空に解き放った心 - 第二話 里香の存在
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里香の存在
しおりに会いたくてたまらないと日々思っているときに、しおりから一通のラインが昼休みに突然届いた。高鳴る胸を押さえてスマホのラインを確認した。しかし、それは期待とは真逆のメッセージだった。
「もう、これ以上続けるのは無理。私の心はあなたから完全に離れてしまったわ。これ以上はもうどうにもならないし何とかしようとも思わない。これで別れましょう。さようなら」
健二は、信じられない内容のラインを受け取って呆然とした。顔からは血の気が失せて、スマホを持つ手は震えていた。明らかに誰がみても何か嬉しくないことが起こったということが明白だった。その様子を見ていたいつも適切にデータを分析してまとめてくれるデータアナリストの里香は、いつものリーダーと様子が違うと感じてすかさず声をかけた。
「リーダー、かなりお疲れのようですね。今日は、プロジェクト上の問題も一段落したので、私に付き合ってもらえませんか。これまでリーダーに提供してきた分析データも結構大変な仕事なんですよ。たまには、労ってもらわないと」
「ああ、そうだね。しかし、今日は気分が最悪でそんな気にならないんだよ」
「だ・か・ら・ですよ。そんな時は心を切り替えて休ませてあげないと体が持ちませんよ。それに今日を逃すと、いつになるか分からないし。毎日何らかの問題が発生するじゃないですか。だから、今日、行かないとダメなんです。それに明日は休みですよ」
「あぁ、なるほど。流石はデータアナリストだね。よし、分かった。気分は沈んでいるので盛り上がらないかもしれないが、食事に行こう」
「そうこなくっちゃ、じゃあ、私の方でお店の予約しちゃいますね」
「ああ、頼むよ。あんまり高くないところでね」
「はーい、じゃあ、六時に一階のロビーで待ち合わせしましょう」
「わかった」
健二は食事どころではない状態だったが、部下の手前あんまり無碍にもできないし、ちょっとアルコールを入れた方が気持ちが落ち着くかもしれないなと前向きに考えることにした。まだラインへの返信をしていないことが気になったが、なんて返信すればいいかも思いついていないということも対応を遅らせることになっていた。
考えてみたら、里香の分析データに随分助けられているのは紛れもない事実だし、その情報がなかったら、これまでの的確な判断は難しかったかもしれない。もっと、部下を大切にしないといけないなと考えて、少し前向きになれる気がした。そう、嫌な出来事を違うことにすり替えて、しばらくの間忘れてしまおうと無意識の防衛本能が働いたのだった。やがて夕方の六時となり健二はロビーに向かった。すでに、里香は化粧をプライベートモードに切り替えてロビーで待っていた。ベージュのロングコートを身にまとい、ピンヒールで美しく姿勢を正して立っている姿はまるでトップモデルのような美しいオーラを放ち、一緒に歩くだけで羨ましがられるような気がした。一瞬、健二の心は揺らいだ気がした。
二人は、ロビーを出て、タクシーに乗った。やはり二人きりで歩くと目立ちすぎると考えたのだろう。歩いて行けない距離でもないが、里香は躊躇せずにタクシーに乗り込んだのだ。この行動力に健二はちょっと驚いた。まるでしおりみたいだな。これじゃ、どっちが上司かわからないな。里香はタクシーに乗り込むと迷うことなく運転手に行き先を告げた。
「京王プラザホテルまでお願いします」
「えっ、ホテルのレストランを予約したのかい」
「そうですよ。うるさくなくて静かに食事ができる方がいいでしょ」
「ああ、なるほどね、さすがだね」
細かいところまで考えてレストランも予約したんだなと感心していたら、すぐにホテルに到着した。おそらく歩いても十分か十五分程度の距離だ。ホテルのロビーに入り里香は健二を待たせてフロントに寄ってから健二とともにエレベータに乗り込んだ。予約したレストランは、二十二階にある「みやま」という和食レストランである。しかも、この日は個室を予約してあった。これなら静かに食事もできるし話もできる。料理もあらかじめ里香が会席のディナーコースを注文していた。至れり尽くせりの対応だ。中居さんの案内を受けて個室に入り、コートを預けた。個室はなぜか六名用の掘り炬燵の席でとても広かった。窓から見える札幌の街の景色も素晴らしく綺麗な夜景だったのだがに健二の心には響かなかった。どうしてもしおりからのラインのメッセージが気になって仕方無い。何とかコンタクトしてみたいという衝動に駆られるが、今は目の前に里香がいるので出来そうもない。そんな気分を見透かしたように里香はすかさず中居さんに飲み物の注文を伝えた。
「すみません。日本酒の男山をお願いします。ワイングラスがあれば二つお願いします。ワインっぽく飲みたいので」
「承知いたしました。常温の男山をお持ちいたします。ワイングラスもご用意させていただきます。すぐにお持ちいたしますので、お寛ぎになってお待ちくださいませ」
「はい、よろしくお願いします。健二さん、座りましょう」
「ああ、そうしよう」
「健二さん、今日はもう仕事のことを忘れましょうよ。私もスマホの電源切りますから、健二さんも切ってくれますか。そうすれば気にもならないし、邪魔もされませんから」
「あぁ、そうだね。その方が落ち着けそうだね。ちょっと待って、電源切るから」
電源を切るためにスマホを取り出し、その後しおりからのメッセージが来ていないかを無意識に確認していた。しかし、その期待は虚しく空振りした。仕方なく、電源をオフするため、スマホの左右のボタンを同時にプッシュして電源オフの表示をスライドした。どうしても諦めきれない気持ちが津波のように押し寄せている。しかし、里香が目の前にいて微笑んでいるので逆らうことができない。そのままスマホをカバンにしまい込んでしまった。心の中ではしおりの心がどうして急変したのかというより、自分の行動や言葉を振り返り、何かいけないことがなかったかと記憶をチェックしていた。健二は、しおりが離れるのは自分に原因があるからだと思い込んでいた。それだけ一途にしおりと向き合っていたのだ。しかし、里香はある程度状況を察しているので、健二の沈んだ心を何とか自分の方に向けて過去を吹っ切ってもらおうと思っていた。そのため、沈んでいることに対しては追及せずに何とか忘れさせようと試みていたのだった。
健二は、これまでリーダーと呼ばれていたのが健二さんに変わったことに気づいていなかった。それだけ自然な里香の対応だったのだ。それにしても、よく今日の予約でこんな部屋が取れたなと心の中で仕切りに感心していた。しかし、そのことについて聞いてみる勇気は持ち合わせていなかった。この辺りが健二のお人好しの部分である。程なくして、日本酒と共に最初の料理である先付けの胡麻豆腐に蒸したウニのあんかけ、黒豆が運ばれてきた。会席料理ということは、順に料理が持って来られることになるので個室であっても安心して楽しめるということまで里香は考えたのだろうかと健二は邪推していた。次第にしおりから届いていたラインの別れのメッセージのことが遠い記憶の中に封じ込められようとしているかのように、今という時間の中を過ごすことに健二の思考回路はフル回転していた。見透かしたように里香が先手を取って話しかけた。
「健二さん、今日のこの時間に乾杯しましょう。先付けのお料理も美味しそうですよ」
「ああ、そうだな。こうして美味しい食事ができることに乾杯」
「そうじゃなくて、私と食事をすることに乾杯でしょ」
「ああ、そうか、里香さんと食事ができることに乾杯、いつもありがとう」
「カンパーイ、さぁ、食べましょう」
「この日本酒、美味しいね。ワイングラスで飲むとちょっと雰囲気もいいね」
「そうでしょう。この日本酒は北海道の日本酒なんですよ。海外で大人気みたいです。毎年、なんとかっていう賞も取っていて、海外では日本酒のワインとして人気みたいです」
「へぇー、よく知ってるね。日本酒のこと」
「たまたま私は北海道出身だから、北海道のお酒を知っていただけで日本中のお酒を知っているわけでは無いですよ。誤解しないでくださいね」
「あぁ、そうなんだ、里香さんは北海道出身だったんだ。北海道のどこ出身」
「旭川なんですよ。知ってますか、旭川。男山はそこのお酒ですよ」
「旭川って北海道の真ん中あたりだよね、確か、旭山動物園があるところだ」
「ピンポーン、その通り。健二さん、ちょっと元気出てきましたね。もしかして、彼女さんとうまくいってないんですか」
「えっ、いやっ、そんなこと、別にどうでもいいだろ」
「いいえ、どうでも良く無いですよ。我らが憧れのリーダーが元気ないと私たちの給料にも影響しますからねー。言葉に出したほうが楽になりますよ。私でよければ聞きますから」
「あぁ、やっぱり顔に出てたかな」
「完全に顔に出てましたよ。だからこれじゃダメだなと思って強引に誘ったんです。迷惑だったかもしれないけど、見てられなくて、私」
「そうかぁ、色々と気を使わせちゃったんだね」
健二は、徐々に里香のペースに乗せられていることに全く気付くことなく、料理と日本酒を堪能し始めていた。最初の頃はショックのあまり食べることはできないと思っていたが、その感覚も次第に薄れ、心地よい時間の中に身を委ね始めていた。料理の方も、先付けから前菜に移っていた。桜鱒の南蛮漬け、いくらの醤油漬け、鴨ロース、数の子、ズワイガニ、エビの五色揚げ、昆布巻き、蓮根など和の料理がずらっと並べられ、健二は次第に料理を堪能し始めていった。この後は、お椀、お刺身、サロマ黒牛のステーキ、焼き野菜、キンキの磯辺揚げなど次から次に見た目も綺麗な日本料理が運ばれてきた。日本酒も自ずと進みながら料理を堪能していった。考えてみたら、最近はゆっくり食事をするということもなかった。コンビニの弁当で誤魔化す日々が続いていたので、この日のようにゆったりとした時間の中で食事をするということを健二はすっかり忘れていた。どんなに急がしてくても、食事の時間は大事にしないといけないなと反省までしていた。ある程度強引に誘われて里香と食事に来てしまったが、そのおかげで少しずつ本来の健二に戻っていけるような不思議な感情が健二の心を支配し始め、日本酒も進んだ
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【小説】空に解き放った心
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