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【SS】 レーサーだった兄 #シロクマ文芸部(ありがとう)

 ありがとう。僕は自分自身に感謝した。もうすぐ一年が終わる。始まったばかりだと感じていたのに、あっという間に年の瀬になってしまった。一年間、私の体は新たなトラブルが出ることもなく、一年を持ち堪えてくれた。だから、僕は自分に「ありがとう」と言った。また生きて正月を迎えられるのだから。もちろん、こんな自分のわがままを聞いてくれた妹やスタッフのメンバーには当たり前のように感謝している。本来ならその感謝を最初に表すべきなのだろうが、今年はふと自分の体も頑張っていたんだということに気がついたのだ。

 僕の仕事はレーサー。世界中のレース場で時速三百キロを超える速さで走り抜けるのが仕事だ。もちろん、クラッシュによる事故に巻き込まれたこともある。足にはボルトが何本も入っていた時期もある。それでも、なんとかレーサーとして復帰し、現役を続けている。

 今年のレースは終了した。振り返ると一度だけ上位に入ったが、あとは惨憺たる結果ばかりだった。自分でもそろそろ限界だと感じている。レースは年間二十四回開催されるが、僕が出場できたのは二十回だった。マシントラブルや予選落ちもあり全レース出走とはいかなかった。でも、気持ちは満足している。

 今年のはじめ、定期通院で通っている病院の医師から僕は余命宣告を受けた。体を酷使する仕事を辞めないと僕の体は年内持つかどうかだと言われたのだ。僕は悩んだが、自分への挑戦という意味を込めて今年いっぱいは耐えてみせると根拠のない誓いを自分自身に立ててレースに挑んできた。結果には繋がらなかったが、何とか頑張ってくれた自分の体には感謝しているのだ。そろそろ、自分の体を酷使する状態から解放する時がやってきたと今は感じている。

 時折揺れる視界、まっすぐに歩けなくなる頻度が増加して来ている。このままハンドルを握り続けると他のレーサーまで巻き込んでしまうかもしれないと感じた。だから、もうレースには戻らないと決意した。年が明けたら、南フランスの葡萄畑のそばあたりで静かな暮らしを始めるつもりだ。その時には時速三百キロの世界からいきなり時速四キロの世界へと変わることになるが、そんな生活を最後まで楽しんでみたい。引越しの準備の時は、妹の夢にも手伝ってもらいたいと思っている。

「みなさま、今日は兄の速水翔とのお別れの式に参加いただきありがとうございます。生前兄は、只今読み上げたような内容を私に話してくれました。私にとっては、とても尊敬する兄でした。レースでは注目されることはあまりありませんでしたが、過酷な世界に身を投じて病魔とも戦いながら懸命に生きて来ました。残念ながら、最後の希望だった南フランスへの引越しは叶わないまま旅立ってしまいました」


 速水翔の肉親は妹の速水夢だけだった。夢は悲しみを堪え、翔の言葉を代読し気丈にも挨拶をしていた。残念ながら速水翔の命は年を越すことはできなかった。だが、その死を惜しむかのように多くの人々がお別れの式に集まってくれた。そして、集まった人々は口々に「ありがとう」と言いながら、中央に飾られて笑っている速水翔の写真を見つめ、涙していた。

 このあと、妹の夢は兄が望んでいた「南フランスでの時速四キロの生活」を実現すべく、単身で南フランスに渡り、兄の供養にするつもりだと言っていた。


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