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文化の弊害としてのクリエイター/静岡県浜松市における事例から

 一般にクリエイターは文化振興に役立つと信じられている。そのため各自治体では文化振興のためにクリエイターへ仕事を依頼するケースがある。しかしクリエイターは文化及び文化振興にとっては弊害にしかならないことを私の住む静岡県浜松市の事例から述べる。
 ただ、浜松市のクリエイターのなかには私の敬愛する知人友人もいるため、幾分かの配慮をしている。そのため舌鋒の鈍い記事になっていることは否めない。


文化とはなにか?

 まず文化とはなにかについて述べる。以前に記事「浜松市は文化不毛の地か? 」で「文化は自らの地域の文化を卑下するためではなく自らの地域の文化を尊大なまでに誇るための道具だ」と使用目的からの定義をした。ここでは文化の発生的定義について考える。
 文化の定義については類似することばである文明とともに小倉紀蔵『日本群島文明史』ちくま新書の定義に従う。

文明とは〈2〉の行為である。

小倉紀蔵『日本群島文明史』ちくま新書

文化とは、文明の切断の驚きや衝撃がひとつに収束していくプロセスである。つまり〈2〉が〈1〉に収斂していくプロセスである。

小倉紀蔵『日本群島文明史』ちくま新書

 かんたんに書けば、ものを手づかみで食べはじめれば手づかみではない食事と手づかみの食事の〈2〉となる。やがてほぼその集団が手づかみで食べるようになれば〈1〉である。さらにそこへ箸が入ってくれば手づかみと箸の〈2〉になる。さらにその集団がほぼ箸で食べるようになれば〈1〉である。そこへフォークが入ってくると文明開化の〈2〉になる。このように文化と文明は相互に影響しあい、集団の状況は文明と文化を行ったり来たりする。それでも文化は〈1〉であり、文化振興とは〈1〉を目指す運動である。

クリエイターは文化か文明か

 幼い頃はみんな好きに絵を描いていたはずだ。幼少期はたいていみんなが画家の〈1〉の状況だ。しかしこの世界には画家という商売があるらしいことがその年代へ知れ渡ると、絵を描く行為を「やめる」動きが出始める。画家になるのか、ならないのかを選ぶ〈2〉という文明的状況になるからだ。私もいまは無き文学部を受験するとき、親から「小説家になるのか?」と訊かれたものだ。また2024年にアクト・アート・ストリートで私が詩歌の展示をしたときに在廊していたら、いわゆるクリエイターと呼ばれる鈴木萌子さんがお子さんに「こういう仕事もあるんだよ」と言った。私は「仕事ではありませんけれどね」と脇から告げた。なるのかならないのか、目指すのか目指さないのかを二分するクリエイターというシステムは〈2〉の存在であり文明と言える。
 もちろん文明は悪いものではなく、創造的な活動のためには必要なシステムである。しかし、すくなくとも文化ではない。

ハママツクリエーターズフェスと浜松クリエーターズファイル

 クリエート浜松=浜松市文化振興財団が主催したハママツクリエーターズフェスは少なくとも2025年のvol.2までは出展クリエーター=クリエイターを公募せず、クリエイターとそれ以外とを分けていた。だからいくら子ども向けのイベントを企画しても、クリエイターの存在が弊害となり子どもへなるかならないのか、目指すのか目指さないのかという選択を将来的に強いる〈2〉の文明的イベントとなってしまっている。
 もちろん浜松市文化振興財団が将来的に市民全員がクリエイターと呼ばれる状況へ持って行くような態度を示せば文化的に問題はなかった。しかし財団のなかにある浜松アーツ&クリエイションが2025年に刊行した『浜松クリエイターズファイルvol.1』は、公募を行ったもののクリエイターを生業としているか否かという曖昧な基準で分断してしまった。これは、もし市民全員がクリエイターと呼ばれる状況となっても生業か否かで容易に〈2〉へ分断される下地を作ったのであり、『浜松クリエイターズファイル』の企画・編集サイドで文化に知見のある人の発言力が強くなかったと推測できる。デザインの敗北である。仮に『浜松クリエイターズファイルvol.2』なんて命名があがり、企画・編集サイドもvol.1の参加クリエイターも難色を示さないのであれば、より危機的な状況になる。それは浜松市の生業クリエイターに文化的にものを考えられる人が皆無であると表現しうる事態になるからだ。

左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、つねに全体性の削減へ向うのである。

三島由紀夫「文化防衛論」『文化防衛論』ちくま文庫

 三島由紀夫の予見のように、浜松市におけるクリエイターがらみの文化政策は市民の文化を分断し、その全体性を削減しようとしている。
 浜松市の文化はクリエイターの自滅によって危機に瀕せられている。クリエイター以外は何もしていないのにね、いや、何も反対してこなかったからか。

クリエイターによる特権階級意識

 2025年7月17日にthreadsのホーム画面に次のような投稿が表示された。

浜松の詩人だかなんかしらないけど、部外者が勝手に他人のイベントの採点しているのすっごく下品だと思う。久々にいらついてしまった。

@siphongraphica 2025/07/17

 サイフォン・グラフィカというのは宮下ヨシヲさんというグラフィックデザイナーを名乗る方のアカウントだという。いわゆるクリエイターである。「浜松の詩人」が誰かは定かではないけれど他人のイベントの採点=批評をしている浜松市在住の詩人なんて私くらいなもので、おそらく私の「このクリフェス、ふつうのクリエイターによるふつうの展示会なのだけれど」という投稿への反応だろう。上の投稿の「採点」部分については「数字だけが力をもち、文化芸術の活動が文化芸術自身を疎外する。そのため批評を採点とみなしてしまうこともある。」ですでに述べた。
 冒頭の「浜松の詩人」については、たとえ対象が私でなくても、宮下ヨシヲさんの失態であるし、それに「~だかなんかしらないけど」とぼかしてあるのであまりふれない。すくなくとも芸術の核心でありながら芸術の中心から疎外された詩に携わる詩人はアートイベント企画者であれば膝を屈してでも採点=批評をお願いすべき存在であることは、人間生命の核心であるけれど人間社会の中心から疎外されていた女性に人間社会を批評する資格があるのと同じくらい明白である。そうでなくても「浜松の~」と対象が浜松市民であると知りながらその採点=批評にいらついてしまうのは「文化の担い手となる市民の満足度を高め」る取り組みをするクリエート浜松=浜松市文化振興財団主催イベントにかかわる人物として本末転倒以外のなにものでもない。
 長くなったけれどここで注目したいのは「下品」である。言うまでもなく『観無量寿経』に書かれた九品往生、九段階の下三つの階級だ。そのうち最下位階級である下品下生は「五逆十惡」をした人とされる。つまりこの「下品」という階級を示す言葉から宮下ヨシヲさんの(自らが属するクリエイター・デザイナー階級とその他人種のあいだには明確な階級差があるので他人種による特権階級への反逆を「五逆十惡」と見なしてそれへの罰として一番下の階級におとしてやるぞ)という階級意識が透けて見えるのである。

siphongraphica 宮下ヨシヲさんのスレッド

 引用したthreadsの投稿は、文化の弊害であるクリエイターによる特権階級意識の好例である。

クリエーターによる文化の商品化と疎遠になった文化

 着物や茶道や生け花は日本文化とされる。しかし日本人からは疎遠なものとなっている。それは高額な着物や着付け師や家元制度や着付警察といった文化の商品化が高度なまでに進行しているためだ。そのため自民党総裁会談写真の背景に映りこんだ生け花さえ「イケバナ協会の先生に依頼して欲しい」と言われ、うかうかとふつうの日本人が日本文化に携われない状況がある。
 かつて私の子どもが、いわゆるクリエイターと呼ばれる遠州天狗屋さんのイベントに参加して、実に自由に張り子を塗っていたのだけれど参加費が高額だったために、細君が手を入れてカタチにしたという事があったという。遠州天狗屋さんに限らず、浜松市に限らず、クリエイターは数千円にもなる高額な商品を販売している。いくら「縁起物」と言われても私は「高いね」と思う。子どもがのびのびと張り子を塗れる状況にはない。
 もちろん文化なんか知ったことではないクリエイターにとっては「高いね」なんて文句を言う客なんて排除したがるだろう。「文化のために」というお題目を掲げ文化を食い物にして商品化して高額で売るクリエイターが、その結果として商品化された文化から購買力のない客を排除する。こうして文化はますます市民から疎遠なものになる。文化は自らの地域を誇るための道具だったのに、その目的を果たさずクリエイターを食わせるためだけの道具になってしまう。和装や茶道や華道がそうなっているように。
 浜松市の文化もそのような状況になるだろう、いや、なっている。最近公開された「まちのPlay Loom」も呑気に「浜松市で活動するクリエイターが大集結!」と掲げてあり、内容を読むと数人は目新しい名があるけれど、おおむねすでに見たようなクリエイターが名を連ねている。これは浜松市や企画者たちの文化的な企画力に欠けているところがあるからだ。
 文化は市民から加速度的に疎遠になっていく。

わずかな希望

 では、浜松市では誰もクリエイターという文明システムを助長させるだけで誰も文化を顧みていないのだろうか? そんなことはない。静岡県西部の文芸誌『断食月』創刊号には冒頭に

みんなが詩人であり、
みんなが芸術家だと、
私は考えています。

文芸誌『断食月』創刊号

と書いてある。また、つじむらゆうじは詩幣の参加者へ誰でも未就学児にも「あなたはアーティストですよ」カードを渡していた。効力はあやしいけれど、このように分断を起こさず〈1〉を目指す文化へ気配りしている動きは浜松市にある。文化への企画力は微かだけれどまだ浜松市で息をしている。

市民の叛乱を起こそう

芸術という領域は、簒奪によって集められた素材を料理し、組み直して構築された、生産体制=権力と文化の疎外を正統化する物語である。世間に流布している、芸術史、美術史、文学史などといったストーリーは、まさに盗品を寄せ集めたものを時系列に沿ってつぎはぎして組み立て直して練り上げられた窃盗犯による絵巻物であり、それ自体われわれの生を疎外する壮大なスペクタクルなのである。

芸術は同化言説によって作られた文化領域である。」泥沼通信

 生きている人間で文化を担わない人はいない。そして特権階級意識の強いクリエイターは我々の文化の窃盗犯であり、寡占者だった。こんどは我々がクリエイターから盗んで奪い返す番だ。しかしただ奪うのではなく、慈悲深い市民たる我々はクリエイターへ名誉をくれてやろうではないか。まず心を鬼にして商品化された文化、高額なクリエイター作品を買うのをやめよう。その不買運動のうえでクリエイターの仕事を文化にしてあげよう。たとえば市民全員がクリエイターのイラストをトレースすれば、市民全員が自作の張り子を縁起物として家に飾れば、市民全員がそれっぽい布に色を塗って天井に飾れば、クリエイターたちの作風が浜松市の文化になる。クリエイターが文化の弊害ではなくなる。そうなれば、クリエイターたちの銅像を浜松駅の片隅にでもたてられるかもしれない。ねえ、そうしてやろうよ。

剽窃は必要である。進歩はそれを前提とする。

ギー・ドゥボール、木下誠訳『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫

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