愛の行き場を、手渡していくということ
こんばんは。
おさゆです。
今日は、
深い悲しみのご縁が交差する中で、
思いがけず、あたたかな温もりに
触れた日のことを書きます。
今年に入って公開した記事に、
とても嬉しいコメントをいただけることが
多くなりました。
読ませていただくたびに、
画面の向こうで椅子を引いてくださる音が
聞こえる気がしています。
誰かが、言葉の前にそっと腰を下ろして、
なにも言わずにそこに居てくれているような。
ただ、「ここに居る」ことを
選んでくれた人の重みみたいな。
ありがたいというより先に、
胸の奥がじんわりと温かくなるんです。
だからこそ、これからも
そんな温もりを大切にしたい。
「あなたはいま、なぜそこに居ますか」
「なんのために、そこに居ますか」
この問いは、いつもわたしの足元に
置いている問いです。
答えを出すためではなく、自分自身の
立ち位置を確かめるための問い。
迷ったとき、
ここに書く理由を見失いそうになったとき、
視線を落とせば、そこにある問い。
わたしは普段、仏事の仕事にも
携わっています。
先日仕事で、
わたしより四つ年上の娘さんを亡くされた
ご家庭を訪ねました。
出迎えてくださったのは、
八十歳を超えておられるであろう
お父さんでした。
その方は、三年前にも息子さんを
亡くされています。
同じ「親」という立場で、我が子に
先立たれた悲しみ。
その深さが、どれだけ計り知れないかを
知っているからこそ、
玄関に入る前から、胸の奥で「思い」は
すでに、共有しているかのようでした。
最近は、わたし自身も
息子を亡くしたことを、あまり口に
しないようにしていました。
話さないというより、言葉にすると、
未だ形を保てない部分が零れ落ちそうで、
そっと避けていた、という方が
近いかもしれません。
でもそこでは、自然に口をついて出ました。
「実は、わたしも息子を亡くしたんです」
そうお伝えすると、その方の表情は
ガラッと変わりました。
驚きでも、同情でもなく、
「わかる人」が来たといった空気。
多くを語らなくても、そこから先は、
説明がいらない距離感みたいなものが
一段深くなった場所にいるようでした。
我が子を失ったあと、人に会いたくない時期が
わたしにもありました。
かけられる言葉が、善意であればあるほど、
遠く感じてしまう時期。
触れられたくない話題があり、
守りたい沈黙がありました。
でも、
同じ体験を持つ人だけは、なぜか特別だった。
言葉を選ばなくていい。
泣いても、
黙っても、
取り繕わなくてもいい。
その方も、きっと同じだったんだと思います。
少し、肩の力が抜けたような、
少し、お顔にほころびを帯びた柔らかな表情で
娘さんの話をぽつぽつとしてくださいました。
途中、言葉が途切れる時間もありましたが、
それもまた、話の一部としてその場に置かれていました。
帰り際、
「ちょっとこっちへ」と呼ばれた庭。
冬の光が斜めに差し込む軒下に、
玉ねぎやじゃがいもが、山のように
置かれていて、
奥様との二人暮らしでは、
到底食べきれない量。
そして、
「好きなだけ持って帰って」
そう言ってくださったあと、
少し間を置いて、静かに言われました。
「自分も、もう長くはないでしょう。
気に入った人には、分けられるものは
どんどん分けていきたいんです」
その言葉の奥に、ほんの少しの寂しさが
見え隠れしていました。
でもそれ以上に、その方の中に満ちている
温かさが、確かに伝わってきました。
抱えきれない悲しみを、通り抜けた人だけが
持つ、静かな深み。
「ああ、人は、こんなふうに
悲しみの中でこそ、魂を磨いていくのかも
しれない」
そんなことを、帰り道のハンドルを
握りながら、何度も反芻していました。
大切な人を亡くしたときの、
いちばん辛いこと。
それは、自分の中にあふれている愛の
行き場が、突然、なくなってしまうこと。
渡す相手を失った愛は、行き場を探して
内側であふれ続けます。
でもその方は、その愛を少しずつ、
外へ、誰かへ、手渡そうとされていました。
魂の成長。
愛の拡がり。
人は、それを体験するために、
命を生きているのかもしれない。
近頃、そんなふうに感じる出来事が、
身の回りで重なっているように感じています。
だからこそ、なぜ言葉を書き続けたいのかと
問われたら、きっと、こう答えます。
わたし自身が、
誰かの言葉に、
何度も、何度も、
暗闇で救われてきたから。
そして、
言葉は「今すぐ」届かなくても、
その人のタイミングで、
その人に必要なときに、
ふと光ることがあると知ったから。
体験や、失敗や、喪失や、日々の中で拾った
小さな感覚を、そのまま置いておく。
そこに、いつか誰かが、
「あ、ここに座っていいんだ」
そう感じてくれたら、嬉しいんです。
ただ、一緒に座るために。
なぜ、
わたしたちはここに居るのか。
なんのために、ここに居るのか。
肉体があるからこそ、
目に見えない「こころ」をこうして
交わすことができるなら、
ダイヤモンドが、ダイヤモンドでしか
磨かれないように、
人のこころもまた、「こころ」でしか
磨けないのかもしれない。
そして、触れ合うことで磨かれていくこころ。
それが、「真心」なんだと思うんです。
別れは悲しい。
3年半前、我が子を失うという
受け入れがたかった現実。
どう意味付けをしたらいいのか、悲しみと
苦悩で混乱するばかりでした。
でも、その道の途中で確かに出会いがあり、
こころが触れ合い、そのこころが少しずつ
形を取り戻していく瞬間があった。
noteというこの場所も、そのひとつです。
この世界は、現世(うつしよ)だと
言われています。
そして、あっちの世界が
常世(とこよ)だと。
この世界の目に見えるものは、
目に見えない「こころ」で支えられている。
その支えの中で、わたしは学んだ愛の
かたちを、胸いっぱいに抱えて還りたい。
あちらの世界へ還るとき、
持ち還れるのはきっと、
「真心」だけだと思うから。
その途中で、誰かの足元を、
ほんの少し照らせたら。
そんな願いを、今日も言葉にしています。
おさゆ
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