亀戸町のお為さん(嘉永七年)
20 海老蔵の切り首
京都に着いた為たちは、海老蔵と縁故の深い、当地の顔役、伊勢梅の家へ寄った。その時ちょうど伊勢梅も大阪から帰って来たばかりだったようで、為たちを見て、
「どうしてお出でなすった。こっちの事を聞いてから求なすったのか」
と聞いた。実は江戸では何も知らず、途中で聞いたのだと、為はこれまでの経緯を説明した。伊勢梅は聞き終わると、
「八代目は武士の様に立派に腹ぁ切って亡くなりなすったよ」
と言った。これから大坂へ向かうと為が言うと、伊勢梅は止めた。
「まあまあ、しばらくここで待っておいで。今、この大騒ぎの最中に行ったところでどうなるものか。わしがまた行って、七代目にお前方の身の始末は聞いて来てあげるから、それまでここで待っていなさるがいい」
為は伊勢梅の言う通りだと思った。今大阪へ駆けつけたところで海老蔵に迷惑をかけるだけだ。為は萬吉と正吉の様子を思い返した。
(二人は私を避けているようだった。あの様子では、自殺の原因は私にあるとでも言われているのだろう)
為たちは伊勢梅の言う通り、ここで海老蔵の返事を待っていることにした。
戻ってきた伊勢梅から為が受け取ったのは、海老蔵からの離縁状だった。海老蔵は伊勢梅に、
「為とは離縁する。あかん平は俺の子だからゆくゆくは引き取るが、当分は勘当という事にして、加納と一緒に伊勢梅で預かってもらいたい」
と言ったという。これには為より加納が激怒した。
「とても承知できません。わたくしがこれから直ぐに大坂へ行って、七代目さんに掛け合ってきます」
「ばぁや、お前がそう言ってくれるのは本当に嬉しいけれど、今は何を言っても駄目なのだよ。お前は薩埵峠で会った萬吉と正吉のあの様子をどうお思いだ。今度のような事がなくってさえ、わたしの評判はいつも悪い話ばかりだったのに、こんな事があって、しかもその騒ぎの起った膝元じゃあ、こりゃあ行ってみなくっても、大抵察しもつこうじゃないか。その最中に入っていって何をしようと、何を言おうと、もうどうにもなる事じゃあないよ」
「いいえ、あなたが我慢なすっても、わたくしが我慢しません。よし親方へ言って駄目だとしても、せめて文句を言わせてください」
いきり立っている加納に何を言っても無駄だった。加納の強情さをよく知っている為は、仕方なく行かせることにした。
加納は伊勢梅から子分を一人借り、あかん平を連れて大坂へ向かった。

役者たちが八代目団十郎の回向をしている
(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)
翌朝大坂に着いた加納は、すぐその足で海老蔵の宿へ行った。加納はとにかく、海老蔵の本心が知りたかった。加納はあかん平に「一人で来た」と言うように言い含め、子分と二人だけで海老蔵のいる部屋に行かせた。
海老蔵はあかん平を見て喜んだ。
「平、お前ここへ誰と来た」
「一人で来たんだ」
「いや、ばぁやと一緒に来たんだろう」
「ううん、ばぁやは来ないよ。おいらぁ一人で来たんだ」
「そうじゃねぇ、ばぁやが一緒だろう」
加納は次の間ではらはらして聞いていた。ここへ伊勢梅の子分が助け舟を出した。
「本当にばぁやさんは参りません。わたくしが頼まれてこのお子をお渡し申しに来ましたのです」
海老蔵は意外に思った。
「おいらに、この子を」
「はい。何卒この子をお引き取りなすってくださいまし」
子分は加納に頼まれた通りの台詞を言っている。海老蔵は、
「そりゃもう、俺の子だから引き取るとも」
と言った。するとあかん平が泣き出した。
「いやだいやだ、おいらぁここに一人でいるのは嫌だ。ばぁやと一緒に来たんだから、ばぁやを呼んでおくれよ」
海老蔵はやはりそうかと、加納を呼んだ。加納は襖を開け、海老蔵の前に座るなり言った。
「親方、あなたも随分わからない方です。誰に知恵をつけられたか知りませんが、罪も粗相もないお為さんを出すという事がありますか。誰が何と言っても、道が違っていますから、わたくしが承知いたしません」
海老蔵は加納の勢いに押され、弁解するようにこう言った。
「まぁいいよ、わかったよ。おいらぁ、何でもわかっている。しかし、今は何とも仕方がない。またいろいろと事情もあることだから、しばらくの間辛抱してくれろ。今に折りさえあったら、あれの身の振り方も、きっと付けてやろうから」
「そうですか。理由さえわかれば、辛抱もいたしましょう。今すぐ京都へ帰りもいたしますが、実はお為さんが止めるのを、無理に言い張って飛び出して参ったのです。わたくしも子どもの使いではなし、このままでは帰れませんから、何かお為さんへ挨拶をなさってくださいまし」
海老蔵は黙って立ち上がり、舞台で使う自分の顔を彫った切り首を持ってきて加納に渡した。
「これをお為に持って行ってやってくれ」
加納は受け取って海老蔵に別れを告げ、あかん平と子分を連れて部屋を出た。門口に猿蔵が待っていた。
「ばぁや、平のことや、おっ母さんのことを何分よろしく頼むよ。おいらもお父っさんの心持ちはよくわかっているけれど、お父っさんも年をとってからこんな目に遭いなすって、本当にお可哀想だ。一日も早く元通りにしてあげたいものだが、それまでしばらくの間、伊勢梅さんのお世話になっていておくれ。おっ母さんの行末は必ずおいらが引き受ける。お父っさんに万一の事があっても、それまでにはおいらも一生懸命に舞台に励んで、いい役者になる覚悟だから、そうなれば、平やおっ母さんの面倒は、きっとおいらが見てあげるゆえ、おっ母さんへ気を落とさぬようにと言っておくれ」
猿蔵のこの言葉を聞けただけでも、ここに来た甲斐があると加納は思った。
「はい、お為さんへは、私がよくわかるように申し上げますから、坊ちゃんも何卒ご安心なすってください」
猿蔵にそう言い、加納は切り首を抱え京都へ戻った。
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