小説「観音子」覚醒の月
◎覚醒の月
そろそろ刻限だった。
長屋の外れで、二人は草履を履き替えている。
八十吉は、観音子の袖にそっと触れた。
「観音子、本当~にいいのかよ? 無理ならいいんだぞ。断ってもよ」
観音子は振り向かなかった。 ただ、袖の布がわずかに揺れただけだった。
「行こう、八十さん」
彼女はそう言うと、颯爽と歩き出した。
軽快な足取りに遅れまいと、足音が後ろから付いていく。
・・・
やがて、
二条柳町の入口を抜け、細い路地をいくつか曲がると、、
新しく二階建てに改築されたばかりの傾城楼が、派手やかな提灯の明かりを放っていた。
(ここが、、)
八十吉は門口で立ち止まり、喉を鳴らす。
観音子は構わず、格子戸を自ら開けた。
中から出てきた若衆の佐吉は、彼女の顔を見た途端、
息を呑んだ。
「楼主の喜三郎さんに、お目通り願いたいのですが」
澄んで、しかし芯の通った声
「しょ、少々、お待ちを、、」
佐吉は踵を返し、奥へと去っていく。
やがて、大柄で引き締まった体躯の男が、落ち着いた足取りで現れた。
喜三郎である。
黒褐色(こくかっしょく)に輝く面構えから、強靭な意志を秘めた眼光が覗く。
と、同時に
商売人らしい勘と野心も全身から溢れ出ていた。
まだ若いながらも、すでに周囲を圧する存在感がある。
(ほう・・)
喜三郎は観音子を一目見て、目を細めた。
「これは、お前さん、随分と良いものを連れてきたな」
八十吉は愛想笑いを浮かべながら、頭を下げた。
「へ、へえ、こいつは俺の女でして、ええと、、」
観音子は、八十吉の言葉を遮るように一歩前に出る。
「観音子と申します。
どうか、よろしゅうお願い申し上げます」
背筋を伸ばし、堂々と喜三郎の目を見つめる。
その姿に、喜三郎の口元は緩む。
(ふむ、育ちが良いな。
顔も、声も、所作も。
しかもこの気品、これは新造から育てるまでもないわ。いや、それどころか・・・)
彼は大きく頷き、
満足げに言う。
「そなたらに異存がなければ、
こちらは申し分ない。
明日には取り決めいたすこととしよう。
して、、奥方様は、、如何なさいますかな?」
観音子は静かに、しかしはっきりと答えた。
「はい。
どうぞ、よろしゅうお願いいたします」
その瞬間、喜三郎は満面の笑みを浮かべた。
八十吉はただ、観音子の横顔をちらりと盗み見ながら、
小さく肩をすぼめていた。
・・
外に出ると、
八十吉はようやく観音子の袖を掴んだ。
「ちょいと観音子よぉ、お前、、怖くねえのかよ?」
観音子は静かに首を振った。
「怖いものなど、もうありませぬよ、八十さん。
生きていること以外にね、、」
・・
月明かりに照らされた
観音子の横顔は、
白く
冷たく
そして
ただ、、
美しかった
・・・
