武士道 第17章 #20 武士道やその他の武的型態の倫理は普遍的な道徳を教えることを往々にしてして来なかった

#20  We have seen that Shintoism, Mencius, and Wan Yang Ming, have all clearly taught it;  but Bushido and all other militant types of ethics,  engrossed doubtless,  with questions of immediate practical need,  too often forgot duly to emphasise this fact.


私の訳:神道、孟子、及び王陽明が明白にこれを教えたことを、我々は既に見た。然るに武士道やその他すべての武的型態の倫理は、疑いもなく直接の実際的に必要のある諸問題に没頭するあまり、往々その事実に対し正当な重さを置くことを忘れた。




この一節の背景には、新渡戸稲造が『武士道』の結び(第17章)で展開した、「これからの新しい時代に武士道がどう変化すべきか」という強い問題意識があります。
「この事実(this fact)」という言葉が指す内容を中心に、背景にある3つの重要な思想的文脈を解説します。

1. 指している「この事実(this fact)」とは何か
直前の文章で、新渡戸は「至高の存在(神・絶対者)に対する義務」「普遍的な愛・人道主義」の重要性を説いています。
神道、孟子(儒教)、王陽明(陽明学)は、それぞれアプローチは違えど、「天」や「良知」といった普遍的な道徳や大いなる存在への帰依を明確に教えていました。

2. なぜ武士道はそれを「忘れて」しまったのか
武士道は、戦国時代や江戸時代という「生存」や「統治」がかかった実践の場で磨かれた道徳です。
そのため、どうしても「目の前の実用的な必要性(immediate practical need)」、すなわち主君への絶対的な忠誠や、武士としての面目を保つこと(名誉)にエネルギーのすべてが注がれました。
結果として、主君を超えた「天」や「人類愛」といった、より普遍的で高次元な倫理観を十分に強調することを忘れてしまった(軽視してしまった)と新渡戸は指摘しています。

3. 新渡戸稲造が本当に伝えたかったこと
新渡戸がこの批判を行った背景には、以下の2つの意図があります。

  • 武士道のアップデート(近代化):
    明治維新を経て、日本は国際社会(キリスト教的な人道主義が主流の社会)に入りました。新渡戸は、武士道が過去の遺物として消え去るのではなく、神道や陽明学が本来持っていた「普遍的な愛や天理」を取り戻し、国際的に通用する世界水準の倫理へと進化することを望んでいました。

  • 西洋(キリスト教)との架け橋:
    新渡戸自身は敬虔なクリスチャン(クエーカー教徒)でした。彼は、東洋の伝統思想(神道・孟子・王陽明)の根底にあるものは、西洋のキリスト教が教える「神への義務」や「隣人愛」と本質的に同じであると信じていました。武士道がそれらを思い出すことで、西洋の精神とも深く共鳴できると考えたのです。

つまり、この一節は武士道への単なる批判ではなく、「武士道が真に偉大な道徳になるために、東洋の深遠な思想(神道・孟子・王陽明)の原点に立ち返ろう」という、新渡戸からの熱いエールが込められた背景を持っています。






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