見出し画像

亀戸町のお為さん(嘉永七年)

17 為、加納と亀戸へ

 実家越前屋での暮らしは、木場で気を遣いながら暮らしていた為にとって久々に訪れた平穏な日々であった。為の悪い噂は亀戸へも流れてきていたはずだが、吉右衛門夫婦は何も言わず、二階の一部屋を空けてくれた。
 店を閉め隠居していた吉右衛門夫婦は、あかん平とひろを実の孫のようにかわいがり、あちこち連れ歩いた。食べ盛りの二人は亀戸天神で食べたくず餅を気に入り、何度でも食べたがった。

亀戸天神境内のくず餅(イメージ)


 越前屋は廃業していたが、海老蔵からの仕送りのおかげで加納と子どもたちと四人、なんとかやっていけそうだった。木場の家は出たがこれきり縁を切るつもりはない。為は程よく木場と猿若町に顔を出して、すみと里との関係を保ち続けた。八代目から呼ばれて、木場の雑用を片付けにいく事もあった。
 加納もあかん平の稽古をまるっきりほったらかしのままにして置くわけにもいかないので、時々は猿若町にあかん平を連れて行った。

 為が木場に行くと、猿蔵はいつも芝居の話をした。権十郎が年下ながら踊りや所作が上手いのを見て、このところ女形が多い猿蔵は、だいぶ刺激を受けているみたいだった。猿蔵はまた、面倒見のいい兄八代目をとても慕っていた。
 幸蔵も、年の近い権十郎と仲良くやっているみたいだった。為は息子たちが互いに刺激し合って成長していくのを頼もしく思った。

八代目と共演する女形の猿蔵
嘉永六年一八五三年一月十五日 中村座にて
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 嘉永七年六月のある晩、八代目が相談があると言うので、為と加納はひろとあかん平を連れ、木場に泊まりに行った。八代目の相談は、もう身体がもたないから、自分も海老蔵のいる大坂へ行きたいというものだった。為は驚き言った。

「あなたまで行ってしまったら、江戸の歌舞伎界はどうなりますか」

「だけどお為さん、このまま江戸で働いていても、とてもこの借金は返しきれないよ」

 八代目に最も多く金を貸しているのは、河原崎権之助だ。歌舞伎役者は通常、座元と年間契約を交わし、客に飽きられないよう江戸三座を代わる代わるまわる。現在八代目は市村座と契約中だが、借金中の八代目の身体は権之助の自由にされていた。権之助が組む日程は容赦がなかった。出ずっぱりで働かされている八代目が根を上げるのも、無理もない事だと為は思う。しかし権之助という男は、自分自身にも厳しいのだ。
 嘉永二年一八四九年に権之助は、妻みつとの間に息子国太郎を授かった。それでも為の子権十郎を後継者にするという約束が破られることはなかった。権十郎は現在、権之助始め、権之助の妻みつ、母常、息子国太郎からも、河原崎座を継ぐ若太夫として扱われている。
 権之助は厳しいが、一度交わした約束は守る誠実さがあった。決して悪い人間ではない。

(それにしても)

と為は思った。いいように使われている八代目のことは、為もずっと気の毒に思っていた。

「親方、少し考えさせてください。明日また話しましょう」

 事が事なので、為はすぐには答えを出せなかった。返事を先延ばしにされた八代目は、もやもやした気持ちを抱えて寝室に入った。


 しばらくして、寝ている為の枕元で

「お為さん、お為さん」

と呼ぶ者がいる。為はびっくりして目を覚ました。為の枕元には八代目が座っていた。

「親方、どうなすったのです」

 隣室で寝ていた加納も目を開き、何事かと聞き耳を立てた。

「借金のことが気になって気になってどうしても寝付けないンだ。いろいろ考えてみたが、やはりこのままじゃあ、到底やっていきゃあしないよ。あっしは決心した。大坂へ行って、親父と一緒に働こうと思う」

「いけません、それは悪い御料簡です」

「だってお為さん。河原崎さんのやり方があんまりひどすぎる。あっしも、まぁどうやら人気が出て、見物方が何とか言ってくださるから大抵のことは辛抱して黙っているようなものの、それをいいことに散々こき使われ、しかも人気があるからいいわ、まだ若いからいいわで出すものも出し渋られちゃあ。あっしだって丈夫な身体じゃあなし、借金は山と積み重なるし、今におふくろや大勢の兄弟たちも養いかねるようになったらどうしよう」

「おっかさんやお里さんは承知なんですか」

「いや、そりゃあまだ言っちゃあいない。どうせ言ったところでちゃんとした分別の出来る人達でもなし。ねえ、お為さん、お前さんは大坂の勝手はよく知っているはずだ。どうか相談に乗っておくんなさい」

「わかりました。それでは、大坂に手紙を出しましょう」

 思いがけない為の言葉に、加納は驚いて飛び起きた。見透しの利くお方ゆえ、いくら止めても無駄だと早々に観念したのだろうが、そんな事になってはまた世間に何を言われるかわからない。加納は慌てて立ち上がり、襖を開けた。

「お為さん、それはいけません。手紙なんぞお止しなさいまし。親方、あなたもあんまりなお人ですねえ。そんな事をなすったら、お為さんがどう言われるとお思いです。それでなくってさえ、やれ、お為さんが成田屋の家を自分がいいように掻き回しているの、それ、おかみさんやお里さんを押しのけて威張り散らしているの、いいえ、ひどい奴は、あなたを早く隠居させて、自分のお腹の猿蔵坊ちゃんを九代目にしようと企んで、七代目さんを頻りと焚き付けているのだなぞと、もう言いたい放題のことを言っているところじゃあございませんか。そこへ、お為さんの手紙で、あなたの大坂行きにでもなった日にゃあ、人気盛りを奪われる太夫元や、又あなたを贔屓にしたいばかりに、勝手に仇をこさえて、お為さんを悪く思いたい世間の人だのは何と言いましょう。きっと、お為さんがお金欲しさにあなたを引っ張り回すんだと言うに決まっています。いえいえお為さんばかりじゃあ、すみません。大親方だって、それにつれて必ず悪名をつけられます。そんなことになったら、あなた子として道が違やぁいたしませんか」

 加納は言い出すと止まらないのだ。それを知っている為と八代目は、ただ黙って聞いていた。

いいなと思ったら応援しよう!

お瀧 / 歌舞伎の町亀戸の魅力を発信する人 よろしければ応援お願いいたします。いただいたチップは浮世絵購入に使わせていただきます。