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ネット怪談の民俗学を読んだ。境界線と恐怖を味わう姿勢について



ネット怪談世代

今から10年以上前の話になる。くねくね、きさらぎ駅などとして知られるネット怪談が流行っていた。僕はそれをリアルタイムで楽しめた世代だった。

オカルト板などで1次ソースをリアルタイムで追っていたというほどではないのだが、これらの怪談がコピペを繰り返し伝搬されていく中に僕はいた。今にして思えばが貴重な体験だったのだろうと思う。

ネット怪談を民俗学者が読み解く

ネット怪談の民俗学は、ネット怪談を改めて定義し、真面目にマジレスした本である。この手の物語を楽しんでいる最中にマジレスするのは野暮だ。だが、時を経て思い出となった今なら、マジレスはマジレスで楽しめる土壌を持った人はたくさんいるんじゃないだろうか。

マジレスといえば、そういう物語のさなかでの不信の念を停止できない人についての言及もある。そのような物語をあからさまに茶化したり、重箱の隅をつつくことでネタであることを確定させようとしたりする。物語をネタであろうがなんであろうがただ受け入れて楽しむという姿勢は、現代失われつつあるような気もする。はっきりさせることによって得られる安心感がほしいというのが現代的な価値観なのか、今ネット怪談はさほど流行っておらず、映画という嘘として受け入れやすそうな媒体で楽しまれるのはそういう背景もあるのではないかと思う。

それはそれとして、不特定多数によってこぞって構築された伝承を「真面目に研究する」と書いて「マジレス」と読む。本著では、それが民俗学だと語られている。

恐怖を味わう姿勢

本書を通して考えさせられたのは、人々の恐怖を味わう姿勢についてである。例えばきさらぎ駅なんかは、実況という体を取ったホラーであることもあってかなり臨場感のあるホラーだと言える。ちょっと本当のことのように思えつつ、しかし心の何処かでそんなわけ無いだろ、と思っている。いや、わかっているというべきかもしれない。携帯電話が異世界で通じるわけが…と、どこかで反証しようとする。しかし、そんなことはわかって、あるいはわからないふりをして、もしくは、わかってはいるつもりだけど、これが事実ではないという証明もまたできないよね?と思いつつ読んで楽しんでいる。

そしてさらに重ねるなら、事実ではないという証明が可能であったとしても、それをあえてやらないことで楽しむのがネット怪談の、あるいは怪談自体の楽しみ方、姿勢なのだ。

その姿勢は現代にも受け継がれている。例えば、雨穴さんの「変な家」を始めとして、彼の作品はそういう姿勢が前提となって構成されているように思う。僕が好きなのは「【最後の5分ですべてがひっくりかえる】差出人不明の仕送り」である。

こういう最後の5分で…みたいな文句は正直大嫌いで、彼の作品でないなら見ていない。そして、見てよかったと思わされた。

彼の作品はネット怪談の文化に触れてきた人間の構築の仕方だと僕は思わざるを得ない。事実とかネタとか、そういうのはどうでもよくて、今ここにあるホラーを人々に展開する。本書で言うところのネット怪談と違う点は、コピペや改変を通して伝播していかない、という点だ。ホラーブームの終焉には、このようにつくり手が明らかなホラーが作品として受ける時期が来たのが原因の一つではないか、と本著では語られている。作家性を感じさせないからこそ、ネット怪談は同年代でインターネットに触れていて人々の間を、まさに民間伝承のように伝播していったのだろうか。

恐怖を味わうための境界線

姿勢につながる話だが、この本を読んだ以上は語らねばならないことがある。境界線について、だ。

本書のかなり早い段階で、いわゆる「因習村」のようなホラーについても触れられている。これについて、下記のような記述がなされている。

日本のホラー界隈でも、フォークホラーの広まりに連なるように、田舎を危険なものとして描くことが流行っているらしい。これに対しては、2020年に、「近年、田舎を田舎というだけで何が起こっても許される装置として乱暴に描いてしまう応募作が多い」という批判がなされている

ネット怪談の民俗学 87ページより引用

示唆に富んだ内容だと思う。日本の人口の多くは都市部に集中している。東京だけではない。大阪や名古屋といった地方都市にも集中は見られており、いわゆるドストレートな田舎に住んでいる人のほうが少ない。そして、これは人々の間に境界線を敷いている。わたしたちと彼ら、という2つの集合の間に境界線を引くことで向こう側を「なにかおかしなことがあってもおかしくない」という異界に見立てて話をするホラーが多く見られるのだ。

境界線と道筋について

しかし、完全に境界線で区切られた話は面白くない。どこか現世と地続きであるということは意識させられつつも、自分はあくまで安全圏にいるのだ、という安心を得られたうえでの、田舎という異界の話が好まれるのだ。日本の田舎は間違いなく存在するし、そういった田舎から都市部に出てきた人も多い。あるいは、田舎だけどホラーに出てくるここほど田舎ではない、と思ったりも出来る。そうすることで、明確に境界線は引きつつも地続きであるという、じわじわと這い寄ってくるような恐怖を味わうための装置として田舎が使われる。

しかし、これは昨今の異文化への理解が求められる風潮とは真逆を行っていると言える。僕はド田舎の出身で、そのド田舎出身の視点で言えば田舎のほうが異文化に対して差別的だったり排他的な感覚を持っている人は見られる。これは単に高齢者にそういう人が多い、というだけであり、僕がド田舎にいるときは高齢者と話しがちだというだけかもしれない。長年接してきた価値観は変えづらいのは当然のことだ。

では、都市部においてはどうだろうか。異文化への理解や多様性への配慮なんて言うのは、それこそ都市部で多く叫ばれている風潮ではないのか。であるにも関わらずこのようなホラーが受けるというのは、どうにも矛盾があるようにも思える。

異文化を恐怖の対象として無邪気に楽しむのは、単に無理解からくる稚拙さの現れかもしれない。祭一つとっても、過去にはおどろおどろしい由来があるかもしれない。だけど、その祭は今なお人々の中で、新たな価値が見出されて育まれていることもある。今なおおどろおどろしい由来に基づいた因習が行われているのだというホラーの展開は、相当な理由付けや背景がないと稚拙な作品に成り下がる。田舎は田舎であるだけでこういう事が起こっても不自然ではない、という乱暴な舞台装置として扱うのは、単に作品として稚拙に見られるようになっている。

言ってみれば、ドラゴンボールが流行ったからと言って、戦闘力がインフレしてくだけのバトルモノが受けるわけではないというだけの話だ。だが超サイヤ人とは違い、日本には確かに田舎が存在し、そこに住んで人生を育んでいる人達がいる。舞台装置として扱うなら、それ相応の作家性を発揮した作品でなければ、ただつまらない作品という評価だけで済まない日も来るだろうと思わされた。

境界線の上

ところで、境界線と言えば、古代から伝わるような怪異譚においてはあらゆる境界線が舞台となりがちだ。逢魔が時、夕暮れなどはあちら側と混じりやすい時間帯として扱われ、こちら側とあちら側の境界線があやふやになる場所として山は神聖視されたりもする。

あなたと「ネット怪談の民俗学」の間には、このnoteという境界線が敷かれていて、今その上にあなたは立っている。そのままだと怪異に魅入られても仕方がないので、ここまで読んだのなら楽しめると思うからぜひ手の取ってほしいと思う。


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