【小説】ラプソディ・イン・ブルー②/「#創作大賞」参加作品
「あはい、いま合流します!もう見えてます。あと30秒でつくんでいったん切ります!」
黒いパンツスーツに身を固めた菊地原桃花は、スマホから耳を離し、砂浜を全力疾走していた。足元はいでたちとは似合わないスニーカー。背負った黒いリュックサックにはノートPCが入っていて、ゆさゆさと振動するので走りにくいことこの上ない。
向かう先には爽やかに広がる空と、青い海。
だがその波打ち際には、銀色の帯が広がっている。打ち上げられた魚の群れってのはあれか、と心の内でつぶやきながら彼女はなおも駆ける。
「おーい、桃ちゃーん!こっちこっちー!」
菊地原を呼ぶのは道都テレビの女性アナウンサー、橿原葉子だった。その傍らには大柄なベテランカメラマンの大崎と、小柄な音声マン・盛本が佇んでいる。
「オンエアまであと8分だよー!」
「お待たせしました!」
時刻は午前4時52分。
はあはあと弾む息を整える一瞬間、菊地原の思考が白く飛ぶ。
ほぼ1時間前に呼び出しの電話を受けた3年目の記者・菊地原は即座にタクシーを呼び、ここ、小樽市銭函の海岸まで辿り着いたのだ。
来る途中にデスクの有村からの電話では、「なまら早起きワイド」番組内での中継コーディネーションを指示されていた。
一昔前までは、こうした時には中継車を現場にだして手稲山にある電波塔に向かってマイクロ波を発報し、中継体制を構築していた。
だが技術の進歩は目覚ましい。
現在は携帯電話の電波を使用する中継機材「LIVEーU(ライブユー)」を取材カメラに着装するだけでテレビ中継が可能となっている。
一方で、簡易になったが故の新たな弊害も生まれている。
中継車を使用するケースであれば、ドライバー、TD(テクニカルディレクター)、VE(ビデオエンジニア)、D(ディレクター)、FD(フロアディレクター)といった人員が必要となるが、LIVEーU中継の場合は極論でいうとカメラマンとしゃべり手がいれば中継自体は可能になってしまう。だがそうした場合は、現場での『ディレクション』や中継の始まりや終わりの時間を管理する『コーディネーション』の役割を誰が受け持つのかが曖昧になってしまう。
「そんなわけでさ、菊地原にはまず、コーディネーションやってほしいんだよ」
「コーディネーション、ですか。私、やったことないです」
不安げに答える菊地原に、
「大丈夫、大丈夫!サブからのTK(タイムキーパー)の声を送るからさ、乗り降りだけ合図してあげて。十秒(とうびょう)前からのラップも出せるとなおいいけど」
有村の声は軽快だった。
「わ、かりました。やってみます」
「あとさ、小樽駐在の斎藤カメラマンには周辺取材をお願いしてるから、中継終わったらそっちと合流してもらいます。入れ替えのクルー出すかどうかは編集長と話してからだな。詳細はアプリで送るからスマホかPCで確認して。では、よろしく!」
入社3年目の記者・菊地原は、有村が面倒な事態であればあるほど、明るい声で指示を出すことを知っていた。声色から察するに、今回の難易度は『十段階中の5』といったところか。
「間に合ったね、桃ちゃん!」
その声で菊地原は、浮遊していた意識を取り戻す。
「あ、は、はい……なんとか。……すごいですね、魚……」
波打ち際にギラリと光る魚の山は、自然の力で積み上げられたものだ。陸地から50メートルくらいまでの海中には身動きひとつしない魚体がひしめいていて、波が寄せるたびに山のカサを増し続けている。
3年先輩にあたる女性アナウンサー・橿原は、菊地原の肩を両手でガシッと抱えるように掴んだ。
「がんばろうね!」
「わたし、コーディネーションは初めてで……」
「私たちは15分前について、一回リハで流れはやってるから。冒頭の枠は完生(かんなま)で2分って聞いてる。乗り降りだけ教えてくれればいいからね」
サブキャスターとはいえ、日々の生放送をこなしている経験が自信をみなぎらせていた。菊地原は少し心臓を締め付けていたプレッシャーが緩むのを感じる。
と、菊地原のスマホが振動した。あわててポケットからイヤホンマイクをだして接続して電話にでる。
「菊地原さんの携帯ですね。こちらNサブ音声卓です。この電話でインカムラインつなぎますね」
ほどなくして、本社サブのコーディネーション担当者からの声が聞こえてくる。
「菊地原さん?高橋です。このまま電話は切らずに、つなぎっぱでお願いします。5分前なんで掛け合いチェックやると伝えてください。あと、音声さんにマイナスワンがいってるかどうか聞いてもらっていいかな」
菊池端はその場で復唱すると、音声の盛本は
「N(エヌ)マイナスワンね、来てる来てる」と答える。そのまま盛本は橿原と大崎に
「掛け合いチェックお願いしまーす」と声をかけた。
大崎のカメラは橿原に向けられ、橿原はスタジオキャスターと挨拶がてらのトークを始める。
「あー、はい!聞こえます。こちらの声はどうですか?……そうなんです。びっくりですよね……」
橿原がスタジオのキャスターとやり取りをしている間に、菊地原は以前に研修で聴いた放送用語の知識を呼び起こす。
掛け合いチェック、とはスタジオと中継先のしゃべり手が、お互いの声を聞きあって会話が可能かどうかをチェックする作業のことだったか。
たしかLIVEーUの場合は2~3秒ほどのデータ送信ラグがあるから、基本的には中継はこちらから一方的にしゃべる時間が長くなるはずだ。
……Nマイナスワンとはいったい、なんだっただろうか。
「掛け合い、オーケーです。ここで、3分前。冒頭、情報カメラで各地の天気を1分でやってから1項目目にVTR1分あって、その受けで呼ばれますんでよろしくお願いしまーす。完生2分、こちらで逆読みします」
イヤホンに高橋の声が響き、わかりましたと返事をして電話を切りかけるが、直前で気づく。
繋いだままで、と言われていたのだった。危ない危ない。
「なんだって?」と大崎が聞く。
「えーと、天カメリレーのあとニュース1項目目にVでまずこの話をやって、そのあと呼ばれます」
「オーケー。カッシー、立ち位置つくか。最初ちょっと逆光気味だからさっきよりも早めに前歩いて。回り込んで海バックにするから」
橿原はハンディのマイクを手に、指示された立ち位置につく。
薄いブルーのウインドブレーカーは有名アウトドアブランドのもの。ベージュのパンツに黒いレインブーツのいでたちは細身をひきたて、野暮ったさを感じさせない。
着こなす人によって、ずいぶんと変わるものだなと菊地原は思った。
彼女の服を、私が着たならどうなるか。魚屋のバイトのような自分の姿を想像して幻滅したが、反省しなければならないのはそこではなく、海岸にスニーカーで来てしまった迂闊さのほうだと気づいた。
すでに靴の中は、隙間から入り込んだ砂のために、一歩あるくごとにじゃりじゃりした厭な感触が足の裏全体に広がる。なぜ長靴を履かなかったのか。あるいは持ってこなかったのか。想像力の欠如だ。
「番組スタートまで、1分前」
高橋の声が耳に響き、菊地原はあわててそれを周囲に伝達する。
「あのー、盛本さん?Nマイナスワンってなんでしたっけ?」
「え、いま?今それを聞くの?もう番組始まるのに?」
肩にかけたミキサーバッグを覗き込みながら、微調整をしていた盛本は顔をあげぬまま返事をする。
「あー、えーとさ、音声卓にフェーダーがあるじゃん?出演者ごとにマイクフェーダーを割り振るとして、n人の人間がいたらn個のフェーダーが必要だよね。で、その中から自分の声を……」
「番組スタートまで、30秒前」
「ごめんなさい、聞くタイミング間違えました!またあとでお願いします!」
「いや、あと15秒で説明終わるよ」
「あの、内容がまったく頭に入ってこなくって。n人の人間、あたりでもう無理だなと」
「いや、まだいける。要は自分の話し声が時間差で耳に入ったらしゃべれんだろう、ってことで……」
「番組スタートまで、10(とう)秒前、ここのつ、はち、なな……」
「あ、もう番組始まります!」
やがて耳には軽快な番組のオープニング曲が聞こえ始める。
