空に解き放った心 - 第一話 激変した関係
激変した関係
しおりの環境に変化が起きたのはそれからしばらくしてからだった。有給休暇を取っていると元彼だった翔からお昼前に突然電話が入ってきたのだ。正確には、しおりが勝手に元彼だと思っていたのだけではあるが、すでに一年が過ぎていたので、なぜ今更連絡してくるのかと思ったのだ。最も翔のほうは元という意識はないので強引に話をしていった。
「しおり、長い間連絡しなくてごめん。翔だよ。実は渡米して世界中回っていたんだ。で、今帰国したんだよ。今、東京について社長と会ったばかり。よかった、しおりの携帯の番号が変わってなくて。今まで極秘のプロジェクトで缶詰だったんだよ」
「なにそれ。どういうこと。何で言ってくれなかったの」
「極秘のプロジェクトだったんだよ。だから消えるように渡米したんだ」
「そんな、今更そんなこと、ずるいよ」
「解ってる。そして今付き合ってる男がいるってことも。でも僕はずっと愛し続けていたんだ。嘘じゃない。今でも君と一緒になりたい気持ちは何も変わらない。僕と一緒になって、この会社を継いでくれないか。共同経営者として」
「えっ、なにそれ、どうゆうこと」
「今の会社にシステム開発を実施する事業部を作りたいと前から考えていたんだよ。そうすれば、コンサルと開発で一気通貫でビジネスも大きくできるし、人材の育成も今よりやりやすくなると思ってるんだ。親父には前から相談していたんだけど、今回のプロジェクトが終了したら具体化しようって話をしてたんだ。で、やっとプロジェクトも終了してこうして帰国したってわけ。もっとも、今回のプロジェクトというのが、そのための下調べだったんだけどね。日本に帰ってきたら流石にもう待てなくて、しおりにこうして電話をしたんだ。今社長への報告も済ませて、やっと電話してるんだ。そうそう、日本を離れる前に、社長にスマホを取り上げられて、やっと今戻ってきたんだよ。だからこうして電話できているんだ。詳しくは、そっちにいって会って話をするけど、しおりに少しでも早くインプットして判断しておいてもらいたかったかったんだよ」
「あなたって、いつも突然にすごい話をするのね」
「ああ、そうだね、そういう性分なんだよ。ごめん、でも知ってるだろ。ほったらかしにしておいたことの埋め合わせはするから、僕の願いを聞き入れてくれ。電話で申し訳ないけど、僕と一緒になってくれ。そして、これからの未来の時間を僕と一緒に過ごしてくれ」
「もう、なにそれ。電話じゃいやよ。全くいっつも勝手なんだから。とりあえず、こっちに戻ってきて直接言ってよ。顔も見えないのに返事なんかできないわよ。待ってるから」
「わかった。夕方過ぎくらいにはそっちに行けると思うから待っててくれ」
とんでもないプロポーズを受けることになったとしおりは考え込んだ。しかし、翔が私のことを忘れずにずっと愛し続けてくれていたのだということがとても嬉しかった。捨てられたわけじゃなかったんだということも何となく誇らしい気持にも似た感じで全身の血液が力を得て身体中を巡り始めるようだった。しおりの頭の中は、時間と共に翔のことで支配されていき、健二のことを思う心も少なくなっていった。翔との思い出が健二との思い出をオーバーライドし、つい先週の記憶かのように一年前の記憶が蘇ってきた。しかも、憤りを感じた記憶ではなく、私のことをひたすら愛していてくれた翔としての記憶にすり替わっていた。こうなると走り始めたしおりの感情を止めることをできるものは誰もいない。しおりも自分をよくわかっていた。二人の男性を同時に愛することなんてできない性格であるということを。そして今、自分の心を支配したのが誰かということも。
たった一本の唐突な電話でこんなにも心の配分が変わってしまうものなんだということにしおり本人も気づいていたが、どうにもならなかった。自分の中で止まらない翔への思いが堰を切ったように溢れ出してきているのだ。そして、さらにその気持ちに追い討ちをかけるもう一人のしおりがいた。しおり自身は、現実を直視するタイプで、翔が一年前に連絡もなく消えたことを事実として捉え、「捨てられた」と受け取ったときと同様に、自分の今後はどうすればより良い生活になり幸せになれるかということを考えているのだ。今、条件が翔から提示されていることを考えて、これから先の人生を楽しめるのはどっちの人生だろうと天秤にかけていたのだ。しおりは、割り切りの早い女性でもあるし、自分を一番愛する女性でもあった。したがって、その答えは明白だった。翔がしおりに会う時まで待つ必要もなくしおりは結論を出していた。この辺りの決断力は早くしたたかである。こんな考え方ができるから仕事上でも問題に対する対処が早く適切にできるのだろう。しおりはこれから新しい人生を歩む道の方に挑戦することを決意したのだ。しかし、それはあくまでもしおりの心の中での葛藤のことである。今後の新しい生活を優位に進めるには、翔がしおりの前に現れて、正式にプロポーズするのを待たなくてはならない。そうしてこそ、しおりが描いている未来へ向かってレールが敷かれるのである。
しおりは考えた。健二とのことはなんだったのだろう。翔が突然消えた時に目の前に現れた人のいいまじめなプロジェクトマネージャだったことを思い出した。そして、一時期は真剣に好きになっていたんだなと冷静に自分に問いかけていた。その答えは、寂しさを紛らわすにはちょうどいいなと思っていたことが、いつの間にか「好き」と勘違いしていたのかもしれないということにすり替えて考え始めていた。全く都合のいい解釈である。しかし、これも厳しいビジネス社会を生き抜いていくためのしおりの潜在意識がなせる技だった。自分の行動を肯定して決して間違ったことをしたわけではないと自分にいいかせ、新たな未来を受け入れやすくするための行動だった。しおりは、後悔と失敗が嫌いだった。失敗するにしても、自分は出来うる限り以上のことを実施してそれでも失敗したという状況なのだとこれまでも自分に言い聞かせ、心のくすぶりにならないように振る舞ってきた。相手のことを考えるわけではなく、もっとも大切なのは、自分自身だということを無意識の中で感じていたのだ。自分自身のこれまでの行動を何とか正当化して、今後の新しい生活を始めるために都合のいいように過去を考え直していたのだ。そして、翔を迎えるための一途な心を作り上げて翔の到着を待つことにした。
翔は、六本木にある会社の社長室で報告の後始末と今後の準備などをして夕方すぎには会社を出てタクシーをつかまえ、しおりのマンションに直接向かっていた。しおりのマンションは、お台場である。翔に誘われて会社を変わった時に、お台場に引っ越しをしていたのだ。もちろん、会社の寮ということで処理されているので、しおりの懐は全く痛まない。実は、このことも翔がしおりを釘付けにする策略だったのだ。途中で何か問題が起きても、住んでいるところを押さえておけば何とかなると思ったのだった。一年間も音信不通になることは想定外だったが、会社の経費で落とせるようにしておいて、しおりの住まいを確保したのはよかったと思った。住まいにはお金がかからない。そして給与は上がるという環境を提供して会社を去りにくくしておいたのだ。翔はしおりの性格をよく知っていた。今回も、「共同経営者」という言葉を使えば、どんな男と付き合っていたとしても、翔の元に戻ってくると確信していたのである。
翔がしおりのマンションに到着する前に、しおりは、健二との関係を終わりにしておこうと考えた。そのことで翔にマウンティングされるのは避けたかったのだ。あくまでも対等に話をし、ビジネスでもパートナーとしての立場を確立することを考えていたのだ。そのためには泥沼状態を作ってはならない。あくまでもサラッと綺麗に分かれる演出が必要だった。なので直接会話も避けることを考えた。
しおりは健二に簡単な別れのラインを送った。できるだけ簡潔に、冷たく受け取られる方が効果的だと考えたしおりは、サラッとした内容を迷う事なく送信した。「もう、これ以上続けるのは無理。私の心はあなたから完全に離れてしまったわ。これ以上はもうどうにもならないし何とかしようとも思わない。これで別れましょう。さようなら」
返事はどうでも良かった。どんな返事が来てもその後は、返信することはないと決めていたので、健二のアドレスを即座に削除して、二人のトークルームも削除してしまった。一旦決断したことに対し、しおりは驚くほど潔かった。一方的な別れのメールをひっくり返すことができない内容だということを相手に認識されるということだけを考えていた。そのためには、何も返信しないしできないようにしてしまおうと決めて実行したのだ。この後、翔が現れたら、新しいマンションを見つけてもらい、早々に引っ越しをして、スマホも買い替えることを一瞬にして計画した。全てを新しい環境でやり直し過去を振り返らなくていいように自分を追い込んでしまう決断力がそこにはあった。やはり、しおりと一緒に生活をしていけるのは翔しかしないのかもしれない。
そうしている間に、翔を乗せたタクシーはしおりのマンションに到着した。本来なら、自分の車で行くところだが、日本に帰ってきたばかりで自分のマンションにも戻っていない。仕方なく、タクシーでしおりのマンションに乗り付けたのだった。すでに二十時になっていて、すっかり暗くなっていた。しおりが住むマンションは三十二階だ。ロビーのインターフォンでしおりの部屋番号をプッシュして、オートロックを解除してもらう。オートロックが解除されると、エレベータが一階にいなければ自動的に一階に降りてくる仕組みになっている。そしてドアが開いたまま誰かが乗るのを待っているエレベータに乗り三十二階のボタンを押した。気が急いているせいかエレベータがやけに遅く感じる。やっと玄関の前について、もどかしげにチャイムを鳴らした。しおりはすでに玄関の前に立っていたのですぐさまドアロックを解除してドアを開け、翔が玄関に入ったら、すぐにしおりは翔に飛びついた。
「おかえり、翔」
「ただいま、しおり」
一年間の空白が一瞬にして埋まった瞬間だった。二人は、話をすることもなく抱きあいキスをしながらベッドルームに雪崩れ込んでいった。この瞬間に関係は一年前に戻り、二人は一つになった。しおりの脳裏には健二の記憶そのものがなくなってしまったかのようだった。そして、二人は、新しい日の出と共に新しい人生の第一歩を歩み出したのである。この二日後には、お台場のマンションを出て、二人の新しい住居として豊洲のマンションへの引っ越しをしたのだった。豊洲のマンションは、もともと翔が帰国する前に父親である社長が購入していた物件だった。もちろん、札幌にいる健二は知る由もない。健二の心を思いやるものは誰もいない。きっと、唐突な別れのラインになすすべもなく途方に暮れているのかもしれない。しかし、そうしている間に、しおりは再出発のために、スマホは電話番号も変更し、ラインのアカウントも新しく取り直したのだ。そう、一年間をまるで何もなかったかのようにしたのだった。健二は純朴で真面目なのだが一途な面があるのでも連絡しようとするだろうとしおりは思っていたのだ。都会で生活して生きていくためには、愛というものの扱いが難しいのかもしれない。誰しもが自分を大切にする都会での愛は無償の愛には程遠いのかもしれないが、それでも人は生きていくのである。それぞれに与えられた環境の中で判断しながら。そして、その時の判断が正しいのか間違っているのかは、数年後にわかるのだろう。少なくともしおりは今の幸せを噛み締めていた。
これからの翔との生活は、きっと波乱も待ち受けているだろう。しかも、仕事も新しい分野に投資をし世界中で開発プロジェクトの受注もしなければならないし、プロジェクトを成功裡に導かなければならない。しおりは、そんなPMたちの先導役にならなければならないのである。考えただけでもゾッとするほどの仕事量が想像できた。しかし、翔との二人三脚なら根拠はないが、できそうな気もしていたのだ。もちろん、翔の父親の存在も大きかった。父親が社長であり、挑戦することが大好きな性格だったので、翔もこんなに羽ばたけたんだろうと考えていた。今度は、しおり自身もその羽ばたきの仲間となって大きく飛んでやろうと意気揚々としていたのである。すでに、それ以外は見えなくなっていた。健二とのことは遠い過去の記憶としてしおりの脳の中で処理済みとなってしまっていた。
しおりは、健二を好きになった心の全てを空に解き放ってさよならした。全てを忘れてしまうために。そして、新しい人生の第一歩を翔と共に踏み出すことにしたのだった。
↓ 以下のマガジンにて、有料公開しています。
kindleでも販売中
☆ ☆ ☆
いつも読んでいただきありがとうございます。
「てりは」のnoteへ初めての方は、以下もどうぞ。
ここから先は

【小説】空に解き放った心
仕事で活躍する2組の男女の恋愛を描きました。それぞれが相手を得るために策略を実施します。それを登場人物4人の目線で異なる短編として書き上げ…
よろしければチップによるご支援をお願いします。皆さんに提供できるものは「経験」と「創造」のみですが、小説やエッセイにしてあなたにお届けしたいと思っています。いただいたチップは創作活動費用として使わせていただきます。
