letzten Blick sah er noch, ①wie die Tür seines Zimmers aufgerissen wurde, und ②vor der schreienden Schwester die Mutter hervoreilte, im Hemd, denn die Schwester hatte sie entkleidet, um ihr in der Ohnmacht Atemfreiheit zu verschaffen, ...
だんだんかすんでいく最後の視線で、自分の部屋が開き、叫んでいる妹の前に母親が走り出てきた。下着姿だった。妹が、気絶している母親に呼吸を楽にしてやろうとして、服を脱がせたのだった。

①説明の都合上、区切って示していますが、ここから最後までは1つの文になっており、wie で始まっている3つの副文――直訳的には「...している様子を」となりますが、このような場合には wie を daß(今の書き方では dass) とほぼ同義とみなして、「...しているということを」と考えても構いません――が、sah の目的語になっています。
②vor der schreienden Schwester die Mutter hervoreilte を原田訳のように訳している邦訳も多いのですが、このような意味になるのでしたら、前置詞の vor は運動の方向を表す4格支配となって、vor die schreiende Schwester とならなくてはいけないと思います。ここでの vor は、「...よりも先に」という意味であり、「叫んでいる妹より先に(丘沢訳)」「何かわめいている妹より先に(浅井訳)」「叫んで追いすがる妹をうしろに(高安訳)」「悲鳴をあげている妹を振りきって(池内訳:これは上手ですね)」「叫ぶ妹を押しのけて(真鍋訳:ここまで言っていいのかはちょっと微妙ですが)」「けたたましい金切り声をあげている妹を [母親が] 早足で追い越してくる(川島訳:この訳も状況がよくわかりますから良いと思います)」などのように訳すべきでしょう。
英訳では、ahead of / before / in front of his(または the) screaming sister としている訳が多いですが、ahead of ... が一番感じが出ていますね。ほかにも、followed♢(または pursued) by his screaming sister、past his shrieking sister、with his screaming sister following hot on her(=of his mother) heels のように意訳している訳もあります。

◎(特に②と③)
... , wie dann die Mutter auf den Vater zulief und ①ihr auf dem Weg die ②aufgebundenen ③Röcke einer nach dem anderen ④zu Boden glitten, ...
母親は父親をめがけて走りよった。その途中、とめ金をはずしたスカートなどがつぎつぎに床にすべり落ちた。

①この ihr は、「所有の3格」として Röcke(この訳語はあとの③で検討します) にかかっていて、「彼女の Röcke」という意味になっているとも、いわゆる「奪格(だっかく)*」として glitten にかかっていて、「彼女からすべり落ちた」とも解せます。この場合には、ihr と glitten の間にはかなり距離がありますから、所有の3格かなとも思いますが、奪格という解釈も間違いとは言えません――菊池武弘先生の対訳書ではこのように解しています――。
*簡単な例を1つだけあげておきますと、Die Mauer raubt uns die Aussicht.(壁のために見はらしがきかない〔岡上記:直訳は「壁はわれわれから展望を奪っている」〕)(小学館『独和大辞典』)

②この aufgebunden[en] は、aufbinden の過去分詞形で、ここでは形容詞として使われており、受動の意味になっています。ですので、原田訳で言いますと、正確には「とめ金をはずされた」となりますが。
原田訳以外の邦訳では、(「スカートのひもがとけて」などと意訳している訳もありますが、すべて形容詞の形に統一して示します)「留め金を外した」「留金のはずされていた」「ひもがとけた」「紐(ひも)のほどけた」「紐の弛(ゆる)められていた」「紐や留め金のはずされた」「ホックのはずれた」「結びの解かれた」「結び目をといてあった」「解けかかった」「はずれた」「ほどけた」「ほどけかかった」☆「ゆるめた」「緩(ゆる)めてあった」「ゆるめられた」「ゆるめられていた」と、多種多様に訳されています。英訳では、unfastened と loosened が多く、ほかには unbuttoned、unhooked、untied もあります。
この Röcke がどのような仕組みで体にとめるようになっていたのかは、この文からだけではわかりませんので、どの訳も間違いではないと思われます。ただ、aufbinden のおおもとの意味は「(結び目を)ほどく」ですから、ここではこの Röcke がひもでしめてとめるようになっていて、その結び目がほどかれていたと解するのが、一番自然ではないかと私は思います。
なお、ごく少数の英訳では、「たくし上げられた」という感じで訳しています。aufbinden には「たくし上げる」という意味もありますが、やはり上記のようないわば「操作」がされないかぎり、単にたくし上げられただけでは床にすべり落ちることはありませんから、ここではちょっと無理ではないかと思います。

③この Röcke(Rock の複数形) の訳語は、邦訳では、「スカート」だけにしている訳が一番多いですが、「かさね着しているスカート」「重ね着のスカート」「何枚ものスカート」「スカートを始めとして服」「スカートなど」「スカートやら何やら」「スカートや、下着」「下着やスカート」「スカートやペチコート」「ペチコート」「きもの」としている訳もあります。
英訳では、skirts か petticoats(これも案外多いです) としている訳がほとんどですが、clothing、 garments、♢undergarments、slips and skirts としている訳もあります。
ヨーロッパではスカートやペチコート(いわばスカート用の下着)を重ねて着ることはよくあるようですから、複数形になっていること自体はおかしくないと思われます。ですが、ここではこれがスカートだけなのか、ペチコートだけなのか、スカートとペチコートの両方なのか、はたまた上半身に着ているものまで含んでいるのかは、②と同様にこの文からだけではわかりません。
ただ、私としましては、ペチコートだけというのはちょっと不自然かなと思います。また、上半身に着ているものが脱げ落ちることは、いくら事前にゆるめられていたとしてもあまりないのではとも思いますので、これらまで含めなくてもよいのではないでしょうか。

④この zu Boden glitten の部分をこのとおりに訳さずに、「母親が Röcke を次々に脱ぎ捨てた」のように訳している訳が、少しですがあります。ですが、これはやはり飛躍しすぎですね。このように言いたかったのでしたら、もっと別の表現をしていたのではないでしょうか。脱げかけたものの一部を、面倒なので脱いでしまったということは、全く考えられないことはないかもしれませんが、母親が全部を積極的に脱ぎ捨てたとは、この書き方からは読めないと私は思います。

○... , und wie sie stolpernd über die Röcke ①auf den Vater eindrang und ②ihn umarmend, in gänzlicher Vereinigung mit ihm – nun ③versagte aber Gregors Sehkraft schon – ④die Hände an des Vaters Hinterkopf um Schonung von Gregors Leben bat.
そのスカートなどにつまずきながら父親のところへかけよって、父親に抱きつき、父親とぴったり一つになって――そこでグレゴールの視力はもう失われてしまった――両手を父の後頭部に置き、グレゴールの命を助けてくれるようにと頼むのだった。(原田訳)

この文は、①を除きますと、解釈自体にはさほど大きな違いは見られませんが、細かく考えますと以下のような疑問が生じてきます。

①この auf den Vater eindrang を、
〔1〕「父親の方に突進し」という感じで訳している邦訳と、
〔2〕「父親に飛びかかり」「父親に飛びつき」という感じで訳している邦訳とがあります。どっちつかずな感じで訳している訳もありますが。
英訳では、「父親に向かって身を投げた」という感じで訳している訳が多く、これでしたらどちらとも受け取れますね。これ以外の訳は〔1〕と〔2〕で半々くらいに分かれています。
ここに関してもどちらが正しいとは断定できませんが、この前の箇所では Röcke が次々とすべり落ちていたと書かれていましたから、これらにつまづきながらも父親に突進したと解した方が、より自然かなとは思いました。
また、「突進した」という意味を含まずに、最後につまづいた段階で、そのはずみで父親に飛びついたと言いたかったのでしたら、単数形で über einen Rock とか、über den letzten Rock などと書いたのではないかなとも思いました。ですが、これは私の個人的な考えにすぎませんので、ご意見がおありの方はお寄せ下さいましたら幸いです。

②ここは諸訳で訳し方が分かれているわけではありませんが、あとの④とも関係してきますので、確認の意味で。この ihn umarmend は、父親に
〔1〕正面から抱きついたのでしょうか。あるいは、〔2〕後ろから抱きついたのでしょうか。
これは、一般的な感覚ではやはり〔1〕でしょうし、〔2〕のように言いたかったのでしたら、やはり何らかの語句を足していたのではないかと思われますね。

③に関しては、説明の都合で最後にします。

④の die Hände an des Vaters Hinterkopf は、前にお話しした「絶対4格」であり、あとに haltend を補って考えればよいと思いますが、ここではどのように訳したらよいでしょうか。
邦訳では、次のようにしています。des Vaters Hinterkopf は省略し、また微妙な違いはあってもほぼ同じと言える訳は1つにまとめて示します。「...に両手をあてて」☆「…に両手を回すと」「両手を...にあてがい」「両手を...に置き」「...に手をさしのべて」「両手で...をささえて」「両手で...を抱えこんで」「...を両手で抱えるようにして」「両手で...を包み」「両腕を...へ巻きつけて」「両手を...に回して」
英訳では、訳され方がいろいろですので、煩瑣を避けるため、使われている動詞(あるいは、動詞+前置詞)を原形で示すだけにします。clasp、clasp at、clasp behind、clasp upon、clasp around、♢clasp [her hands] around、clasp round、circle(動詞)、clutch、fling around、hold、put [her hands] on、reach to、throw [her arms] around 。あるいは、動詞を使わずに with her hands behind the father’s headとか、with her hands on the back of his father’s head としている訳や、これらと同じような表現をしていますが前に with を入れていない訳もあります。ざっとこのような感じで、ここも多種多様に訳されていますが、動詞に該当するものがない以上、どれが正しいのかはおそらくだれも判断できないと、私は思います。ここは読者の好みで訳して構わないのではないでしょうか。ただ、私個人としましては、「巻きつけて」という訳が、強く頼むという雰囲気も出ていてよいのではないかとも思っています。
それから、ここをどう訳すかにもよってきますが、
〔1〕母親はいったん父親の胸かどこかに抱きついてから、父親の後頭部に手をやったのでしょうか。
あるいは、
〔2〕はじめから父親の後頭部に抱きついて手をやったのでしょうか。
これもこの文だけでは断定できませんが、動作としてはやはり〔1〕が自然かなと思われます。
いずれにしましても、私のように気になる人もやはりいるようでして、英訳者の Mary Fox さんは、「胸に抱きついてから、後頭部に手をやった」という感じで、原文にはない「胸」を入れて、作ってしまっています。せっかくですので、引用しておきます。
ついでながら、この Fox さんの訳は、ときには大胆に省略しすぎている箇所もあったものの、なかなかユニークな訳でした。ですが電子書籍しかなく、最近では販売が中止になってしまったようでして、残念に思っています。

... ; his mother ran to the father, stumbling as one by another her untied skirts fell down on the floor, threw herself at his chest, and, hugging him, merging their bodies into one----but at that point Gregor’s vision was lost---- holding the back of his head in her hands, she begged him to keep Gregor alive.

♧(2026年4月28日追加:母親が父親に抱きつくシーン)

そのスカートやら何やらにけつまづいてその拍子(ひょうし)に父親に倒れかかるわ両腕回してピッタリとしがみつくわのあげくに――もっともグレゴールの視界はブラックアウトしとったけど――父親の後頭部につかまってグレゴールの命乞いをする愁嘆場(しゅうたんば)やった。(西田訳)
Only with his last glance he managed to see how (中略) , how mother now ran toward father discarding her undergarments one after the other along the way as they were obstructing her, and so on she came, tripping over these things, fighting her way forward and forcing right on through, then wrapping her arms around father having become ‘as one’ with him, but at this point Gregor’s ability to see ebbed away entirely and his last vision was that of mother placing her hands behind father’s head and begging him, pleading with him to spare the life of her son. (Lundberg 訳)(岡上記:ちょっと大げさな感じもしますし、文章もやや難解ですが、それなりに面白いとも思いましたので、入れることにしました。また、前の方の一部分も入れた方がわかりやすいと思いましたので、そのようにしました。以下は、この Lundberg 訳に関しての注です)
※and so on she came =and so she came on:on は強調のために前に出ています。
※fighting her way → fight one's way:「苦労しながら前進する」と言う感じの意味。ここではあとの forward で意味をさらに強めています。
※forcing … through = forcing her way … through them(=these things):「それらをむりやり押し通りながら」くらいの意味かと思われます。
※(forcing … through の、… の部分にある) on :ここでは「どんどん」「ためらわずに」という感じの意味で、ここでは前の right で意味をさらに強めています。

これらの2つの訳は、「胸に」とかは明記していませんが、「母親はいったん父親のどこかに抱きついてから、父親の後頭部に手をやった」という感じをはっきり出していますね。
西田訳は die Hände を ihn umarmend の方に入れて訳していますが、これは構わないと思います。ただ、Lundberg 訳が  zu Boden glitten を  discarding her undergarments と訳しているのは、前項の④の解説で記した理由で、ちょっといただけませんが。
(追加終わり)

③ここの versagte なのですが、三原先生は「カフカ『変身』注釈」(平凡社)の中で、ここで彼が気を失って、視力も失っていたにもかかわらず、父母の様子が見えていたのは不自然だが、英訳(ここでは Willa & Edwin Muir 訳)では but here Gregor’s sight began to fail として、不自然にならないように配慮している、という趣旨のことを記しておられます。
そう言われて改めて諸訳を見てみましたところ、英訳では確かに、単に failed と過去形に訳さずに、began to fail とか、was beginning to fail とか、was failing ♢[now] とか、was already failing と訳している訳がかなりありました。
ですが邦訳では、Muir 訳をもとにした Nabokov 訳を邦訳した野島訳が「が、ここでグレゴールの目は利かなくなりはじめる」としているのは当然として、池内訳が「すでにグレーゴルの目はかすんでいた」、多和田訳が「このへんでグレゴールの視力はほとんど機能しなくなってしまい」としているくらいで、他の訳では――なぜか三原先生ご自身の訳も含めて――このような配慮はしていません。
これも私見ですが、この物語は基本的には確かにグレーゴルの視点で書かれていますが、グレーゴルが全面的に自分で語っているというわけではありませんので、ここまで厳密に考えなくてもよいのではないかと思います。

最後になりましたが、英訳に関したいくつかの点につきまして、今回も高知市のエヴァグリーン英会話スクールの菊池春樹先生にご教示をいただきました。記して感謝いたします。ただ、英訳についての説明も、最終的にはすべて私の判断で記しましたので、責任は私にあります。ご意見がおありの方がおられましたら、私宛にお寄せ下さいましたら幸いに存じます。

♧(2026年4月28日に付録として追加:mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock の英訳)

付録
mit stets vorsichtig aufgesetztem Krückstock の英訳の一覧
※すぐあとの sich vorwärts arbeitete と合わせる形で訳しているものは、その形で示します。
※一見何でもないようですが、すごく簡潔に訳している訳があるかと思えば、語句を足したりしてとても丁寧に訳している訳もあり、案外興味深いのではないかと思われます。

... , carefully set his stick before him ... (A. L. Lloyd 訳)
... with his cane carefully planted in the ground ... (Eugene Jolas 訳)
... with the help of his crook-handled stick which he set down most cautiously at every step ... (Willa & Edwin Muir 訳)
... with the help of his crook-handled cane, which he set down most cautiously at every step ... (同・新訳)
... , always carefully planting down his crutch-handled cane, ... (Stanley Corngold 訳)
... , always placing his walking-stick with great care, ... (J. A. Underwood 訳)
... , carefully planting his crook-handled stick before him for each step he took, ...(Malcolm Pasley 訳)
... , always cautiously planting his cane, ... (Joachim Neugroschel 訳)
... , carefully working his way forward with his crook-handled stick, ... (Karen Reppin 訳)
... , by meticulously placing his cane; ... (Donna Freed 訳)
... with his crook-handled stick always placed cautiously before him; ... (Stanley Appelbaum 訳)
... , all the time setting down his walking stick carefully, ... (Ian Johnston 訳)
... ; who(関係代名詞で、先行詞は the same tired man) would place his stick down carefully ... (David Wyllie 訳)
... , with his crook-handled stick always placed cautiously in front of him, ... (Richard Stokes 訳)
... by putting his walking stick down carefully, ... (M. A. Roberts 訳)
... with his carefully jabbing stick, ... (Michael Hofmann 訳)
... with the help of his carefully placed walking stick, ... (Phillip Lundberg 訳)
... , probing cautiously ahead with his walking stick ... (Will Aaltonen 訳)
... , all the time cautiously planting his crutch, ... (Joyce Crick 訳)
... , always shuffling along carefully with his cane, ... (Charles Daudert 訳)
... , always cautiously feeling his way with his walking-stick―... (John R. Williams 訳)
... , while he cautiously advanced on his crutch―... (C. Wade Naney 訳)
... , always with his gingerly advancing cane ... (Susan Bernofsky 訳)
... leaning on his walking stick, ... (Christopher Moncrieff 訳)
... with his carefully-positioned walking stick, ... (Katja Pelzer 訳)
... , testing the way with his walking stick, ... (Peter Wortsman 訳)
... , carefully placing his crutch ahead, ... (Mary Fox 訳)
... , carefully advancing with help of his walking stick. ... (Philipp Strazny 訳)
... with his cane always carefully put on, ... (Christopher Drizzen 訳)
... , always carefully setting his walking stick forward―, ... (Miqhael-M. Khesapeake 訳)
... with his crutch cane always cautiously up, ... (Robert Boettcher 訳)(岡上記:この up は、「[地面についた状態から] 上げて]」と解せそうにも思われますが、ネイティブの感覚では「構えて」という感じの意味になるようです)
... , setting down his walking stick cautiously, ... (Faulk Schneider 訳)
... , with his walking stick always carefully positioned for leverage, ... (Mark Harman 訳)(岡上記:leverage には「てこの原理」という意味もありますが、杖の場合にはちょっと合いませんので、ここでは「[体を支えるための] 支点として使うこと」という感じの意味と思われます)
...; who(関係代名詞で、先行詞は this same man) would place his walking stick carefully ... (David Gildea 訳)



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