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KOHHを一日中聴いてたら短歌が上達した話

ビッチのカバンは重い(feat. Dutch Montana)/KOHH

最近はずっとKOHHを聴いていた。いくつかの理由があっての試みだったが、一番の理由は、あるフォロワーさんのツイートにある。

そのフォロワーさんは最近カクヨム短歌賞に連作を応募していた。あまり短歌を詠むイメージのない方で、実際初めての連作だったらしいが、その完成度は高く、楽しく鑑賞することができた。

彼が言うには、応募する前の何ヶ月か、ひたすら鬱状態に沈んでいたようだ。そこで寄り添ってくれるBGMとしてKOHHを選択し、部屋では一日中KOHHが流れていたのだという。そうしているうちに突然短歌の詠み方を「理解」して、現在の業前を身につけたようだ。

非常に興味深かった。筆者も短歌が苦手だったからだ。「それなりには」文章を書けている自負のある筆者だが、短歌だけはどうも理解できない。内在する「ロジック」が理解できなかった。短歌をやるための「部屋」がない状態と言えばわかりやすいかもしれない。普通、幼児が学校ではじめて算数を学び始める時、『1+1=2』は理解できるだろう。それはロジカルに、証明過程を経て導出したものではない。もっと感覚的で、生得的なものだ。筆者はその初歩の初歩でつまずいていた。短歌における初歩の感覚、どうにもそれを掴めなかった。

あやまった土台の上に家を築いてもマトモな代物は建たない。数年前にしょうもない短歌をいくつか作ったきり、ずっと放置していた。知り合いにも笑われた記憶がある。

そういうことで、筆者もKOHHを聴いてみたのだが、なるほど短歌を理解できた。例のフォロワーのツイートを見てからというもの、KOHHの『梔子』というアルバムを文字通り一日中聴いていたのだが、確かに一週間経ったころから違いが現れ、三週間経ったころには完全に短歌を「詠める」ようになっていた。

短歌に内在する二つのロジック

短歌は、だいたい二つのロジック(ルール?)と呼ぶべきもので成り立っているようだ。それを踏んでいる短歌は良い短歌だし、外れている短歌は(例外はあれど)だいたい良くない短歌だ。ここを外して良い短歌を詠めるものが真の天才、と言えるかもしれない。

  1. 叙情を決してしない。

  2. 叙事/叙景がなされた2〜3個のユニットをつくり、それを適切に接続させることでポエジーを生む。

1と2でほぼ同じことを言っているような気もするが、ようはそう言うことだ。とにかく自分の感想を言わない。感想ではなく「感慨」を生み出すために仕掛けをつくる。これが短歌/和歌の本質であるようだ。

正確にはこうしたルールは古今和歌集以降に確立したもので、万葉調などに例外は多いようだが、基本は変わらない。否、むかしの和歌で、「思ふ」とかが出ていたとしてもそれは、確固たる叙事/叙景のうえにはじめて許されたものなのだ。

一番和歌らしい和歌といえば多分これだろう。教科書でも良く取り上げられる和歌で、技巧の粋を集めた古今調の和歌である。

「(何度も着て身になじんだ)唐衣のように、(長年なれ親しんだ)妻が(都に)いるので、(その妻を残したまま)はるばる来てしまった旅(のわびしさ)を、しみじみと思うことよ。」

大体こんな感じで意味が取れるわけだが、先述の通り極めてたくさんの技巧が使われている。

大変に字が汚いが、このような技巧が使われている。この歌の妙味は、二つの叙事/叙景が進行していることだ。

「着慣れてよれよれになった唐衣を着たり張ったりしながら旅をして(更にその衣のように無用な自分も含めてわびしい)」
「慣れ親しんだ妻を置いて遥々こんなところまで来る旅をして(わびしい)」

この和歌、もっと言えば近代以前の技巧を凝らした和歌はユニットを「重ね合わせ」ている。掛詞、縁語、枕詞など、当時の宮廷で共有されていたゲームにおける「ルール」を組み合わせることで、二つのユニットを一つの文章単位に組み合わせることに成功しているのだ。さらに言えば、この和歌にはもう一つのユニットが隠れている。そもそもこの短歌は、旅先の三河八橋で『かきつばた』を咲いているのを見つけて、それを題に短歌を披露する、という経緯で詠まれたものだ。題を表現するため、折句(それぞれの句の初めが、『か・き・つ・ば・た』となっている)の形式を取っているのだ。技巧によって三つの叙事/叙景ユニットを重ね合わせ、ポリフォニーを作り出す。ここにからくり仕掛けのポエジーが駆動する。

逆に言えば、ここまでの努力やポエジー、センスがあって初めて「思ふ」の余地が生まれる、と言える。そもそも上の歌における「思ふ」も冷静に観察したとき「叙情」というより「修辞」に近いものだ。

対して、近代以降の短歌は、掛詞を初めとした旧来のルールがアクチュアリティを失って久しいという前提があった。これは1000年近い時間が生み出した言語の変化や、宮廷文化の揮発といった要因がある。そうした前提の上に、近代以降の「自我」や「西洋」という衝撃があり、近現代短歌はそれらとどう向き合うかという問いから始まったのだ。必然的に短歌はユニット間がより断絶的で非説明的になり、その断絶にポエジーが生まれる。説明がないところに「作家性」が宿るからだ。

寺山修司『空には本』(1958)

寺山修司の余りにも有名な近現代短歌の傑作である。この短歌は「霧深い海岸でタバコを吸う」という叙景ユニットと、「命を投げ出すような祖国があるだろうか?」という問いかけ(反語)ユニットで構成される。二つは断絶しており、先ほどの和歌と違って本質的に解説することはできない。どこまでも寺山個人の内的世界の表出でしかないからだ。

それでもこれが傑作なのは、二つのユニットの取り合わせが素晴らしく、その断絶にポエジーさえ生まれているからだ。

「マッチを擦る」という手元動作から、「つかの間」という一瞬の心象世界を暗示する表現。そこから「海に霧吹かし」で、
「海岸に立つ人が霧深い中で、寂しげにマッチを擦ってタバコを吸う」
という心象世界がパッと浮かぶ。

そうして出来た上の句は、
「身を捨てるほどの祖国はあるだろうか?いやない」
という問いかけ(反語)につながる。これは叙情的であれどどこまでも叙事である。何より重要なのが、この下の句が短歌の世界を一気に広げることだ。この短歌の一人称が軍服を着ていたとすればそれは切実だし、学生服を着ていたとしたらまた別の、理想主義的な、昏い青春の光景が浮かび上がる。もしかしたら銃後で帰りを待つ女であるかもしれない。ユニット間の適切なつながりと断絶によってポエジーが生起する。

俵万智『サラダ記念日』(1987)

説明不要の戦後短歌の最高傑作だが、これも例外ではない。「『この味がいいね』と言った君」と、「サラダ記念日の個人的宣言」という二つの叙事ユニットがあり、それがつるりと、軽やかに結びついてポエジーを産む。これまでの和歌/短歌からすれば革命的破壊に見えても、和歌/短歌に内在する本質的なロジックは踏襲している。

KOHHと短歌

実はKOHHの曲は「短歌」のロジックによって作られている。KOHH本人がこれに自覚的かどうかは分からないが、とにかくKOHHの曲は短歌なのである。本文の一番最初にあげた歌詞をもう一度見てみよう。

この曲はKOHHの曲の中でも最も短歌的であろう。「ビッチのカバンは重い」というHOOKと、「ビッチたちが〜」以降のVerse。HOOKが「ビッチのカバンは重い」という叙事ユニット、Verseが「ビッチとセックスに至るための様々な方法」という叙事/叙景ユニットとなっている。そこに『ビッチ』、または『ビッチとのセックス』に対する叙情は存在しない。正確にはVerse3に叙情?を思わせるようなリリックがあるのだが、それも叙情ではなく叙情の「ようなもの」である。稚拙な感想を述べることで叙事性をむしろ浮き彫りにするものだ。

男達は女が好き
簡単にこれない俺の家
重いカバンと軽い口
みんなたくさんやり過ぎに注意
ビッチはやっぱりビッチだな
誰でも否てもうやだ
でもビッチ達がもっと欲しいがある俺が遣れそうで遣れないから

KOHHのリリックは基本的にこういったものだ。叙事にとにかく徹する。叙情的なことは言わない。少し稚拙な感想を述べることで叙事性を浮き彫りにする。ユニットの組み合わせに力があり、その組み合わせがアティチュードを「示し」ている。連なりのなかにポエジーが浮かび上がる。一見韻をマトモに踏まない「ふざけた」リリックばかり作っているように見えるKOHHがこれほどまでに高い評価を受けているのは、短歌のような詩的構造をラップの世界に持ち込んで独自のスタイルまでに昇華させたことにある。単なる叙事詩ではなく、「短歌的」と言えるほどに技巧と詩性を研ぎ澄ませたスタイルは唯一無二だろう。筆者もKOHHを聴き続けることで、短歌に内在するロジックを理解し、それを身体化させることができた。

昔の失敗作

ここからは筆者の短歌を(セルフ)講評するパートだ。短歌のロジックを身体化する以前と以降で見違える差があるので見てほしい。まずは昔書いたやつだ。

3〜4年前に作った失敗作

救済のよすがとなるのは記憶だけ あの日も月が綺麗でしたね

酷い短歌だ。叙情をやろうとして破綻している。文藝部の女子中学生が作ったようなむず痒さがある。この短歌の問題点は、どこまでも叙情であること、そして叙情で短歌がパンパンとなって美観が崩壊していることにある。

私って誰でしたっけ?本当はあなたみたいになりたかったのに

これは意外とマシかもしれない。ただやはりむず痒さは抜けていない。それこそ俵万智ならもっと「上手く」できただろう。もう少し何らかの手段で叙情を抑えて、言葉の取り合わせをかっこよくすると改善するのだろうか?

(上の句を忘れたが特に秀逸な代物ではなかったはずだ) ただキスに没入させて

下の句で駄作と分かるやばすぎる(575)

寂しくない エコキュートも呼んでるし今日から猫もお家に来るし

これはこの中だと一番マシかもしれない。唯一ちゃんとしたクオリティをしている。叙景ユニットから叙情を醸し出そうとする短歌ロジックを踏襲している。ただそれも偶然で、内在するロジックを理解していない以上ただのまぐれだ。それしても題の取り合わせが思春期女子過ぎないだろうか?(筆者は成人男性である)

最近の連作

翻って最近の連作を見てほしい。クオリティの圧倒的な向上が見られる。まず、先ほどのルールを完全に踏襲している点で、3年前のものと違いがある。その上で自在に題材を取り合わせることでポエジーを生んでいる。ここからは自画自賛パートだ。

エロ垢でシコりてのちの静けさや イカロスの落下地点を想ふ

「エロ垢でシコった後の『静けさ』」と、「イカロスの落下地点」が連なり、そこにポエジーが生起している。上の句で秀逸なのは、「虚しさ」ではなく「静けさ」であることだ。「虚しさ」では叙情となってしまうところを、「静けさ」によって叙景と空間的広がりが生起される。さらにそれは、下の句におけるイカロスの落下イメージともつながる。「宇宙空間の寂しさ」とイメージによって結びつくのだ。

さようなら もう会うことはないでしょう 地を這うサカナに君は似てゐた

友人たちと短歌を作る遊びをしていたときのものだ。あらかじめ皆で考えた下の句にどれだけ秀逸な上の句をつけられるかというゲームをやっていて、そこで思いついた。「さようなら もう会うことはないでしょう」はツルッと出た言葉だ。旧字体で揃えることもできたがそれはしなかった。その違和にポエジーが生まれることを感取していたからだ。米津玄師のYANKEEに入ってそうな雰囲気の短歌を詠めて満足だ(自画自賛すぎる)。

メンデルスゾーンの曲は美しい 秋の叙景は虚しくなりぬ

「メンデルスゾーンの曲は美しい」
我ながら秀逸な上の句だ。感想のようでいて叙事である。上の句を先に思いついて、下の句を悩んでいたが、下の句は正しく「降って」きた。
「秋の叙景は虚しくなりぬ」
そうだ。秋の景色を見ても何と言うこともない。それは寂しいからなのか?言葉にならないほど素晴らしいからか?それともメンデルスゾーンの曲が『秋』を代替したからか?いずれにせよ上の句、下の句、その取り合わせは当社比で完璧に近い。いまのところ最高傑作と言えよう。

ところで帰りの道は閉ざされており アポロ11号無事帰還せり

これも先述の『下の句遊び』でできた短歌だ。元の下の句では「アポロ8号」だったが、破調を気にせず「アポロ11号」とした。そちらの方がわかりやすいし、上の句との取り合わせを考えたときにポエジーが生じると考えたからだ。

まとめ

この記事、特に自分で自分の短歌をセルフ解説している箇所を読んでちんぷんかんぷんな読者がいるかもしれないが、安心してほしい。KOHHを聴こう。実際筆者もひと月前までは短歌の講評を読んでみても、短歌に関するブログ、歌集に手を出してみても何を言っているのかわからなかった。

要は短歌はゲームなのだ。小説や批評、もしかしたら散文詩などのように「語る」言語芸術とは全く違う。限られたレギュレーションのなかでどれだけ叙情を排して適切な言葉選びをするか、それが短歌である。そして、それを短歌界の外にいながら体現しているのがKOHHであり、私たちは彼の「うた」をフロウとともに聴くことで身体化できるだろう。

KOHHを一日中聴くだけだ。ただそれだけで今までよく分かっていなかった皆さんも短歌を理解できるだろう。そして、筆者が何言ってるかも分かるようになり、自分で良い短歌を詠めるようになるだろう。KOHHを聴けばすべて良くなる。筆者が保証する。

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