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亀戸町のお為さん(天保十四年〜)

8 為、大坂へ

 父海老蔵から当分の間大坂に落ち着くとの連絡を受けた八代目は、駕籠を出して和泉屋の為を木場に呼んだ。そして母すみと里と為を居間に集め、三人のうち誰かに父の世話を頼みたいと言った。 

 為は行きたかった。しかし一時的なお世話ならまだしも、大坂で長く暮らすとなれば正妻であるすみが行くのが筋と思い黙っていた。するとすみが

「とても一人ではあのお方のお世話はいたしきれませぬ」

と言いだした。これまでずっと、妾の里と二人で世話をしていたのだろう。為がそれならばと里を見ると


「私も身体が弱うござりまして、無理でございます」

と言う。為は八代目に目をやった。八代目は頷き

「お為さん、是非お前さんが行って、親方の面倒を見てやってください」

と言った。猿蔵とあかん平の面倒はきちんと木場で見てくれるという。為は承諾した。子どもと離れるのは辛いが、海老蔵を一人にはしておけない。それに大坂には、海老蔵専属の床山、木場直と一緒になった加納かのがいる。

市川家木場の自宅外観
俳優三十六花撰 「白猿 木場の夜雨庵」 北渓画
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 大坂では天保十四年一八四三年三月に、贅沢禁止令に触れたとされ二代目中村富十郎が摂河泉三か国を追放となっていた。富十郎は追放範囲外である堺に落ち着き、戒之町大道で「八幡や」という小間物屋を営み、富十郎目当ての歌舞伎客相手に大繁盛させていた。

 富十郎を失った角座の客は、江戸の看板役者海老蔵の大坂入りを歓迎した。しかし海老蔵の角座出勤はすんなりとはいかなかった。十一月の出演許可はおりたが、角座と年間契約を結ぶとなると、江戸幕府の正式な許可を待つ必要があった。

「浪華百景/道頓堀角芝居」国員画
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 海老蔵と為の大坂での落ち着き先は、角座に近い坂町天神前に決まった。為は残してきた子を案じながらも、この成り行きにどこか運命めいたものを感じずにはいられなかった。喜ばしい経緯ではないにしろ、これからしばらくの間、海老蔵と生活を共にすることができるのだ。海老蔵の生家である和泉屋においてもらった時から、為は海老蔵との強い縁のようなものを感じていた。


 一緒に暮らしてみてわかったことだが、海老蔵は休みの日も、家でじっとしていることがほとんどない。湯屋へ行ったり散歩に出たり、とにかく戻ったと思ったらまたすぐ出ていくのだ。その都度着替えを手伝うのだから、為はすみが大坂行きを辞退したのもわかる気がしてひとり笑った。 

 海老蔵は大坂にいる門人市川米十郎に四代目市川小団次を襲名させるため、その根回しに動いていた。米十郎とは、米十郎がまだ九歳の子役時代に江戸で出会い、門人にして市川を名乗らせ上方の子ども芝居を世話してやった経緯がある。それ以来上方で実力をつけてきたよねを、海老蔵は自分が大坂にいる機に引っ張り上げたかった。
 為は海老蔵が自分の不遇中にもかかわらず門人のために動き回っていた事を知り、海老蔵の人としての大きさと底力を見る思いがした。

「江戸に戻れないなら、大坂でできる事をするまでだ」

と海老蔵はすっかり切り替えている。為はその潔さに感嘆した。

(たとえ江戸から追いやられても、やはりこの人は江戸一番、いいえ、日本一)

と為は思った。何度も出稼ぎに来ていただけあって、海老蔵は大坂でも顔が利くみたいだった。


 弘化元年正月十八日、米十郎は角座の舞台で無事四代目市川小団次を襲名した。一仕事終えた海老蔵は上機嫌だ。


「よし。猿蔵も大坂に呼ぼう。あいつも上方の子ども芝居で経験を積ませたい」

「猿蔵が喜びます」

為は賛成した。


 夏になると海老蔵は、よねと富十郎に声をかけ、伊勢へ旅興行に出かけていった。為が三人目の妊娠に気づいたのは、その興行中のことであった。その少し前、妹分の加納かのの妊娠を喜んだばかりだった。

 加納かのは為への恩義から乳母に上がることに決め、翌弘化二年一八四五年二月に女の子を生むと、情のうつらないうちに伏見へ里子に出した。その心意気に打たれた海老蔵は加納かのを正式に堀越家(市川家の本名)の養子とし、三月に坂町の家へ迎え入れた。

 同年四月半ば、為は男の子を出産した。海老蔵にとっては七男にあたる。海老蔵は木場にいるもうすぐ二歳になる六男あかん平に二代目市川幸蔵(初代幸蔵は五代目団十郎)を継がせ、坂町の家で生まれたこの七男を二代目市川あかん平とした。

「道頓堀芝居側」 広重画
ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースより)


 八代目が北町奉行所に呼び出され表彰されたのは、あかん平が生まれた翌月(弘化二年五月)の事だった。表彰の理由は海老蔵が追放されてからの親孝行についてで、褒美として銭十貫文が授与された。申し渡しの文面には、毎朝茶断ちをして蔵前の成田不動の旅所に通い海老蔵の赦免を祈っている事や、

・海老蔵が成田山に行ってから、ずっと少ない給金をやりくりし仕送りを続けていた事

・大坂に落ち着いてからも手紙での見舞いを欠かさなかった事

・残された母と弟妹の面倒のみならず海老蔵の門人の世話までしていた事

などなど、実に具体的に事細かく記されていた。あまりの詳しさに八代目と家の者たちは、木場の家に一年ほどいて行方をくらました新参の下男が密偵だったのだろうと、すぐ理解した。真面目でよく働き、すみたちに気に入られていた男である。名は新助といった。
 市中では幕府が密偵を複数雇い江戸市民を監視しているらしいとの話が噂になっていたが、木場宅に入り込んだ密偵新助は、何が目的なのか八代目の良い行いばかりを報告していた。

 賢い為はこの知らせを受け、海老蔵の追放による江戸市民の怒りを鎮めるため、幕府が八代目を利用したのだとすぐに気づいた。この八代目の美談は張り紙により江戸市中に知られるところとなり、ちょうど上り調子だった八代目人気にさらに火をつける事となった。幕府の思惑通り、市民の関心はけろりと八代目に向かい、海老蔵がいなくなり、ぽっかりと空いた江戸市民の心の穴を埋めたのである。


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