【短編】昨日から (4064字) #シロクマ文芸部
「昨日からなんだか変だよ。どうしたの」
「別にどうもしてないさ。由香の気のせいじゃないか」
「ううん、違う。昨日は帰ってきたらすぐ出かけちゃったし。帰ってきたのは夜中だよ。一昨日までの直也じゃない。何かあったんでしょう。話してよ」
「何もないってば。朝から嫌な気分になるじゃないか。もういいよ。仕事行ってくる」
「直也。朝ごはんは…」
「そんな気分じゃない。いらない」
朝、出かける前に直也と由香は夫婦喧嘩をしてしまった。結婚して三年目。まだ子供はいない。近所からも仲のいい夫婦と言われ、ほとんど言い争いなんてしたことはなかった。それが今朝突然起きた。
発端は、一日前。直也が仕事から帰宅した時だった。いつもなら明るく「ただいま」と声をかけて玄関から入ってくるのに、直也は何も言わずに急いで着替え、そのまま何も言わずに出かけてしまった。そして何事もなかったかのように深夜に帰宅。土がついた服を洗濯機に放り込み、そのままベッドに入り、由香に背を向けて眠ってしまった。そして、朝を迎えた。
由香は心配でしかたなかった。家事どころではない。洗濯機の中の服を確認するとどこかのマンションの鍵と思われるものが直也のズボンのポケットに入っていた。自分の愛する夫に何か起きてしまったに違いないと思った。裏切られているということが頭の片隅をよぎった瞬間、思わずスマホをとっていた。無意識のうちに電話をかけた。
「もしもし…」
「あれ、由香。久しぶりだな。どうしたんだ」
電話の相手は直也の親友、祐介だった。大学生だった頃、由香と祐介と直也は仲良しでよく一緒に遊んでいた仲間だった。ただ、当時直也には内緒で付き合っていた相手だった。二人ともそのことは今でも直也には秘密にしている。
大学を出た後、由香と直也は都内の同じ銀行に就職したが、祐介は単身でニューヨークに渡り投資会社に就職したのだ。距離の差が由香と直也を近づけ、直也はプロポーズし由香はその愛を受け取ったのだった。後悔どころか希望を感じた結婚だった。疎遠になってしまった祐介に知らせたのは、祐介が東京に戻ってきてからのことだった。祐介は驚いたが「由香が幸せになれるのならそれが一番だよ」といって後は何も言わなかった。
二人の生活に幸せを感じている間は、由香は祐介のことを思い出すことはなかった。ただ、直也のことを心配した時、思い出したのは祐介だったのだ。
「あのね、変なの。直也が…」
「えっ、由香。わかるように話してよ。一回深呼吸していいからさ」
以前と同じで祐介は優しかった。それが今の由香にはたまらなかった。スマホ越しに涙が止まらなくなり、話せる状態ではなくなった。祐介は何かを感じていた。
「由香。今話せるような状態じゃないみたいだね。学生時代によく行ってたカフェで待ち合わせしようか。そこで話を聞くよ。えーっと、急いで仕事を片付けてからいくから十一時くらいならカフェにいけそうだけど、どお」
「…うん、わかった。ごめんね…」
「謝ることはないさ。僕も久しぶりに由香の顔見たいし。できれば笑顔の由香がいいけどね。じゃ、また後で」
「ありがとう…」
こうして由香は祐介と会うことになった。祐介が東京に戻ってから二年が経っていたが直接会うのは初めてだった。
スマホを切った後、由香は少しだけ後悔し、罪悪感を感じていた。無意識に電話をかけてしまったが、直也を裏切っているようで心配になったのである。ただ、一方で会いたいという気持ちも心のどこかに潜んでいたのである。
鏡に向かった由香は涙を拭って化粧を始めた。次第に祐介に会える嬉しさが込み上げてくるのを感じていた。いつしか罪悪感は心の中の一番隅っこの引き出しにしまい込んでしまった。薬指の指輪を抜いてそっと洗面台においた。
「今日はあってくれてありがとう」
「いや、いいんだよ。それより何があったんだ。直也が何かしたんなら僕は許さないから」
「うん、実はね…」
由香は昨夜のことを祐介に話した。その時、カフェに設置されていたテレビからニュースが流れてきた。
『昨夜午後十時ごろ、何者かに殺害された女性の遺体が荒川の河川敷で発見されました。首には絞められた後があったということです。死亡推定時刻は同日の十八時から二十一時の間と見られており、警察では殺人事件として現場周辺の聞き込みを中心に捜査を開始しました。なお、被害に遭われた女性は、夕焼け銀行曳舟支店勤務の藤巻桜さん、二十六歳とのことです』
由香は驚いた。直也が勤務している銀行だった。由香は結婚と同時に退職してしまったため、報道されている被害者は知らないが、直也が勤務している支店だったことに驚いた。ポケットの中に入っていた鍵が脳裏に浮かんだ。更に事件が起きた時、直也は外出していた時間だったということも重なり体が小刻みに震え出した。
「どうしたんだ、由香」
由香はテレビのニュースを指差した。
「えっ、夕焼け銀行って直也が勤務しているとこだよね。まさか同じ支店?」
由香は小さくうなづいた。祐介は「まさか」と思いながらも、目の前の由香が真剣に悩んでいるのを見てなんとかしなければと感じ始めた。祐介は咄嗟にスマホを取り出し、自分の会社に連絡を入れた。
「あ、橘です。ちょっと私用ができてしまったので急で申し訳ありませんが、このまま半休を取らせてください。午後はクライアントとの打ち合わせなどは入っていないので仕事も問題ありません。よろしくお願いします」
由香は電話を聞いて、自分のために休みにしてくれたと思い、少なくとも一人で辛い時間を過ごさなくていいんだとホッとしていた。
「ありがとう、祐介…私のために」
「いいんだよ。どうせ僕はまだ独身だから気にしてくれる人もいないしね」
その時、由香のスマホが鳴った。直也からのラインだった。由香の顔から血の気が引いていくのを祐介は感じた。
「どうした、由香。悪い知らせか?」
「…今日は帰れそうにないって、直也から」
「え、仕事で徹夜になるっこと」
「そんなことは今まで一度もなかったわ。きっと、テレビのニュースに関係があるのよ。そうに違いないわ。私怖い」
「わかった、じゃあ、今日は一日僕がついていてあげるよ。心配しないで」
カフェを出た二人は、タクシーに乗って恵比寿にある祐介のマンションに向かった。由香は祐介の暮らしぶりは知らなかったが、マンションの前にきて驚いた。
「えっ、祐介、ここに住んでるの」
「ああ、一応ね。でも賃貸だよ。さあどうぞ。温かい飲み物でも準備するから」
二人はエレベーターに乗り込み十五階で降りた。
「ここだよ。そんなに広くないけど。まあ住み心地はいいところだよ」
「お、お邪魔します」
祐介はリラックスさせようと、赤のホットワインを作った。イタリアのワインが好きな祐介は、セラーに常に十本程度のワインボトルを寝かせている。
由香は緊張しながらも心のどこかでこんな情景を望んでいた自分がいることを感じていた。直也のことは心配だったが、そのことを忘れさせてくれる空間だと思いたかった。そして叶うならこのまま永遠に時間が止まって欲しいとも心の奥底で望んでいた。
「はい。特製のホットワイン。好きだったよね、ホットワイン」
「ありがとう」
二人は軽くグラスを合わせて温かいワインを口に運んだ。
「よし、じゃあ、今日は時間を忘れよう。昔に戻って楽しく過ごそうよ。たまには現実逃避も必要さ。もしかすると逃避した先が居場所になるかもしれないし」
「えっ、どういうこと」
「いや、気にしないでいいよ。上着も脱いでリラックスしていいよ。誰もいないんだし」
由香は改めて気づいた。この空間には二人きりなんだと。張り詰めていた緊張はワインを飲んだことにより少し和らぎ始めていた。微かに頬が熱っているのを感じている。
気がつけば日が沈み、窓の外は夜の街の明かりが宝石のように光っていた。由香はこうなることを望んでいたのかもしれない。指輪は自宅の洗面台においてきたのだから。
祐介の腕の中で由香が眠り始めた頃、新たなニュースが流れていた。
『荒川の河川敷で発見された藤巻桜さん、二十六歳を殺害した犯人が逮捕されました。近くに住む自称ユーチューバーの横島謙三、三十三歳がカメラを向けたことに注意した藤巻さんをかっとなって殺害したということのようです。横島はこれまでも何回かトラブルを起こしており、警察でもマークしていた人物だったようです』
その頃、夕焼け銀行曳舟支店では極秘の会議が支店長と直也の二人だけで行われていた。
「支店長、犯人は捕まったようですが藤巻桜さんのご実家にはどう対応しましょうか」
「困ったよな。柳下くん、なんとか藤巻くんの実家の口座はそのまま当行に預けてもらうように上手くやってくれないかな」
「そんな、もう無理ですよ。だって、支店長と不倫していたんでしょう、藤巻さんは。そのことが今回の事件の捜査過程で明らかになってるんですよ。支店長が藤巻さんとあっていなければあんな場所に藤巻さんは行かなかったんですから。もう、僕にはどうすることもできませんよ。支店長のアリバイづくりに協力したことは間違いでした」
「すまん、本当に悪かったと思っているよ。夜に呼び出してキャッチボールなんて普通はおかしいもんな。でも近くにカミさんがきていたことがわかったからしかたなかったんだよ。だから一番近いところに住んでいる君にお願いしたんじゃないか。君に桜の部屋の合鍵も預かってもらったし」
「あっ、しまった。合鍵。ズボンのポケットに入れたまま洗濯機に入れてしまいました」
直也は慌てて自宅へと向かった。しかし、ついた家には明かりがなく誰もいなかった。胸騒ぎが直也を襲った。くらい部屋に入り洗面所に向かい照明を付けた。そこには、ポケットに入れておいた藤巻桜のマンションの合鍵と由香の指輪が仲良く並べて置かれていた。
由香にとってみれば変わったのは昨日からではなかった。昨日のことが引き金になっただけだったのかもしれない。
了
あとがき
「昨日から」の書き出しは、いろんなパターンがあるなと思いました。でも言葉の始まりから連想されるのは「変化」。それなら「心」だろうということを思って、お話を作ってみました。ちょっとしたすれ違いは人生を変えてしまうものかもしれませんね。
ただ、今回は一気に書き下ろしてしまったせいか、ちょっと長くなり、ショートショートの文字数を超え、短編の文字数になってしまいました。
表紙の画像はCHATGPTに作ってもらいました(内容と誤差があるのはご愛嬌)
下記企画への応募作品です。
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