明治初期の頃の函館の鳥瞰図 砂山を復元
砂山のデータ 函館には昔、大森浜、今の啄木像のあたりに砂山があったという。
校歌にも歌われている。
小生の小学校、中学校、高校の校歌、いずれにも出てきた。
昭和40年頃完全に姿を消したという。
戦後の復興、建築、街作りのため、ここから砂を採ったからである。
函館市がそれを許可したのである。

私が小学校1年の頃。1年生の時だけ、金堀小学校にいた。
競輪通りの海側にあったがその金堀小学校の裏側に大きな湿地が広がっていたのを覚えている。
一度、海の方に行こうと思い、湿地の脇を行ってみたが、しばらく行くと道もなくなり沼地となり行くのは困難であった。ましてや小学1年である。
行くと、だんだん湿地になるのか、一緒に行った おぐろ かずひろ 君が沼地に足を取られて動けなくなった。偶然通りかかった同じ小学生に助けてもらって事なきを得た。この小学生らの一人が奇しくも中学1年で同級生となった安部君であった。
これはどういうことだったのか。これは昭和41年の話。
つまり、砂山からの砂の採取は完了している。砂山が完全に亡くなった頃。
このようにして、砂や石を取ると、その部分は抉れて雨水が溜まる。そのようなことがここでも起こっていたわけである。なるほど砂山の取り壊しが完了した時期と重なる。
砂山の実態像はなかなか見えない。当時の記録や写真をみても何も出ていない。あったのか、なかったのか。砂山というからにはかなり大きなものとも思う。写真や絵には見当たらない。古地図を見てもピンとこない。
色々調べると、砂山は、標高33m。南北に900m。東西に380m。
中心は金堀小学校の裏。啄木像のあるあたりと想定される。
私は下の写真を見て非常に驚いた。明治末期の大森浜で多くの人が海水浴を楽しんでいる写真である。
私の知る限りこの浜は流れは急で海水浴など出来たものではない。
また、遠浅の浜ではない。波内際から少し行くと、2−3mか、急に深くなっているのである。
ところがこの絵では遠浅に見える。波も穏やかだ。
この絵を見て思ったことは昔は砂山があったので海流が穏やかであったのではなかろうか、と考えた。これを無くしてしまったので、浜の海流が強くなってしまったのであろうか。


AIからの函館の砂山の基本データを示す。

この巨大な砂山は、戦後の建設ラッシュでダムの材料や道路舗装の資材として取り崩され、現在はその大部分が住宅地(日乃出町、高盛町など)に変わっています。かつての「砂山」の頂上付近は、現在の高盛小学校のあたりに相当します。
これらのデータを元に砂山を再現してみた。
いくつか描いてみた。
と言うか、AIに描かせてみた。
ここまで偉大なものであったのか、と驚かれたであろうか。
これがもしあったら、どんなにか素晴らしいことか、と思いませんでしょうか。
明治の頃の砂山




現代に砂山を甦らせた



関連資料
中尾仁彦の「函館ぶら探訪」 2016年11月21日 ·
【第1回 啄木小公園・自衛隊通り付近巡り(3)】
◆昭和40年代まで存在した「砂山」◆
函館に長いことお住まいの方には「砂山」の存在をご存知の方も多いでしょう。
古くは万延元年(1860)の幕府による測量図には大森山砂丘との記載があります。
明治16年の凾館県地理課の函館港実測図(1万分の1)の測量は、東西981メートル、南北327メートル、高さ33.3メートル。その後徐々に西部地区から東へ宅地化が進み、砂が除去され始めます。最終的には前述の啄木小公園の広範囲に残されます。大正時代から「砂山」と言えばこの一帯を指し、大正時代は156戸の掘っ建て小屋がありました。その多くに乞食が住んでいたようで、砂山の乞食部落(サムライ部落)と呼ばれています。
昭和初期に建てられ、昭和47年まで長らく使用されず砂山に立ちすくんでいた「3本煙突」の旧焼却炉も異様な光景でした。
そのため昭和13年にイメージが悪く、地元住民からの要望で「砂山町」から「日乃出町」と改められます。
砂山の砂は砂鉄を含んでいたので、昭和30年頃から鉄鋼原料として採掘され、砂鉄採取以外にも、港湾の埋め立て、ビルの建設、道路舗装、とりわけ函館の水がめ「中野ダム」の建設に大量の砂が運び出され10年間で完全に消滅しました。その後かっての砂山を横断する道路が造成され、昭和50年に新たに近代的な日乃出清掃工場が建設されます。現在は小さな工場、加工場、食品会社多数立ち並び、その面影を探し出すことはまったく不可能です。
写真上は、昭和23年の砂山の広がり(財団法人日本地図セター「昭和20年代空中写真」より)砂山の右隣は「函館少年刑務所」の旧建物。

写真下は、「砂山」の採掘 (函館市立中央図書館蔵)





江戸時代初期、まだ和人の定住が本格化する前の函館山頂上からの展望です。
現在の市街地は影も形もなく、函館山の麓から亀田半島へと続く広大な砂州(トンボロ)がむき出しになっています。
巨大な砂山: 画面右側(大森浜側)、現在の啄木小公園付近には、高さ33mに達する巨大な砂の丘がそびえ立っています。
手つかずの自然: 飯間(五稜郭付近)や根崎へと続く平地は、家一軒ない湿地と砂丘が広がる野生の地です。
二つの海: 左手には穏やかな函館湾、右手には荒々しい外海の津軽海峡が、細い陸地を挟んで対比をなしています。

函館の「消えた風景」砂山の記憶
場所: 現在の金堀小学校や函館競輪場の周辺。
特徴: かつては日本最大級の海岸砂丘の一部で、子どもたちの格好の遊び場でした。
消失の理由: 戦後の都市開発や宅地造成、さらには建築資材としての砂の採取により、昭和30年代にはほぼ姿を消しました。
現在の面影: 金堀小学校の校歌にその名が残るほか、付近のわずかな高低差にその名残を感じることができます。 著者コメント:函館市内ならどこの学校の校歌にも出てくる。少なくても小生が通っていた、この金堀小学校(1年の時)、駒場小学校(2-6年)、的場中学校、函館中部高校の校歌にはあった。

これを作るのにはかなり苦労したので、その記録をファイルとして残しました。関心のある方はダウンロードしてご覧ください。
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