見出し画像

函館で砂山を保存する運動はあったのだろうか

函館の大森浜にあった砂山(ハマナスが咲く砂丘)を保存する組織的な運動の記録は特になく、昭和30年代の道路開発(国道278号線)と砂鉄採取によって、その大部分が失われました。石川啄木の詩でも有名だった砂山は、戦後の産業開発の波の中で自然消滅したと言えます。 [1, 2]

  • 当時の状況: 昭和28年(1953年)に砂山を横断する道路を作る条件で、砂鉄採取が民間に認められました。

  • 消滅の経緯: 昭和31年(1956年)の国道開通と、その後の砂鉄採り尽くしにより、砂山は姿を消しました。

  • 面影: 現在、その面影はわずかに残る程度であり、歴史的な風土として惜しまれる砂丘でした。

当時の函館において、砂山の消失に対する大規模な「組織的反対運動」が起こったという記録は、公的な歴史資料である「函館市史」などには残されていません。 [1]

反対運動が目立たなかった背景には、当時の社会状況や砂山に対する認識が関係していたと考えられます。

1. 経済発展とインフラ整備の優先

昭和20年代後半から30年代にかけての函館は、戦後の復興期から高度経済成長期へと向かう途上にありました。

  • 道路建設の条件: 函館市が民間企業に砂鉄採取を認めた際、その見返りとして「砂山を横断する道路(現在の国道278号)」を整備させるという条件がありました。

  • 産業への貢献: 砂山の砂は砂鉄原料としてだけでなく、港湾の埋め立て、ビル建設、さらには函館の水がめである中野ダムの建設資材としても大量に利用され、都市開発に不可欠な資源とみなされていました。 [1, 2]

2. 住環境の悪化とイメージの変化

砂山周辺は、かつてはハマナスが咲く美しい場所でしたが、都市化が進むにつれ、以下のようなネガティブな側面が強まっていました。

  • 環境の悪化: ゴミや糞尿の処理場と化し、衛生環境が悪化していました。

  • スラム化のイメージ: 貧困層が穴を掘って住む「サムライ部落(砂山部落)」があり、治安や景観の面から地元住民の間では砂山の存在そのものがマイナスのイメージで捉えられることもありました。

  • 地名の変更: 1938年(昭和13年)には、住民の要望によりイメージの悪い「砂山町」から「日乃出町」へと地名が変更されています。 [1, 2, 3]

3. 住民の反応

組織的な反対運動の代わりに、当時の新聞記事(1963年・昭和38年の北海道新聞など)では、姿を消していく砂山を懐かしんだり、啄木の歌に詠まれた風景が失われることを惜しんだりする「惜別」の感情が報じられていました。しかし、それは開発を止めるための抗議行動にはつながりませんでした。

このように、当時は「自然保護」よりも「生活の利便性」や「都市の近代化」が強く求められていたため、砂山の消失は時代の流れとして受け入れられた側面が強いようです。


金堀小学校の裏手(海側)にあったとされる、函館の砂山(想像図)

関連記事


いいなと思ったら応援しよう!

橋本 このたびはご評価をいただきありがとございます。また、チップまで下さるとは私にとって大変な喜びです。さらに英文訓読の役を進め、アップさせていきたいと思います。