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書いていたあの時間は、公開するとふっと忘れてしまい、書いたものだけが残る


ちょうど1年前の夏は、毎日noteを更新していました。

今思えばよくやっていたなと思うのですが、2024年8月31日まで、135日間連続で投稿していました。


やっていた時は、2000字前後の文章をだいたい朝に書いていたので、今思えば、結構大変なことをやっていたなという気がします。
ただ、書いていたその時の苦労は不思議なことにあまり覚えていないんですよね。

毎日を過ごしていると、いろいろなことに気がつきます。毎日書いているとその日にしか、書けないことがあることに気がつきます。明日になったら、あるいはちょっと時間が経ったら、忘れそうな気がしてしまって、それを忘れないための備忘録にするために、noteに書き溜めていく。
それだけで、もし仮に誰も記事を読んでいなかったのだとしても、未来の私からみたら、おおきな意義があったと気がつきます。

いま、ちょうど1年前に書いていた記事を確認するのが、一つの楽しみになっています。
ああ、一年前の自分はこんなことを書いていたのかと。ああ、この内容はよく覚えているなあ、今と考えていることは大して変わらないなあ、そんなふうにいろいろな感想を抱きます。

ちなみに、ちょうど1年前は、サイゼリアの元社長の本の読書感想文を書いていました。

この記事には、さらに昔の2020年1月に書いた記事が引用されています。

コンセプトとクリティカルコアのことが書いてありました。



コンセプトについては、つい数日前にも、自分の記事のコンセプトを考えていました。

考えていることは大して変わりません。

5年前に考えていたことは、1年前の記事にも書いてあって、1年前の記事に書いてあったことは、今考えていることとリンクしています。

自分が過去に書いた記事を見てみると、書いている内容を思い出したり、参考になったりするだけではなく、書いた当時の自分と対話をしているような感覚になります。

しかし、ひとつ、不思議なことに気がつきました。

書くのってそれなりに苦労してると思うのですが、そのときに苦労していたことは、書き終わってしまうとどうもすっかり忘れてしまっているんですよね。

過去の記事を見返すときの、その記事との対話は、書いている自分ではなく、書きあがった成果物との間でしているのではないかと。

何が言いたいのかというと……

例えば、今、私はこの文章をタイピングで打っています。実は、モスバーガーでハンバーガーを食べながら、外が雨で出ていくのが億劫なので、ノートパソコンを開いてつらつらと文章を書いています。

この次に書くことばは、どうしようかとあれこれ思案しながら、文章を紡ぎ出しています。

でも、このあれこれ思案している様子は、1年前のサイゼリヤの記事を書いていた時にもあったはずなのです。しかし、その記事をまさにタイピングしているときのことはすっぽりと忘れている。

不思議なもので、文章を書いている時間は、書き上がるまでは鮮明に覚えているのに、書き上がって外に出すとふっと忘れてしまう。書き上がった成果物だけが残る。

まあまあ脳みそを使いながら、ときにひねり出すようにしてまあまあ苦労しながら、あれこれ思案しているこの時間そのものは、書きあがって、公開ボタンを押すと、ふっと忘れてしまう。
大変さは消えていってしまう。書きあがった成果物だけが残る。

だから、1年前の記事と私が対話をするとき、私は、文章を書きながらあれこれ思案している私ではなくて、成果物としての書いてある内容と対話をしているのではないか、そんな感覚に陥りました。

そうして、こういうふうに気がつきました。

だからこそ、迷ったら、書いてみたらいいんじゃないか。


どういうことか。


つまり、こういうことが言えるのではないでしょうか。

書いたものを残しているからこそ、私は1年前の私や5年前の私と初めて対話をすることができる。
もし、何も残していなかったとしたら、もうその時の私と対話をすることはできない。なぜなら、何も成果物がないのだとしたら、思案だけだったとしたら、もうそれは消えてしまっているし、忘れてしまっているのだから。

そうだとしたら。

私から見て、つたないという理由で文章を書いて残すことを、しない選択を選んだのだとしたら、過去の自分と対話する術は、もう二度とないということになります。

そして、もう一つ。

いま、書けない。仮に、どうしてもなかなか筆が進まないのだとして、それでもあれこれ思案しながら、なんとかひねり出して何とか文章にしているのだとして、出来上がったそれを文章として公開したとき、私は、苦労して書いたことそのものはふっと忘れてしまうのではないかと思います。そこには、書きあがった成果物だけが残る。

そうだとしたら、書くことで私は過去の自分と対話する術を残すことができるだけでなく、そこには、書きながら苦労したことをあまり記憶に残すことなく、成果物だけを完璧に残すことができる。


そうだとしたら。

迷うのであれば、書いてみたらいいんじゃないだろうか。

書くことに苦労した自分ではなく、書いた内容のなかにある過去の自分と対話をする術を、書くことで手に入れることができるのであれば、それをやってみたらいいんじゃないだろうか。

書きあがった文章を公開したそのとき、あなたは、その記事をとおして、過去の自分と再び対話をする絶好のチャンスをまた一つ手に入れることができるのです。

私もまた、あれこれ思案をしながらこの記事を書いて、公開ボタンを押したら、あれこれ苦労しながら思案したことは忘れて、未来からこの記事を眺めることができます。

だから、少しだけ、もう公開ボタンを押したら、忘れてしまう書いているときの自分のために、そして、読んでいただいたあなたのために、ここでエールを残してみたいと思います。


書くことに迷ったのなら……、思いきって書いてみたらいいじゃない。



文章を書こうとするすべてのひとに、心からのエールを。




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